皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第23代天皇である、
顕宗天皇と陵墓について考えてみました(^^
この顕宗天皇陵は明治期(明治22年)に初めて治定された為、
文久山陵図などの古図は有りません。
・・・ので、陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図を基に、
ネット検索や手持ちの資料などに掲載されている情報を、
私なりに纏めてみます(^^;

まずは陵墓から、、、
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
形状は前方後円墳(宮内庁公式見解)ですが、特定の古墳名は無いのか、
他の資料やネット検索を掛けても出てきません。

尚、蒲生君平は当古墳を新井塚古墳と呼んでいた模様。
宮内庁指定/管理の陪塚は3基(円墳2、前方後円墳1)有ります。
墳丘実測図を調査したのは大正15年と記載されています。

まず、陵墓墳丘に入る前に陪塚に指定されている3基からですが、
この3基は北今市古墳群に属する古墳の名残りであり、
古墳群の成立/築造年代は6世紀後半~7世紀初め頃となる為、
顕宗陵の陪塚とするには無理が有ります。
また、陵墓として指定されている墳丘も北今市古墳群の直ぐ北側に有り、
同時期頃の築造の古墳とした場合、
4世紀末~5世紀初め頃に崩御した天皇とは大幅なズレが有ります。
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顕宗天皇陵墳丘実測図拡大
宮内庁による公式発表では前方後円墳としていますが、
規模は明記されておらず
、現地の画像を見る限りでは、
前方部端に当たる部分は拝所の鳥居背後と見られますが、
拝所を設置する際に陵の墳丘を破壊する事は考えられ無いので、
前方後円墳とは考え難いです。

仮に前方後円墳とした場合、、、
・くびれ部から前方部端までが長く、低い(等高線が1本)事から、
 前期型の前方部が細く長い形態か?
・前方部に当たる部分は後世の盛土(目隠し)で、
 円丘部南西の短い張り出しを前方部と考えると、帆立貝型前方後円墳か?
また、元は円墳だったとする見解も有りますが、
実測図での円丘部が楕円形状を呈する細長い形状なので、
円墳だった可能性は低そうです。

尚、陵墓関係論文集でも墳形は触れられていないので、
せめて墳形確認調査くらいは実施して欲しいです(^^;
また、グーグルマップでは陵の直ぐ南に道路が有りますが、
拝所ギリギリ付近から北東隅までの生垣長さが約70m程の距離が有るので、
そこから推測すると、仮に円墳だとすると南北直径50m✖東西30m程の規模で、
帆立貝型前方後円墳とすると全長50~55m程の規模と思われます。
また、「直径90m✖高さ14mの円墳」と記載している書籍が有りますが、
宮内庁が「規模不明」としているのに、何故規模を書けるのか不思議です(^^;
等高線の本数とストリートビューで見ての推測高は3~4m前後だと思われます。

他に陵の候補は、磐園陵墓参考地(築山古墳 全長210m 4世紀後半)と、
狐井塚古墳(陵西陵墓参考地 全長75m 5世紀中葉)が有り、
江戸時代には平野塚穴山古墳(7世紀)が陵に比定されていました。
尚、狐井塚古墳は武烈天皇の真陵候補にもなっています。
現陵は天皇陵にしては規模が小さい点が疑問です。。。

尚、現陵の治定は明治22年ですが、
磐園陵墓参考地が顕宗天皇の御陵墓伝説地として指定されたのは、
明治20年と2年早いので、現陵の治定には早い段階から疑義が有ったとされています。

次に人物像を、、、
名前は弘計尊(ヲケノミコト)
生没年は允恭天皇39(450)年~顕宗天皇3(487)年
在位期間は顕宗天皇元(485)年~顕宗天皇3(487)年
在位年数3年、38歳で崩御。
在位年数と崩御年齢には諸説あり、『古事記』には治世8年、38歳で没、
『一代要記』には没年48歳と記載。

安康天皇3年に父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、
兄の億計王(仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した後、
丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、
兄弟共に名を変えて、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年に弘計王自ら新室の宴の席で、
歌と唱え言に託して王族の身分を明かした所、
子が無かった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、
翌年2王を宮中に迎え入れて、兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
清寧が崩御した後、兄弟の間で皇位継承の譲り合いが続くが、
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年、弘計が即位した。
億計は引き続き皇太子を務めたが天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例が無い。
罪無くして死んだ父を弔い、父の雪辱を果たすべく、
雄略への復讐に走ることも有った(墳丘を掘るなど一部を損壊した)が、
長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられるが、
『記紀』に事績の記載が無い。
また、皇后は居た(難波小野王 生年不明)ものの皇子女の記載は無い。

実在性については、億計・弘計2王の発見物語に、
貴族階級だった人物が遠くで発見され、正式な後継者として迎えられるといった、
劇的な要素が強いほか、史実性に疑問が生じる為、長らく架空の人物とされていたが、
両皇子発見譚が史実でなかったとしても、
人物としての実在性や天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、
億計・弘計の両天皇の実在を主張する意見も少なくない。
・・・が、やはり「確実に存在した」という確たる証拠が無い為、
現時点では実在性に疑問を持たざるを得ません。
また、在位年数が3年と非常に短いのも謎で、
天皇が病弱だった可能性も有りますが、そういった記載は『記紀』には有りません
崩御年齢は当時の平均寿命を考えると妥当であると思われますが。。。
実在性が低いので実際の崩御年齢かは微妙な所。。。

:結論:
〇天皇陵とするには規模が小さ過ぎる
〇北今市古墳群に属する古墳だとすると築造年代と崩御年が合わない
〇何故か今も規模不明のまま
〇形状は前方後円墳としているが形状確認調査は未実施
〇古墳名となる正式な考古学的名称が不明
〇実在性に疑問が有る
〇天皇として即位するまでのストーリーが後世の作である可能性有り
〇『記紀』に事績の記載が無い
〇『記紀』に皇子女の記載が無い
〇在位年数が短すぎる上、崩御年齢も若い(病弱といった記載は無い)

兄弟間で皇位を譲り合っていた際に、異母姉の飯豊皇女が代わりに政治を執っていたので、
飯豊皇女を短い期間だけれども執務していた際は天皇だったのではないかとして、
明治期に飯豊天皇として墓も「陵」へ格上げされましたが、
飯豊陵に指定されている古墳よりも顕宗陵の方が規模が小さいのが疑問です。
真陵は磐園陵墓参考地が妥当そうですが、
そもそも顕宗天皇自身が実在しなかった可能性が有るので、
現陵は天皇陵では無く、北今市古墳群の主墳として考えた方が無難そうです(^^;

以上で顕宗天皇陵についての考察を終わります。