皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第2代天皇とされている綏靖天皇と、
その陵墓について考えてみました(^^
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綏靖天皇陵地形図全体像
南北に長い長方形状敷地内の北側奥に、陵墓とされる墳丘が有ります。
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墳丘拡大
直径30m✖高さ2.5~3m程度の規模とされており、
考古学的名称は塚山or塚根山古墳と呼ばれています。

先に結論から言うと、綏靖天皇の陵墓などでは無く、
神武陵が造営されている辺り一面に存在した、
縄文後期~古墳時代までの大きな集落と、
その集落近くに造営された四条古墳群(14基確認 全て埋没古墳で現在は湮滅)
に属する古墳であるとされ、築造年代は5世紀前半~6世紀中頃と推定
実際に私自身も神武陵とセットで見学しています(^^
墳丘の周囲を石製の柵で八角形に囲まれているのを確認してますが、
石柵が建てられている位置よりも下部分に墳丘斜面の一部が見えたので、
築造当初の直径はもう少し大きいかもしれません。

次に人物について、、、
綏靖天皇の生没年は、神武天皇29年(前632年)~綏靖天皇33年(前549)
在位期間は綏靖天皇元年(前581)~綏靖天皇33年(前549)
84歳で崩御したとされています。
紀元前632年を現代の日本の時代に照らし合わせると、
弥生時代初頭頃
となり、崩御年齢は現代的ですが、
焼成温度が幾分縄文時代よりも高くなって、
厚みが薄めな土器と、地域によっては青銅製の武器や武具が、
祭祀用として製作され、鉄器が出始めた頃。

事績(天皇として実施した業績)は、神武天皇は東征伝説が有りますが、
あくまで神話上での話であり、現実的では有りません。
また、当時の天皇は政治的・軍事的な権力よりも宗教的な存在であったためか、
綏靖天皇も記紀ともに「事績不明」となっていますが、
他の欠史八代に数えられている天皇とは違い、
皇位継承争いの記述が記紀に見られる事から実在したとする説も有ります。
しかし、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であることの他、
宮(天皇の住まい)と陵の所在地が一致しない事などから、
現在は想像上の人物であり、実在はしなかった疑いが強いとされています。
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
大きな松の樹木が頂部から生え、雑草に覆われた円墳が描かれています。
上で「石柵のさらに下にも墳丘斜面の一部が見えた」と書きましたが、
この荒蕪図でも柵の下にさらに墳丘の裾が有る事が分かります。
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「荒蕪」図 墳丘拡大
左下に参道の様な道が見え、墳丘と接する部分はそれほど高さが無い様に見えますが、
右奥では少し高くなっている様に描かれているので、
文久年間に陵墓として指定する前に耕作で削られたか、
周囲を掘り下げて目立つ様にしたのかは不明ですが、
本来はもう一回り大きかったかもしれませんね(^^;
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「成功」図 全体像
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「成功」図 拡大
墳頂部の松の樹木は立派になり、
墳丘裾付近に桜の樹木も見えます。

:結論:
〇実在しない可能性が高い想像上の人物である
〇崩御年齢は現代的だが、在位年数が疑問
〇事績不明(皇位継承争いの記述が有るが創作の可能性強し)
〇墳丘の築造年代が新しい
 天皇の在位期間は弥生時代中期頃古墳の年代は5世紀前半~6世紀中頃
〇四条古墳群中の1基である
〇八角形に石柵で囲っているが墳形は円墳である

以上で綏靖天皇についての考察を終わります。