皆様こんばんは~(^▽^)

本日は第28代天皇である、
宣化天皇と陵墓について考えてみました(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は鳥屋ミサンザイ古墳と呼ばれる、
全長138mの前方後円墳で出土した埴輪片から、
6世紀前半頃の築造と推定されており、葺石を伴うとも報告されています。
また、この陵墓古墳には皇后の橘仲皇女を合葬するとされています。
尚、天皇と合葬された皇后は、他には天武天皇の皇后である持統天皇だけです(^^
その他、未成人の皇女も天皇・皇后と共に合葬されているとも伝わりますが、
実際に上記の通りだとしたら、内蔵されていると推定される、
大型の石材を使用した長大な横穴式石室内には、
3個以上の棺が安置されていると思われますが、石室が調査された実績は無いので、
不確定の伝承扱いとなってますし、『延喜式』にも合葬の記録は有りません。
墳丘1段目のくびれ部両側に造出が有る他に、
前方部東側にも張出状施設を有しています。
墳丘周囲に盾形の周濠が巡りますが、
後世のため池(鳥屋池)工事の際に大きく改変を受けています。

「荒蕪」図では3段築成に見えますが、墳丘を調査した結果、
実際は2段築成である事が判明しています。
おそらく天皇陵という事で、「荒蕪」図も立派に描いたのでは?
・・・とされています。

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「成功」図 全体像
周濠は一部を灌漑用の池と混同しない様にする為か、
盾型となる様に周濠内に杭を立てて区別してあります。
現在は勿論腐蝕や経年劣化の為にこの杭は見られませんが、
水を抜いた上で調査すれば、杭の根本付近は残っているかもしれません。

また、周濠発掘調査時に外堤より18世紀代の遺物が検出されている事から、
修陵前から灌漑用として利用、整備された可能性が高いとされています。
くびれ部の両側に造出を持ち、剣菱型と呼ばれる墳形が特徴ですが、
被葬者を宣化天皇に当てるには宣化の没年と数十年の開きが有る為、
治定替えが必要とされています。

また、修復当時は倭彦命墓か宣化天皇の陵墓の、
どちらかであるかという論争が有った事で有名な陵墓古墳で、
宣化天皇陵も倭彦命の墓も陵墓名に、「身狭桃花鳥坂」
・・・という字が有った為に出た論争だった模様です。
結局、延喜式に記載されていた神社や、
付近にある白鳥陵などから判断して、
宣化天皇の陵墓であると決定した模様ですが、
現在までに実施された調査で確実に宣化天皇の陵では無いとされているので、
ひょっとしたら現在倭彦命の陵が宣化陵かもしれませんが、
倭彦命の陵は巨大な方墳で、築造年代もぐっと新しいものなので、
真の宣化陵は他を探した方が賢明かもしれませんね(^^;

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
前方部を北東方向に向ける様な感じで築造されています。
前方部東側の張出状盛土もはっきり確認できる上、
2本の渡堤も確認できます。
この張出状遺構は崩壊によるものなのか、
修陵時に付加されたものなのか、
築造当時から存在するのか・・・など、正体は現在も判明しておりません。。。
個人的には経年による自然崩壊と思われますが。。。

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墳丘実測図拡大
墳丘の等高線は乱れが少なく、2段目から上は特に整美な墳丘の様です。
後円部頂部平坦面が広いですが、前述の通り南面方向に開口するとみられる、
横穴式石室を内蔵していると推定されています。
また、前方部頂部にも円形の盛土が確認できるので、
この部分にも副室的な構造物が埋蔵されている可能性も有ります。
宣化陵では無いとする見解が出ているので、
宣化天皇以外の大王クラスの人物が埋葬されているのでしょうね。


次に人物像を、、、
名前は檜隈高田皇子(ヒノクマノタカダミコ)
・生没年:雄略天皇11(467)年~宣化天皇4(539)年
・在位期間:安閑天皇2(535)年~宣化天皇4(539)年
在位年数5年、73歳で崩御。
継体天皇の皇子として生まれる。
安閑天皇の弟に当たります。
宣化天皇の即位と共に蘇我稲目が大臣に任命され、
蘇我氏の台頭がここから始まったとされています。

しかし、安閑天皇が崩御したのを受けてから即位しますが、
即位時の年齢が69歳と高齢だった為、大きな事績はみられず、
安閑・宣化の皇統と欽明天皇の皇統が並立していたとの見解が有る上、
即位後5年余りで崩御したとされていますが、
そうであった場合、弟の欽明天皇とは40歳近く年齢が離れていたという事になり、
不自然であり、兄弟相続なので若くして即位したことはなくとも、
もう少し即位時の年齢も崩御年齢ももう少し若かったのでは?と思われます。

尚、ネットで検索すると表示される天皇の肖像画は勿論想像図ですが、
見た目は白髪の顎鬚をたくわえており、天皇というよりは仙人の様な風貌となってます。

尚、伝わる事績には、のちの大宰府にあたる政治・外交・軍事の統括機関である、
那津官家を設置し、その財源を官家に運輸させるよう詔を出したという記述が有ります。
このことから対朝鮮関係を重視した事が分かりますが、
在位期間が短い為に、伝わる事績はこれだけです。

また、都(皇居)の位置は、現在の奈良県高市郡明日香村檜前に有ったとされる、
檜隈蘆入野宮(ひのくまのいおりののみや)とされていますが、
やはり皇居と陵の距離が少々離れ過ぎているので、
明日香村付近で真陵候補を探す必要が有るかと思います。

実在はしたのでしょうが、即位/崩御年齢が長すぎる上、
弟の欽明天皇と年齢が離れ過ぎている事になるので、
年齢の再考証が必要な天皇ですね(^^;


:結論:
陵墓としては、、、
〇陵墓古墳の築造年代と崩御年齢に数十年のズレが有る事が判明している

人物としては、、、
〇即位時の年齢が不自然
〇崩御時の年齢が当時の平均寿命を超えている
〇事績が少ない

その他、、、
〇未成年の皇子女も合葬されていると伝わるが未詳
〇皇居と陵の距離が離れて過ぎている


以上で宣化天皇陵についての考察を終わります。