皆様こんにちは~(^▽^)

今日から4月ですね~
いい加減コロナも落ち着いて欲しいですが、
まだまだ終息の兆しは見えませんね
気を付けて過ごしたいと思います(^^;

本日は崇神天皇の皇子である、
八坂入彦命の墓について考えてみました(^^
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
長方形状の墓域内にやはり長方形状に囲んだ柵の、
中央やや北寄りの位置に、円丘が見られます。
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墳丘拡大
何やら南東へ開口する様に窪み(抉り)が見られますが、
これは盗掘跡と思われます。

考古学的名称は大萱古墳と呼ばれる古墳で方形墳とされてますが、
規模は現地の画像を見る限り、一辺5m✖高さ50cm前後の規模と推定。
古墳時代中期頃の築造と推定されている為、皇子の年代と合致していません。。。
出土品や埋葬主体部は不明となってます。
また、いつ頃調査されたのかは不明とされている為、
本当に古墳なのかどうかも怪しいです。。。
記紀では崇神天皇の皇子として登場し、父帝の命により、
当地を治めたとされるが、生没年や事績は不明。
日本書紀では八坂入彦皇子、古事記では八坂之入日子命と記される。
泳宮(くくりのみや)伝承地から約2.6kmの距離に墓は有りますが、
何故皇子の墓がこの場所にあるかは不明
母親(大海媛(おおあまひめ))が尾張氏出身だからという説が有りますが、
史料が無い為、説を裏付ける事は困難とされています。
また、泳宮に関しても調べてみましたが、
宮跡とされる1段高くなった付近が石柵で囲ってあるのみで、
実際に建物跡が検出されている訳では無く、
地元の伝承や「日本書紀」に記載が有る場所が、
この付近であると推定して史跡となっているだけの模様
。。。
尚、この泳宮に関する可児市の記述には、
八坂入彦命の娘が景行天皇の皇后となった事のみ触れているだけで、
八坂入彦命に関しては解説されていません。。。

現地の画像を検索結果などで見てみると、
単独で築かれた古墳というよりは、自然丘陵の端部分の樹木保護の為の土盛りに見えます。
また、直ぐ西側に八剱(やつるぎ)八幡神社が有り、祭神が八坂入彦命と、
娘の八坂入媛命、弟媛命となっているが、
元はこの社の基壇だった可能性も有ると思われます。
付近にある可児郷土歴史館に、当古墳の出土品が所蔵されていると、
ネット情報には有りますが、具体的な出土品の詳細が記載されておらず
もし、実際に皇子墓からの出土品であれば、
元の出土地に戻すか宮内庁書陵部に報告が必要なのではないでしょうか?(^^;

八坂入彦命と検索しても娘の八坂入媛命(景行天皇皇后)の情報ばかりで、
八坂入彦命に関しては「記紀」には記載が有るものの、
他に史料が無い上に事績も無いので、実在性に疑問が持たれている人物です。
また、仮に実在したとしても崇神天皇の頃といえば、
日本では縄文時代晩期~弥生時代早期頃である為、
現実的に考えてもこの時代に、天皇の勅命を受けて尾張まで遠征し、
そこで住み着くのは不可能そうに思えます。。。

墓の様子はグーグルマップで「八坂入彦命墓」と検索を掛ければ、
県道84号 安土桃山街道沿いに墓所の生垣が確認できますが、
人里からだいぶ離れた山間の自然丘陵の裾部分に位置しており、
父帝の陵に治定されている行燈山古墳の様に斜面に築かれている点では一緒ですが、
行燈山古墳の方は墳丘長300mを超える大型前方後円墳で、
威容の有る雰囲気や見た目なのに対して、こちらは一辺5m程で、
斜面の裾付近にひっそりと造営されているのが、かえって不自然です。
また、墓所を西側から撮影した画像が見れますが、
その画像を見る限りでは、古墳では無く自然丘陵の斜面の一部を、
囲って鳥居を建てた
だけ・・・の様に見えます(^^;
墳形確認調査や埋葬主体部確認などの調査を実施して、
本当に古墳である証拠を示して貰いたいですね。。。

:結論:
〇古墳名は付けられているが実際に古墳かどうかは不明
〇仮に古墳だとしても皇子の時代とは合致しない
〇天皇の皇子墓にしては規模が小さ過ぎる
〇皇子の実在性に疑問が有る
=父帝の崇神天皇も実在性に疑問が有る人物である
=実在したとしても縄文時代晩期~弥生時代早期頃である為
〇天皇の勅命を受けて尾張に来たとされるが事績が無いのが謎
=史料も無い
〇泳宮伝承地での八坂入彦命に関する情報がほとんど無いのがかえって不自然
=泳宮伝承地から建物跡などの検出事実は無し

以上で八坂入彦命墓についての考察を終わります。