皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第12代天皇である、
景行天皇と陵墓について考察をしてみようと思います(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
水田と水田用の灌漑池に利用された周濠が見えます。
周濠跡も途中で数本の畦道が入っていますが、
これは古墳自体が傾斜地に造られているからです(^^
この畦道様の物は元は渡堤の跡で、文久年間に修陵を受けた際に、
造られた物も有りますが、築造時の渡堤も数本有ることが、
近年実施された発掘調査により判明しています。
古墳の考古学的名称は渋谷向山古墳と呼ばれていて、
全長は310mという全国8位という規模を持ちます。
出土した埴輪片などから4世紀後半頃に築造されたと推定されています。
また規模が大きい事から、最初に大和朝廷の礎を作った、
崇神天皇の陵であるとして、長い期間当時の陵墓決定現場が、
混乱していた古墳
でも有ります。

私個人的な考えですが、、、
もし卑弥呼が居た邪馬台国が当地(畿内)に有ったと仮定して、、、
卑弥呼から統治を受け継いで崇神天皇が即位し、後に崩御した際、
前時代の人物の墓形状を踏襲すると思われます。
そうであった場合、箸墓とほぼ同じ築造年代で、
特殊器台埴輪などが出土している古墳で大型の物は西殿塚古墳となります。
平地に築かれている箸墓よりも、もっと高い位置に築造されており、
被葬者が統治していた集落が一望できる高さなのも気になる点です。
現在グーグルマップ等で見れる様に、西山塚古墳・西殿塚古墳・下池山古墳
中山大塚古墳・行燈山古墳・櫛山古墳・渋谷向山古墳の比較的規模が大きな古墳が、
傾斜地を南北に3kmの長さにわたって連綿と築かれているのも、
何か理由が有りそうですが、ほとんどが宮内庁の指定/管理を受けていて、
簡単に調査が出来ないのが歯がゆい所です。。。
付近で見つかっている大きな集落跡は纏向遺跡が有りますが、
他には西方向に唐古・鍵遺跡が有るのみなので、
巨大古墳の近くにもう1~2個、大きな集落跡が有りそうに思います。
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「荒蕪」図 拡大
前方部には神社の社殿と基礎付近石垣で土留めをしていた模様です。
盗掘の記録は有りませんが、石枕(国指定重要文化財)の出土が伝わってます。
後円部には直径42mもの平坦面が有ることから複数の埋葬施設を持つと、
考えられていますが、石枕が有るということは、
竪穴式石室内に石棺(長持型石棺か?)安置という、
埋葬主体部が考えられ、複数主体部を持つとすれば、
後は木棺直葬か竪穴式石室が2基並列に並んでいる可能性も有るかと思います。
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陵墓地形図集成より実測図全体像
陪塚3基も合わせて掲載されています。
陪塚3基の内、前方部北側に有る上の山古墳は、
当初陪塚であると考えられてきましたが、
出土した埴輪が渋谷向山古墳よりも若干古い為、
向山古墳に先行する形で築造されたと推定
されてます。
また、渋谷向山古墳の主軸線と直交する形で築造されている為、
両古墳の被葬者は何らかの深い繋がりがあるものとされています。
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墳丘実測図拡大
文久山陵図の項で述べた様に現在も複数の渡堤が確認できます。
周濠を水田用の灌漑池として利用する際、古墳が傾斜地に造られているので、
水が溜まる様に細切れになっています。
前方部南側のやや広い平坦面は神社社殿の跡地ですが、
現在は樹木が茂っており、周堤に沿う様に造られている観察路からの観察は、
冬場以外は難しそうです。
また、後円部南側くびれ部付近に方形の張り出し状の物が見えますが、
これも神社社殿跡地に関連する改造で、造り出しでは有りません。

次に景行天皇の人物像を、、、
名前は大足彦忍代別尊(オオタラシヒコオシロワケノミコト)
生没年は垂仁天皇17(前13)年~景行天皇60(130)年
在位期間は景行天皇元(71)年~景行天皇60(130)年
コチラも崇神天皇や垂仁天皇同様、実際に存在したとしても、
弥生時代後半~末期頃となり、古墳が築造された4世紀後半頃とは合致しない為、
実在性に疑問が持たれています。
また崩御年齢も143歳と、ギネス記録的な長さであり、
この崩御年齢の長さも不自然過ぎですね。
・・・また「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の、
3天皇が持ち、時代が下がって7世紀前半に在位したことが確実な、
34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、
タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、
12、13、14代の称号は後世の造作と考える説が有ります。

景行天皇には80名(薨去含む)もの皇子女が居ますが、
その中で最も有名な方にヤマトタケル()が居ます。
「記紀」には景行天皇の事績も記載されてますが、
在位初年に九州の熊襲征伐に赴いて、皇子日本武尊の活躍もあって、
九州平定に成功している事や、皇子女たちを諸国に封じて、
権力を強化した旨の事が記載されているのみで、
崇神天皇や垂仁天皇が行った治世については皆無です。
「記紀」の景行天皇に関係する事績は、
ほぼヤマトタケルの活躍が記載されているのみです。
また、景行天皇には稲日大郎姫(イナビノオオイラツメ)と、
八坂入媛命(ヤサカイリビメノミコト)の2人の皇后が居ますが、
稲日大郎姫は崩御後に故郷とされる兵庫県加古川市にある日岡陵に葬られたと、
記載が有りますが、稲日大郎姫崩御後に皇后となった八坂入媛命に関しては、
崇神天皇を父に持つ事と成務天皇を生んだ以外は、
母親が不明で生没年も不明であり、陵の記載も有りません。
もしかしたら景行天皇と共に葬られたかもしれませんが、
天皇と皇后or皇子女が合葬される様になったのは7世紀代に入ってからなので、
4世紀代の古墳であれば、別々の古墳に埋葬されたとするのが普通でしょうか?
その場合、渋谷向山古墳が景行陵で、少し遅れて行燈山古墳が八坂入媛命の陵として、
築造されたと考えれば面白いですが、景行天皇・稲日大郎姫・八坂入媛命の3名とも、
実在性が疑われている人物なので、可能性は低そうですね(^^;

※ヤマトタケルに関しては天皇陵が終わり次第、
 天皇以外の皇族陵墓の時に詳しく書こうと思います。


:結論:
〇古墳の築造年代が天皇の没年と合致しない
〇景行天皇では無く、付近を統治していた有力豪族の墓である
〇複数の埋葬主体部を持つとされているが、
 天皇の皇后についての伝承も記載も無い
〇タラシヒコの称号は7世紀に入ってから使われる為、
 景行天皇は後世の造作とされる
〇崩御年齢が不自然な長さ
〇実在したとしても弥生時代後半~末期頃で現実的では無い
〇80名もの皇子女が居るのに天皇の事績が少な過ぎる

以上で景行天皇陵についての考察を終わります。