皆様こんにちは~(^▽^)

本日は景行天皇の第10番目の皇子とされる、
五十狭城入彦皇子の墓について考えてみました(^^

まず、この五十狭城入彦皇子ですが、
読みはイサキイリコノミコと読みます。。。
生没年も事績も不明となっているため、
架空の人物であり、実在しない可能性が高いとされています。
20210321_135735283
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
墓の公式形状は前方後円墳ですが、
墳丘を囲む柵は何故か前方後方状になってます。。。
20210321_135742511
墳丘実測図拡大
墓の考古学的名称は和志山古墳と呼ばれる、
全長60~80m、後円部径32m✖高さ5m、
前方部幅20m✖高さ2.5mの規模を持つ前方後円墳で、
築造年代は4世紀末~5世紀初頭と推定され、
墳丘表面は葺石で覆われ円筒埴輪列の存在が認められてます。
墳丘の等高線が乱れているのは隣接する蓮華寺の建立によるもの。
周囲に5基の陪塚を伴う和志山古墳群を形成していますが、
宮内庁治定の陪塚は有りません。
墳丘規模に関しては、平成22年に宮内庁書陵部による、
墳丘測量調査により確定しています。
墳丘の様子は深い木立に覆われている為、航空写真などでは分かり難いですが、
隣接している蓮華寺の境内などからは観察可能だと思われます。

治定の経緯は明治28年に宮内省により陵墓伝説地に指定された後、
明治29年に墳丘上にあった薬師堂及び石塔が撤去(後円部頂部平坦面が広いのはこの為)され、
大正15年に「矢作陵墓参考地」に名称変更、昭和16年に五十狭城入彦皇子墓に治定されました。

また近くにある和志取神社は五十狭城入彦を祭神として祀っている。

五十狭城入彦皇子は『古事記』には記載は無く
『日本書紀』には系譜のみで事績は無く、生没年も不明ですが、
『先代旧事本紀』や『天皇本紀』では三河長谷部直の祖であると記載されています。
しかし、生没年も事績も不明な人物なのに、何故氏族の祖先と断定できるのかは不明。。。
また、『新撰姓氏録』に景行天皇皇子の「気入彦命(けいりひこのみこと)(※)」が、
逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える事から、
この人物を五十狭城入彦皇子と同一人物とする説が有ります。
ちなみに・・・何故、皇子の墓がこの地に有る(治定されたのか)のかの理由は、
公式見解が成されていない為、定かでは有りません。

※気入彦命(けいりひこのみこと)
 『記紀』にはこの皇子の名は記載されていない事や、
 名前の類似点から、景行天皇の5番目の皇子である、
 五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)と、
 同一人物であるとする説が有る。
 尚、気入彦命も五百城入彦皇子も
墓は治定されていない
 また、五百城入彦皇子は日本書紀にのみ記載が有るが、
 
古事記には記載が無い。
  

景行天皇や垂仁天皇には皇子女が複数人居り、
特に皇子を各地へ派遣して治めさせたとの記載や伝承が有りますが、
そのどれもが確実とされる史料が無い為に、確証は有りません。。。
五十狭城入彦皇子も現在の岡崎市付近に派遣されたのかもしれませんが、
『記紀』のどちらにも事績が無いというのは謎です。
もし、実際に派遣されていたのであれば何かしらの記録がされているハズですが。。。

また、景行天皇の10番目の皇子との事ですが、
景行天皇の時代を日本の年代に照らし合わせると弥生時代中期~後期頃となるので、
この時代に近畿以外で全長50mを超える前方後円墳が造られる事は無い上、
古墳の推定築造年代と仮に皇子が実在したとしても年代が合致しません
医療が発達していない上、衣食住も現代と比べると大変貧相だったと思われる為、
弥生時代頃の平均寿命は14~15歳程度とされています。
その為、現在治定されている古墳は皇子とは全く関係の無い人物で、
陪塚を伴う事から、この付近を治めていた首長墓であるとされています。

:結論:
〇皇子の事績や生没年が不明な事から非実在性が高い
〇治定されている古墳の築造年代と皇子が生きたであろう時代が合致しない
〇景行天皇が居たとしても弥生時代に全長50mを超える古墳が、
 近畿以外に造られた例は皆無
〇『記紀』に事績の記載が無いのに『先代旧事本紀』『天皇本紀』に記載が有るのが謎
 =後世の創作であるとする説が有る
 =別の人物と混同した説も有る
〇当地を治めていた首長の墓及び親族の古墳群である可能性が高い

以上で五十狭城入彦皇子墓についての考察を終わります。