皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は成務天皇の陵墓絵図を紹介します(^^
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「荒蕪」図 全体像
水田内に整備前の墳丘が描かれてます。
絵図右端に畦道が周濠の弧線を描いてる点に注目(^^
こちらは溜池として利用されていた訳では無く、
周濠内も水田用地として利用されていた事が分かります。
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「荒蕪」図 墳丘拡大
墳丘斜面に生えている樹木が少ないのは、何か理由が有るのでしょうか?
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「荒蕪」図 後円部頂部拡大
「山陵考」に、「修陵前に盗人によって石室及び石棺が盗掘された」
・・・と記述が有りますが、記述の通り石室天井石と思われる、
大きな石材が墳頂部に数点見られます。
その手前の駒札は、おそらくココが陵墓である事を示していた立て札だと思われます。
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「成功」図 全体像
墳丘を整備し、周濠内に水を入れられ、拝所を整備した様子。
拝所が周濠内に設置されている点が、他の陵墓と違っている点ですね(^^
また、くびれ部に造出が見られますが、その横の周濠外堤も造出の様に出っ張っているのが、
面白いですね(^^
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「成功」図 墳丘拡大
拝所の鳥居は2本有り、灯篭も一対見えます。
「荒蕪」図では樹木は、後円部頂部の松以外には、ほとんど見られなかったですが、
修陵後は墳丘1段目テラスの部分に、多くの樹木が植樹されてます。
前方部2段築、後円部3段築の様子が見られます。
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「成功」図 後円部頂部拡大
松の樹木の中、主軸線から少し西側にズレた所に、
何やら構造物が見えますが、「山陵考」によると、
これは盗掘により石室が破壊されてしまった為に、
石室内部に安置されていた石棺を置いたとの事。
これは、以前に陵墓地形図の書庫内でも記事にしましたが、
この石棺(長持型石棺か?)が現在もこの様な状態なのか、至急調査して欲しいです。

以下に「山陵考」の文章を。。。
「山陵考」狭城盾列池後陵
成務天皇の御陵なり、大和国添下郡御陵村の東にあり、
字を石塚山とよぶ由ハ、陵山に砂礫を敷満ちたれハなるへし、
御在所既く発けて御石椁の大石とも露出たり、
高さ八丈許めぐり弐百廿丈許、御在所のかた円く前のかた方に
南面に三段に築たり、敷地平坦ならす、左ハ高く右ハ低けれハ
堀底も一様に打続かす、北後と南面とに少ツツ中絶たり、
これ日本紀に、葬于倭国狭城盾列陵とミえ、古事記に、
御陵在沙紀多他那美也とミえ、延喜式に、狭城盾列池後陵、
志賀高穴穂宮御宇 成務天皇、在大和国添下郡、
兆域東西一町南北三町、守戸五烟とミえたる御陵なり、
この 御陵号の楯列池後といふことは、池上に対へたる号にて、
すへて池ハ水の注入るかたを上とし水の流出るかたを後とする
定なれハ、此楯列池ハ佐紀川なと流入へたる池なるへきが、
今も佐紀川より南へ流るれハ、その水の流入けむには実に北ハ
池上といふへく南ハ池後といふへき地勢なり、西大寺に蔵伝へたる
宝亀五年五月十日弘仁二年十一月廿九日等の班田使官人の連署ある
奈良の京北班田図を見るに、楯列池ハ此 御陵より西北のかたにありて
池上陵の西下に広く湛へたりつらむを、宝亀のころハ既く水ハ涸たりけむ
とそ思はるる、また続日本紀に、神亀四年五月辛卯、従楯波池、
飃風忽来、吹折南苑樹二株、即化為雉といふことなとミえたり、
今ハミな田地となりて何処を池の跡なりとも知られぬかとくなりにたり、
然るを和州舊跡幽考大和志なとに、常福寺の東なる水上池をこの楯列池に
当たるは甚しき誤にて、水上池ハ御陵より遥に東にありて、
其中間に西畑村常福寺村なと立隔りたれハ、上代とてもかく隔りたる池の名を
御陵号にかけても申すましき地勢なるを、況て班田図に正しく此
御陵の西北に楯列池と注したるをや、さて此 御陵のこと先達の考ミな
此処として今ハ更に異論あらぬを、古く承和のころ 神功皇后の御陵と
相混たることありしを、図録に検給ひしに、北は神功皇后の陵、
南なるは成務天皇の陵なること分明になれりしこと、続日本後紀に見え、
又今弘仁の班田図を検へても 神功皇后山陵より三町許南方に此 
御陵ハある趣に注したり、又康平のころ此 池後陵を盗人発奉て宝物を
掠奪たりしを、旧のことく 山陵に返納させ給ひしこと扶桑略記に
ミえたり、さて又此 御陵の東に双ひて字をミササキと申せる古墳を、
里人ハ 神功皇后の御陵なる由云伝へたれと、その御陵ハこの
御陵より北にある趣上にも引る班田図にミえ、続日本後紀にも
楯列北南二山陵とミえたるにて、東にはるハ 楯池上陵に相当らさること
しられたれハ、此東なるミササキは 垂仁天皇の皇后 日葉酢媛命の
狭木之寺間陵ならむと考奉らるる由あり

以下にポイントを現代語訳で(^^
「字を石塚山とよぶ由ハ、陵山に砂礫を敷満ちたれハなるへし」
現在も石塚山古墳と呼ばれていますが、その由来は、
葺石を墳丘に敷き詰めている事から来ています(^^

「御在所既く発けて御石椁の大石とも露出たり」
御在所とは石室が有る場所の事で、既に盗掘を受けており、
石室石材に使用されたと思われる大きな石材が、
多数露出している状態であった事を書いてます。

「康平のころ此 池後陵を盗人発奉て宝物を
掠奪たりしを、旧のことく 山陵に返納させ給ひしこと扶桑略記に
ミえたり」
康平年間(平安中期、1058年~1065年 後冷泉天皇)に、
盗掘され副葬品を持ち出されたが、捕えた後に、
元の場所に戻させたと扶桑略記に記載されていた事を書いてます。

「古く承和のころ 神功皇后の御陵と相混たることありしを」
修陵前は神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた模様。。。
実際この地には大型の前方後円墳がひしめいていますから、
混乱は避けられなかったでしょうね(^^;
日葉酢媛命陵(狭木之寺間陵)の可能性は如何に?
の様な状態にもなりかかったそうですね(^^;