皆様こんにちは~(^▽^)

陵墓考察カテゴリ1回目は、やはりどうしても外せない、
公式で初代天皇とされる神武天皇とその陵墓から。。。
20201129_105527543
陵墓地形図から全体像。
地形図を見て、まず最初に思う事は、、、
「中央付近に有る墳丘が綺麗過ぎるor整い過ぎてる」事。。。
整備費用は15000両が費やされたと資料にあります(^^;

現在「1両は現在の貨幣価値に換算すると幾らになる?」と検索すると、
多くの情報が出てきますが、その中でも分かり易い例を用いて、
当時と今の米の値段を比較すると、
1両は約4万円程の価値であるとされているので、
15000✖4=6000万円・・・となり、
さらに明治時代の1円は現在の3800円くらい(ネット調べ)なので、
6000万✖3800=228000000000円
・・・となり、2280億円という膨大な予算が、
費やされた事になります(汗

陵墓のある土地内に、橿原神宮(神武天皇が居住していたとされる橿原宮跡地とされる)も、
建設しているので、その費用も含まれているとしても・・・です(^^;
・・・まぁ、これだけの資金を投入されれば綺麗な墳丘と周囲にはなりますよね(^^;
「天皇は神聖な存在」として崇敬されていた時代だから出来た事で、
現代でこんな事業をやろうとしたら国会や国民から叩かれそうです(^^;
IMG_0680
文久山陵図「荒蕪」図から全体像
伝承によると以前は国源寺という小さな寺社が有った基壇とされており、
大きい方は直径7m✖高さ1mの円丘で、
小さい方は直径6m✖高さ0,6mの円丘だった模様。
ココが治定に至った理由としては、
この水田が広がる地が「神武田(じぶでん)」や、
天皇の山陵名に似た「ミサンザイ」と呼ばれていた事から・・・とされています。

・・・そんな訳で、公式にはこの2つの小丘が、
神武天皇の陵であるとされ、まず文久年間に修陵。。。
IMG_0681
文久山陵図「成功」図
この頃は陵自体を整備したのみ橿原神宮はまだ有りません。
中央右の小さな木立は整備する際に土中から出土した、
寺社の土台に使用されたとされる礎石が保護されている所ですが、
コレは現在も有り、陵墓地形図でも陵の東側に確認できます。

陵墓の規模は直径40m✖高さ3mの円墳で、周囲に幅16mの方形の掘を巡らせ、
四条ミサンザイ/山本ミサンザイ/神武田・・・という3通りの古墳名が有る模様。。。
IMG_0699
「成功」図の時点では2個有った小丘ですが、
最終的には1つにまとめられたのでしょうね(^^;

次に神武天皇について。。。
神武天皇の在位期間は「神武天皇元年(紀元前660)~76年(紀元前585)」
生没年は「庚午年(紀元前711年)~神武天皇76年(紀元前585)」
名前は始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)
127歳で没したとされる。

以下に現在入手できる資料(史料)と私見を。。。

まず陵墓から、、、
指定前の小丘は荒廃した国源寺方丈堂の基壇という説
周囲に存在(現在はほぼ湮滅)した四条古墳群中の物とする説

国源寺については早くに荒廃した模様で、伝承以外に何の情報も無い上、
現在陵の脇に保護されている礎石も実際に国源寺の物かは確証が有りません
従って、国源寺の基壇だったとする伝承は可能性が低いものと思われます。

四条古墳群は別記事にて紹介予定の綏靖天皇陵が、
最も築造当時の姿を残す四条古墳群中の1基であるとされていますが、
神武陵の元になった2小丘とも距離が近い為、
古墳であるとする説が出てきています。
また、ミサンザイ(現神武陵)からは土器片が出土したとの資料も有り、
実際に周辺から埴輪片や須恵器等が確認された為、
現在はミサンザイも綏靖天皇陵も四条古墳群に含まれる古墳だった説が濃厚となってます。
また、橿原神宮を整備する際に縄文~弥生時代頃の集落跡が見つかっており、
その際に四条古墳群も埋没古墳として現在までに14基が確認されています。
尚、四条古墳群は5世紀前半~6世紀中頃にかけて造営された古墳群です。
これらの事から、神武陵となった2個の小丘は、
5世紀~6世紀代の古墳だった可能性が高いと思います。

次に人物から。。。
神武天皇の生没年と在位期間は上記に書きましたが、
その頃の年代を現代に照らし合わせてみると、
縄文時代末期~弥生時代初頭頃になり、
上記時代に鉄製の武器や武具が有ったとは考えにくいです(^^;
よくネット上で見られる神武天皇の想像図ですが、
大きな弓を持ち、長い矢が入った矢筈を背中に背負って、
腰に豪華な柄頭を装着した剣を携えて・・・という、
想像図が描かれてたりしますが、
もし本当に存在したとなれば色々な歴史が塗り替えられる騒ぎになりますね(^^;

また、没年時の年齢が127歳。。。
現在ギネスブックに世界最高齢記録として残っている年齢は117歳だそうです。
現在と当時とでは衣食住環境や気候も違うと思われますが、
120歳越えは無理があると思います(^^;

神武天皇と崇神天皇が同一人物ではないか?という仮説が有名ですね(^^
これには理由が有りまして、よく知られているのは名前が一緒という事。

神武天皇=始馭天下之天皇
崇神天皇=御肇国天皇


漢字に違いは有りますが両名ともに、
「ハツクニシラススメラミコト」と読みます。
崇神天皇も崩御時の年齢が119歳と公式では記載されてますが、
現存するギネス記録からするとあながち非実在とは言えないかもしれません。
神代の世で非実在性が高い神武天皇よりも、
崇神天皇の方が実在性が高く、また実在したとすれば3世紀後半頃とされます(^^

※ちなみに現在、史料やこれまでに発掘された遺物から、
 はっきりと実在性が確実視されている最初の天皇仁徳天皇とされています。
 
以下は私が疑問に思っている事項を。。。
〇神武天皇の出生地は現在の宮崎県日向市とされており、
 東征して現在の橿原市に宮を建築し即位したのが、
 日本国の始まりとされていますが、
 何故橿原に宮を構えたのか?という理由が謎。
 箸墓古墳や行燈山古墳、西殿塚古墳、纏向石塚古墳などの四条古墳群よりも、
 古い古墳が密集している
天理市付近に宮を構えたとしなかった理由は何故なのか?
 また、宮崎県には西都原古墳群が有り、宮内庁が陵墓参考地として指定&管理している、
 男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳が有る上、西都原古墳群だけでなく、
 周辺にも夥しい数の古墳が有るにもかかわらず、
 何故東征伝説にこだわってまで近畿に宮を構えたとしたのか?
 西都原古墳群内にも3世紀後半~4世紀前半頃の築造とする、
 築造年代が古い古墳が確認されています。
 日本で初めての天皇が誕生した地が、天皇が誕生した日向(現:宮崎県)だが、
 わざわざ遠く離れた橿原に宮を建てたとしている事について、
 橿原でなければならなかった明確な理由が不明
〇神武天皇の即位年月日は記紀に基づいて明治政府が決定したが、
 その際に神武天皇と崇神天皇の名が同一だと分かっている上で混同しない様に、
 あえて神武天皇は橿原宮に、崇神天皇は磯城瑞籬宮にした可能性も考えられるが、
 確たる理由と根拠は公表されていないので不明であり謎

:結論:
〇想像上の人物である可能性が強く存在も疑わしい。
〇崩御年齢が非現実的
〇陵墓に指定されている墳丘は、元は2基の古墳もしくは廃寺の基壇だった可能性が高い。
〇修陵当時に出た遺物は全て縄文~弥生時代の遺物であり、神武天皇とは関係が無い。
〇陵墓は遺体埋葬が無い擬陵。
〇存在しなかった人物であるならば、橿原宮という宮殿跡も当初から無いという事になる
〇想像上の人物の墓を作り神聖化した上で多額の税金を投入

神武天皇で無く崇神天皇が初代となれば、
色々な皇室関係の書籍なども訂正が必要になってきますが、
現在のギネス記録では「日本の皇統譜は世界最古」として認定はされているものの、
「古くても4世紀」と注が付いている辺り、
やはり崇神天皇の方が初代なのでは?と考えてしまいますね(^^;

長くなりましたが、以上で神武天皇の考察を終わります。