皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第25代天皇である、
武烈天皇と陵墓について考えてみました(^^

この天皇の陵墓の治定は比較的新しい為か、文久山陵図には記載されていませんので、
陵墓地形図集成に掲載されている実測図や書籍から纏めてみます(^^;
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
懿徳天皇や安寧天皇の陵と似た様な、自然の山自体を陵としたもので考古学的名称は有りません。
安寧天皇の陵は元々「アネイ山」と呼ばれていた伝承に基づいて治定されていますが、
武烈天皇陵は特に山の名称などは有りません。
自然の山なので、拝所の鳥居建替え工事や管理人詰所設置工事の際の、
事前調査でも何も出ていません。

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拝所付近拡大
修陵時に空濠と拝所を整備して、山の周囲を生垣で囲った以外に、
山自体に手は加えられていない模様。
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最高所部分拡大
自然の山であり、人の手で造られたものでは無いので整った等高線が皆無状態。。。
航空写真で前方後円形に見える山は結構有りますが、何故この山を治定したのかが疑問です。

他に真陵候補として、宮内庁が陵墓参考地として指定している古墳に、
新山古墳(全長126m 4世紀前半 大塚陵墓参考地 前方後方墳)が想定されてますが、
崩御年(6世紀前半)と古墳の築造年代が合致しておらず
以前は私有地であり、所有者が植樹の際に穴を掘ったところ、
後方部直下に、組合式石棺を埋蔵した竪穴式石室に突き当たり、
銅鏡34面や金銅製帯金具など多数の副葬品が出土しています。
他にも既に発掘済みの古墳なのに陵墓参考地指定を受けている例は有りますが、
陵墓参考地として管理するならば、副葬品は腐蝕を防ぐ処置を施した上で、
元の位置に戻すのが良いと思う
のですが。。。
また、『山陵志』では築山古墳が真陵として想定されていましたが、
現在は顕宗天皇の真陵とされている為、真陵候補からは外れています。
他には狐井塚古墳(全長75m 陵西陵墓参考地 6世紀前半)が、
真陵候補として挙がっており、崩御年代にも合致する為、
実在したとすればコチラが真陵の可能性が高いとされています。

次に人物像を、、、
名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセワカサザキノミコト)
生没年は仁賢天皇2(489)年~武烈天皇8(506)年
在位期間は仁賢天皇11(498)年~武烈天皇8(506)年
在位年数9年、18歳で崩御
崩御年齢は当時の平均寿命(15~31歳)に照らし合わせると、
平均的であり、現実的な年齢と言えるかと思います。
・・・しかし、実在性に疑問が持たれているので、後世の創作かと思われます。

また、考古学的に考えた場合、上で書いた真陵候補の狐井塚古墳ですが、
竪穴式石室内に長持型石棺を安置する埋葬主体部と推定されていますが、
武烈の前の天皇である仁賢天皇(24代)と清寧天皇(22代)の陵として、
治定されている古墳が横穴式石室を内蔵する前方後円墳なので、
武烈天皇の陵としてわざわざ前時代的な竪穴式石室に戻すという事が、
考え難いし不自然に思います
ので、6世紀前半頃に築造された横穴式石室を埋蔵する、
全長100m前後の前方後円墳を充てた方が自然かと思います。

尚、武烈天皇は「世紀の大悪天皇」的な立位置になってますが、
『日本書紀』に「頻に諸悪を造たまふ。一も善を修めたまはず」と記され、
・妊婦の腹を割いて胎児を見た
・人の爪を剥がせた上で芋を掘らせる
・人の頭髪を抜き丸太の上を歩かせている所に樹木を切り倒させ、
 這い上がってくる者を墜落死させる
・人を桶に入らせ、外に出てくる者を三又の鉾で刺殺させる
・人を樹木に登らせ、下から矢を放って射殺させる
・全裸にした女性の前で馬の交尾を見せ、淫らになった者は処刑、
 ならなかった者は辱めて奴隷にすることを楽しみにした

・・・・など、悪逆非道の限りを尽くしたと記述が有りますが、
これは続く継体王統を正当化するための捏造と考えられており
中国の古代帝国殷の紂王、夏の傑王の悪行にも同様の記録が見られ、
中国では徳を失った皇帝が徳のある者に位を譲る事が行われる為、
これを踏まえた上で、継体天皇の正当性を表す為に、
武烈天皇を徳の無い者として悪く描く必要が有ったとされています。
事実、『古事記』には一切上記の様な記述は見られません。。。

また、武烈天皇の実在性に疑問の有る説の一つが、
雄略天皇の別称に「大悪天皇」の語が有り『後漢書』などの漢籍にも書かれており、
『武烈天皇紀』に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあることから、
同一人物であるとし、武烈天皇は雄略天皇の荒い性格の一端を別人物として創作した、
実在しない人物という説が有ります。

また、天皇には皇子女が無かったために応神王統は断絶、
妹手白髪郎女が嫁いだ継体王統が始まったとされています。
『日本書紀』では皇后の欄に春日娘子()の名が有るが『古事記』は空欄のまま。
皇子女が居ないという記載は、
『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」
『古事記』に「日続知らすべき王無かりき」と有る。

※春日娘子(かすがのいらつめ)
 『日本書紀』には武烈天皇の皇后として記載されている。
 父母は不明、生没年も未詳、子女無し、出自も不明という、
 謎だらけの人物。
 「春日」という名前からして和珥氏由縁の女性かと思われる程度


現在治定されている陵は奈良県香芝市に有るが、
皇居は泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)で、同県桜井市出雲の、
十二柱神社境内に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑が有るが、
皇居から陵まで21kmも離れている為、現在治定されている陵の位置は不自然。

:結論:
〇古墳では無く自然の山である
〇他に真陵を充てるべきだが。。。
〇実在性に疑問
〇雄略天皇の別人格を一人の人物として創造か?
〇在位期間が短くとも皇后が居ないのが不自然
〇『日本書紀』と『古事記』の記載が合致しない
〇皇居と陵の距離が離れ過ぎている
〇自然の山を修理&管理することが税金のムダではないか?

欠史八代を除く歴代天皇で、
自然の山や古墳では無い所を治定している例は、
安康天皇(第20代 中世の城跡)、武烈天皇(第25代 自然の山)、
仁明天皇(第54代 畑地に陵を造成)
が居り、
真陵は現在も不確定なまま。。。
安康天皇も武烈天皇も実在性に疑問が持たれているので、
もし実在しないとなれば治定解除・天皇の順番見直しが妥当だと思われます。

以上で武烈天皇陵についての考察を終わります。