皆様こんにちは~(^▽^)

前回の大碓命墓考察から日が経ってしまいましたが、
本日の題材の小碓命についてあれこれ調べていたのと、
本業が多忙だった為、なかなか更新できませんでした(汗

・・・そんな訳で早速今回のお題である、
小碓命の墓について考えてみました(^^

まず、小碓命は景行天皇の皇子として生まれ、
先に考察した大碓命とは双子と書きましたが、
ヤマトタケル日本武尊と書いた方が分かり易い人物と思われます(^^

〇ヤマトタケル/日本武尊/小碓命
景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父に当たる人物で、
熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄であるが、
生年は不明、没年は景行天皇43年頃没と記載があるものの、
それが西暦何年頃に当たるかは諸説有る。
『日本書紀』では主に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、
『古事記』では主に倭建命(ヤマトタケルノミコト)と表記される。
現在では漢字表記の場合に「日本武尊」の用字が通用される。

まずは治定されている3基の墓を1基づつ。。。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇能褒野墓:三重県亀山市田村町
      考古学的名称は能褒野王塚古墳
      全長90mの前方後円墳
      4世紀末の築造と推定
仮に小碓命が実在したとしても、時代は弥生時代中期~後期頃である為、
年代が合致しない。
周囲に多数の陪塚を伴うが、前方後円墳に埋葬されている人物の、
従臣や親族の古墳群であるとされる。
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墳丘実測図拡大(見易くする為に画像を傾けてます)
後円部頂部平坦面上の北西側端に更に1段高くなった箇所が有る為、
この直下に主体部が有るものと想定されています。
また、前方部頂部にも方形の土壇が有る為、
こちらにも何らかの主体部が有るとされています。
周濠が墳丘の周囲に巡っている様に見えますが、
宮内庁の治定を受けて改修された際に造られた周堤と思われます。
北西から南西に掛けての部分が台地縁辺に接している事から、
相当な権力を有していた豪族の墓と思われます。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇白鳥陵:奈良県御所市富田
     公式形状は長方丘(幅約28m✖約45m)だが円墳とする説有り
     異称で権現山・天王山と呼ばれるが、古墳では無いとする説も有る
能褒野から都に向けて白鳥が飛び立った際に、
羽を休める為の休憩として降りた地に造られたとされる伝承が有るが、
最近の調査では古墳では無く、自然丘陵や地ぶくれであるとされています。
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墳丘実測図拡大
長方形墳としていますが、西側のみ数段高くなっており、
東西の墳丘裾のラインが緩やかな弧線を描いている事から、
元は円墳だったとする説も有りますが、、、
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円墳だったとするならば、北西側隅のこの2箇所が該当箇所でしょうか?
特に北西隅の楕円形状の所には露出石材を示す物体がマークされています。
特に土器や埴輪などの類が出土したとの話は無いので、
元々はこの地にヤマトタケルに関係する祠や堂が有り、
その名残りとも考えられるかと。。。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇白鳥陵:大阪府羽曳野市軽里
     考古学的名称は軽里大塚古墳/前の山古墳/白鳥陵古墳
     全長190mの前方後円墳
     5世紀後半の築造と推定
明らかに小碓命の時代と一致しない為、
命とは別の有力豪族の墓であると推定されている他、
『河内国陵墓図』では木梨軽太子(允恭天皇の第1皇子)の「軽之墓」と記載されてます。
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墳丘実測図拡大
くびれ部(鞍部)北側の造出しが目立ちますが、
南側にも小さく造出し様の部分が見られます。
後円部頂部平坦面が広い事から、複数の主体部が想定されています。

他に治定外の古墳として、
・白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)円墳
・武備塚(鈴鹿市長沢町)円墳
・双子塚(鈴鹿市長沢町)前方後円墳 
 =日本武尊は双子で二人とも葬られたという伝承が有ります。
  確かに大碓命・小碓命は双子という記載が『記紀』には有りますが、
  それだけでヤマトタケルの墓とするには根拠が薄く疑問
  兄弟皇子が仲良く?一緒の墓に埋葬された例は皆無です。
掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)前方後円墳 
 =大和の白鳥陵が他の2基に比べて規模が小さい事が理由ですが、
  年代は合致してません
・峯ヶ塚古墳(大阪府羽曳野市)
 =近年豪華な副葬品が出土した事で知られてますが、
  日本武尊の年代とは合致してません

『日本書紀』では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は、
官人に命じて伊勢国の「能褒野陵」に埋葬させたが、日本武尊は白鳥となって飛び立ち、
倭の琴弾原、次いで河内の旧市村に留まったので、それぞれの地に陵が造られた。
そしてこれら3陵をして「白鳥陵」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。」
=この説が正しいとすると、能褒野陵にのみ人体埋葬が有り、
 他の2陵は遺骸埋葬が無いとなります。
 しかし、羽曳野市に有る軽里大塚古墳からは、
 主体部は不明なものの、円筒埴輪列が後円部に確認されている上、
 朝顔型埴輪の他、家や蓋などの形象埴輪が出土している事から、
 日本武尊とは別の人物で当地を治めていたであろう首長が埋葬されている古墳と思われます。
 能褒野陵の方も、大きな前方後円墳の周囲に夥しい量の陪塚を伴いますが、
 日本武尊の年代と合致しない為、やはり日本武尊は、
 空想上の人物ではないかとする説が現実的
です。
 仮に当時16歳で熊襲征伐に派遣された事が本当だとしても、
 何故、全国に日本武尊伝説や伝承が有るのかは不明です。
 おそらく日本武尊にかこつけて(無理矢理こじつけて)、
 さも「この伝承は日本武尊が発端だ」として、
 地域活性を計ったのかもしれませんね(^^;
 また、ヤマトタケルが関わっている説話は、主人公の名前が各場面で変わる上、
 説話ごとに相手役の女性も全て異なる為、
 伝承のほとんどが後世に創作された話だとされています。

:ヤマトタケルの伝承:
(おおまかな概要のみを書きますので、気になる方はWikiなどでお調べ下さい)

『古事記』
父帝の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえて押し潰し、
手足をもいで薦に包み投げ捨て殺害した。
その為、小碓命は父に恐れられ疎まれて、熊襲兄弟討伐を命じられる。
この時わずかな従者も与えられ無かった命は、
叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き、女性の衣装を授けられた。

『日本書紀』
兄殺しの話は無く父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起きたため、
当時16歳だった命に討伐に遣わしたとする記載が有る。
古事記と異なり、倭姫(倭比売命)の登場は無く従者も十分な数が与えられている

『記紀』で違いが幾つか有りますが、まとめると。。。
・熊襲征伐=古事記は、わずかな従者も無し
      日本書紀は、十分な数の従者有り
・征伐理由=古事記は理由の記載無し
      日本書紀は再び叛乱が起きたから平定を頼む
・倭比売命=古事記では、倭比売命(叔母)が登場
      日本書紀には登場無し
一旦伊勢に行って女性の衣装を受け取ってから熊襲(九州南部 宮崎県~鹿児島県一帯付近)に?
皇居が奈良に有ったと仮定しても、遠回り過ぎでは???

『先代旧事本紀』
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令撃熊襲 時年十六歳
 按日本紀 當作二十七年・・・と記載が有るのみ

『肥前国風土記』
佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述されるが、
いずれも地名伝承である。
小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛(山賊?)をことごとく誅している。

尚、ヤマトタケル/日本武尊が関わっている神社や名所旧跡が有る都県は、
岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、神奈川県、
東京都、山梨県、長野県、岐阜県、石川県、静岡県、愛知県、三重県、兵庫県、
鳥取県、島根県、徳島県、香川県、福岡県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県
・・・の各都県に多く有りますが、
大阪府には白鳥陵以外に伝承が無いのが不思議です。

また、弥生時代中期~後期頃の平均寿命が14~15歳頃だと考えると、
16歳という年齢はさほど不思議では有りませんが、
時代を考えると、粗末な武器や武具で大勢の従臣や兵を連れて全国を征伐して巡るのは、
現実的に考えても不可能です。
また、『記紀』は奈良時代に編纂された神話や古代の歴史を伝える歴史書ですが、
前半部分は神話に基づく話が中心であり、創作性も高いため、
前半部分は単なる伝記とされていますが、後半部分は近年の考古学的調査により、
記述が裏付けられた例が有る
為、疑問点は相変わらず有りますが、
同時代の史料が少ない為、「とりあえず」的な感じで重要史料とされています(^^;

:結論:
〇実在しない架空の人物である可能性が大きい
=生年が不明な上、没年の西暦年も諸説有って判然としない
=熊襲征伐が知られているが『記紀』で記述の違いが有り信憑性が低い
〇多くの都県に伝わる伝承や説話は後世の創作である
=記紀には熊襲征伐のみ記載されている
〇16歳で征伐に派遣されたとあるが、現実的に考えても、
 上記の多くの都県を渡り歩くのは不可能である
〇古事記では嫌われ者として遠ざけられる存在で、
 日本書紀では天皇(父帝)の信頼が厚い存在だが、この扱いの差は何故か疑問
〇治定されている3基の墓はどれも年代が合致しない
〇仮に実在したとしても弥生時代中期~後期頃である事
〇治定されている陵墓/参考地は全て年代が合致していない

以上で日本武尊墓についての考察を終わります。