関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2021年07月

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は天王塚陵墓参考地について考えてみました(^^

〇天王塚陵墓参考地
・該当御方:後三条天皇火葬塚(未定)
・所在地:京都市左京区岡崎入江町
     (現:平安神宮神苑内)
・墳形:円墳
・地況:平安神宮内
・面積:十二歩
・考証意見:第二類
※扶桑略記 百練抄内
 『神楽岡の南原に火葬 骨を禅林寺に安ず』

尚、墳形は現在の所「方丘」扱いになってる模様。
火葬塚の横の「未定」の記載は、「陵墓は治定されてるが火葬塚がまだ未定の為」
・・・という意味
です(^^
20210413_163839815
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210413_163845935
参考地部分拡大
長方形状の区画内、北西寄りに隅丸長方形丘が有る模様で、
グーグルアースなどの航空写真でも神苑内に緑色で苔むした長方形区画が確認できます。
現地の写真画像を見る限りでは、高さは50cm以下程度の小丘に見えます。

後三条天皇の火葬塚である可能性が有るとして、
治定されていますが、火葬地を記した史料が無いなど確実性に欠ける為、
「参考地」としての指定にとどまっている模様です。
京都市内に天皇や皇族の火葬塚が多く見られますが、
他に寺社境内に火葬塚が有る例は、龍安寺境内の背後に有る、
朱山の頂部に円融天皇の火葬塚が有るのみです。
元々は火葬塚が野原無いに有り、後々に平安神宮が建立されたと考えると、
分からないでも無いですが、普通に考えると少々違和感を感じます(^^;
また、『扶桑略記』に記されている「神楽岡の南原において火葬」の文言ですが、
「神楽岡」の文言が入る陵墓に陽成天皇神楽岡東陵が有り、
その直ぐ北側に後一條天皇菩提樹院陵が有る事から、
この自然丘陵(吉田山)の周辺は以前より葬地だった可能性を考えると、
南側の原(火葬当時はやや傾斜地だったか?)とするならば、
現在一般の墓所となっている辺りで火葬されたと考える方が合致していると思われます。
平安神宮まで行ってしまうと、少々神楽岡からの距離が遠い為、
やはり現指定地には疑問を感じます。
何処か他所に移設したり削平したりすること無く、
現在も神苑内に有る辺り、火葬塚では無く祭事をしていた場所を、
裏付け調査などを実施することなく、天皇に関連する遺構として、
明治期に指定されたのでは?
と考えてしまいます。。。

〇天王塚陵墓参考地
・候補者:後三条天皇(火葬塚)
・等級:二級
・形状:方墳
平安神宮境内にあり、有料区域の神苑内に有る。
要社務所の許可

:結論:
〇一見すると禁足地内にある祭事を行っていた場所に見える
〇平安神宮内に現在も有るが、火葬塚を寺社境内に置いている事が疑問
〇史料に後三条天皇を当地で火葬した旨の記載が無い
=『扶桑略記』に記述が有るが『神楽岡の南原』のみで、
 具体的な場所までは記述されていない
〇考証意見は第2類と高いが、本当に火葬塚なのかは検証されていない
=調査すべきだがまだその様な動きは無い

以上で天王塚陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は浄菩提樹院塚陵墓参考地について考えてみました(^^

※浄菩提樹院塚陵墓参考地
陵墓地形図集成の見出しは「後宮塚陵墓参考地」となってますが、
所在地的にこちらは「浄菩提樹院塚陵墓参考地」が正しいです。
20210428_182427540
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210428_182432422
拡大図
南東部分が少し欠けた方形ですが、現在は正方形に近い形状になってます(^^
中央部に有る四角に「✖」の記号は、
この部分に陵墓地名等を刻んだ標柱が有る事を示しています。

〇浄菩提樹院塚陵墓参考地 『事典陵墓参考地』より
・該当御方:後鳥羽天皇皇女 
      尊称皇后昇子内親王春華門院(陵未定)
・所在地:京都市伏見区竹田小屋ノ内町『八番地』
・墳形:平『方形』
・地況:平地、松等アリ
・面積:二畝二歩
・指定ノ時:明治三十六年四月二十一日
・考証意見:第四類(現在は第三類)
平安時代から鎌倉時代初期に栄えた鳥羽離宮殿の近くにあり、
付近に「竹田四十八塚」と言われる小塚が散在していて、
この三つの参考地も四十八塚に属するもので、
名称からみても皇室関係者が推測されるので精査の必要がある」として、
「陵墓の疑いを否定しがたいもの」に再び格上げされている。

◎昇子内親王
・読み:ショウシ/ノボルコ ナイシンノウ
・生没年:建久6(1195)年~建暦元(1211)年
・続柄:(父)後鳥羽天皇/順徳天皇准母
・院号:春華門院
後鳥羽天皇の第1皇女で、建久6(1195)年内親王宣下。
間もなく八条院の猶子となり、八条院のもとで育てられた。
承元2(1208)年に異母弟の東宮守成親王(順徳天皇)の、
准母として皇后宮に立てられる。
承元3(1209)年院号宣下、春華門院となる。
建暦元(1211)年に八条院が薨去しその所領の大部分を相続したが、
内親王も同年の内に崩御した。
享年17歳

あと、この参考地の名称ですが、
陵墓地形図集成後頁の陵墓等一覧や現地の駒札には、
「浄菩提院塚陵墓参考地」と記載されてます。
地形図の見出しや「陵墓要覧」には、
「浄菩提院塚陵墓参考地」と記載されてます。
どちらでも良いのでしょうか?(^^;

竹田小屋ノ内町に有る3基の陵墓参考地の内、
最も面積が大きな参考地で、
一応該当御方も設定されているのですが、
考証意見は第4類と低いので、
ココも後宮塚陵墓参考地や中宮塚陵墓参考地と共に、
詳細な調査を行った上で指定解除するか、
考証意見を上のレベルに上げるかを、決めて頂きたいと思います(^^;

:結論:
〇治定されている人物が当地付近に埋葬されたとする史料が無いのに指定されている謎
〇当地は以前存在した「竹田四十八塚」の名残りであり皇族の墓では無い可能性大
〇後鳥羽天皇の皇女であれば、後鳥羽天皇陵の付近や陵域内に合葬されている可能性?
〇考証意見が第4類と最も低いランク付けなのに治定解除されない不思議
〇当地から過去に何らかの遺物が出土した例は皆無である
=碌に調査しないまま指定されたのであろう

以上で浄菩提樹院塚陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は中宮塚陵墓参考地について考えてみました(^^
20210428_182455712
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210428_182500763
拡大図
この参考地は元々は近衛天皇陵の側に有りましたが、
昭和46年に行われた水道整備事業の際に、水路の幹線に当たるという理由で、
掘り起こした上で現在の場所に移葬されてます。

〇中宮塚陵墓参考地 『事典陵墓参考地』より
・該当御方:未詳
・所在地:京都市伏見区竹田小屋ノ内町『三十番地』
     (現:京都府京都市伏見区竹田田中宮町103)
・墳形:平
・地況:無毛平地
・面積:一歩
・指定ノ時:明治三十六年四月二十一日
・考証意見:第四類(現在は第3類)
平安時代から鎌倉時代初期に栄えた鳥羽離宮殿の近くにあり、
付近に「竹田四十八塚」と言われる小塚が散在していて、
この三つの参考地も四十八塚に属するもので、
名称からみても皇室関係者が推測されるので精査の必要がある」として、
「陵墓の疑いを否定しがたいもの」に再び格上げされている。

前回で紹介した後宮塚陵墓参考地も、「ココが?(汗」という感じでしたが、
コチラもある意味負けてません。。。
畑地の片隅に現状保存されていますが、駒札が無ければ「ただの空地」状態です。
一見すると道祖神や土地神を祀った場所の様に見えます。
ストリートビューで検索される際に「中宮塚陵墓参考地」と入力すると、
現状がどの様な状態になっているか見れます(^^;

該当御方が設定されている、浄菩提院塚陵墓参考地(後日紹介)と違って、
該当御方は不明な上、考証意見も陵墓の可能性が低い、
第3or4類なので、この程度の扱いなのでしょうけれど(^^;
『誰の陵墓か分からない』ならば、このまま税金を使って維持するよりは、
いっそこれらの参考地とその周辺を発掘調査して、
本当に陵墓の可能性が有るのか確認してから治定/保存すれば良いと思うのですが。。。

尚、当地も過去に何らかの遺物が出土した例は皆無です。
おそらく「竹田四十八塚」の名残りもしくは跡地の可能性も有りますが、
現在は盛土の様なものは見られません。

:結論:
〇「皇室関係者の墓所と推測」されるというのであれば、
 調査して確定づければ良いのに、調査が実施された事は無いのが謎
〇鎌倉時代頃に造営された近世塚群であり皇族の墓所では無い可能性大
〇現在も考証意見は第3類/第4類と最も低い扱いなのに指定解除しない謎
〇該当御方が未指定
〇当地付近に埋葬されたとされる皇族が皆無なのに指定される不思議

以上で中宮塚陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は後宮塚陵墓参考地について考えてみました(^^

〇後宮塚陵墓参考地
陵墓地形図集成の見出しは「浄菩提樹院塚陵墓参考地」になっていますが、
現在は「後宮塚陵墓参考地」になってます。
20210428_182440074
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210428_182445546
拡大図
参考地部分拡大。
この地形を測量した当時の昭和2年の段階では、
ご覧の様な不整形な台形状でしたが、
現在は参考地の周辺に建物が出来たせいで、
方形となってます。

〇後宮塚陵墓参考地 『事典陵墓参考地』より
・該当御方:未詳
・所在地:京都市伏見区竹田小屋ノ内町『五十二番地』
     (現:京都府京都市伏見区竹田西小屋ノ内町18)
・墳形:平『(円丘)』
・地況:無毛平地
・面積:一歩
・指定ノ時:明治三十六年四月二十一日
・考証意見:第四類
平安時代から鎌倉時代初期に栄えた鳥羽離宮殿の近くにあり、
付近に「竹田四十八塚」と言われる小塚が散在していて、
この三つの参考地も四十八塚に属するもので、
名称からみても皇室関係者が推測されるので精査の必要がある」として、
「陵墓の疑いを否定しがたいもの」に再び格上げされている。

現状は民家の庭先の様な外観となってます。
ストリートビューで見ると、駒札が建てられているので、
それと分かりますが、無ければごく普通の空地状態です。
尚、形状は「平(円丘)」と有りますが、
一見すると円丘があるようには見えません。。。
尚、「陵墓の疑いを否定しがたいもの」に格上げされていますし、
「名称からみても皇室関係者が推測される」としていますが、
特に何か墓所に関係する遺物(蔵骨器など)が出土した例は無い上、
「竹田四十八塚」の何処から「皇室関係者が推測される」という文言が、
出てきたのかは公式発表が無いので不明ですが、
該当御方も不明という辺りに違和感を感じます。
皇族や関係者の墓所とされるものに、宇治陵が有るので、
ここは鎌倉時代頃の塚群(供養塚や非皇族の墓など)と思われます。
指定解除された秘塚・鵺塚参考地の様に、調査後何も出なければ、
即指定解除が望ましいとおもわれます。

:結論:
〇「皇室関係者の墓所と推測」されるというのであれば、
 調査して確定づければ良いのに、調査が実施された事は無いのが謎
〇鎌倉時代頃に造営された近世塚群であり皇族の墓所では無い可能性大
〇現在も考証意見は第3類/第4類と最も低い扱いなのに指定解除しない謎
〇該当御方が未指定
〇当地付近に埋葬されたとされる皇族が皆無なのに指定される不思議

以上で後宮塚陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様おはようございます(^▽^)

本日は岩坂陵墓参考地について考えてみました(^^

〇岩坂陵墓参考地
神代三代陵以外で唯一参考地指定となる日本古来の神様の墓

〇岩坂陵墓参考地
・該当御方:伊耶那美命(陵未定)
・所在地:島根県八束郡岩坂村大字日吉字神納
     (現:島根県松江市八雲町日吉)
・墳形:円丘
・地況:山地樹林
・指定ノ時:明治三十三年四月二十日
・考証意見:第三類
・備考:『決定時ノ地名』
尚、兄で夫の伊弉諾尊(イザナギノミコト)の墓は存在しません(^^;
何故妹だけが治定されているのかについては、公式発表が無いので不明
IMG_0757
陵墓地形図集成に掲載されている実測図 全体像
東へ伸びた自然の山の一部分全体を参考地として指定/管理されています。
IMG_0758
参考地拡大
等高線が西側と一致している辺り、自然の山/丘陵と思われますが、
頂部から4~5本目付近で楕円形状になっている事から、
明治期の治定の際に修復した可能性が有るかも?
IMG_0759
頂部部分拡大
頂部に標柱らしき図形が記載されてます。
2本の針葉樹も並んで記載されていますが、この辺りに磐座でも有るのでしょうか?
頂部へ至る点線の道は登山道(参道)ですが、
南西側の麓から続いているので、管理用通路でも有ると思われます。

◎伊耶那美命
読みはイザナミノミコト
他に伊邪那美/伊弉弥/黄泉津大神/道教大神などの字が有る
日本神話の女神。伊弉諾尊の妹であり妻でもある。

現地に設置されている説明板の文
「古事記にある比婆山はこの地で、伊耶那美命の御神陵と伝えられている。
 古くから子授け安産の守護神として広く崇敬されたところである。
 明治三十三年、宮内省が全国十数か所の伊耶那美命御神陵伝説地中、
 保存すべきものと認定し、陵墓伝説地に指定したものである。
 現在陵墓参考地として宮内庁が管理している。
 松江市教育委員会」

神話の一部を以下に。。。
天地開闢において神世七代の最後に伊弉諾と共に生まれた。
オノゴロ島に降り立ち、国産み・神産みにおいて伊弉諾との間に、
日本国土を形づくる多数の子をもうける。
中には淡路島・隠岐島から始め、やがて日本列島を生み、
更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
火の神軻遇突智(迦具土神・かぐつち)を産んだために陰部に火傷を負って、
病に臥せたのちに亡くなる。
亡骸は『古事記』によれば出雲と、伯伎の境の比婆山(現在の島根県安来市伯太町)に、
『日本書紀』の一書によれば、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に、
葬られたと記されている。
死後、伊弉冉は自分に逢いに黄泉国までやってきた伊弉諾に、
腐敗した死体(自分)を見られた事に恥をかかされたと大いに怒り、
恐怖で逃げる伊弉諾を追いかける。
しかし黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉にほn路において、
葦原中国と繋がっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、
伊弉冉に対して伊弉諾が大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。
そして伊弉冉と伊弉諾は離縁した。

地名に「神納」という字が入っている為、
おそらく神話などの言い伝えなどから当地を比婆山に指定し、
神様の陵墓を造ってしまったと思われますが、
考証意見が第三類(調査の結果指定を解除すべきもの)である為、
ごく普通の自然丘陵(山)であり、治定されている人物が神話に出てくる神様なので、
「墓に指定したけど、信憑性が低いから参考地程度にしておいた」的な、
考えのまま現在に至るのかな?と思われます(^^;

尚、遺骸の埋葬地について「古事記」は島根県安来市伯太町の比婆山に、
「日本書紀」では三重県熊野市有馬の花窟神社となっていますが、
「御陵」と呼ばれ、山頂部に巨石の有る比婆山は、
広島県庄原市西城町熊野比婆山に有り、神話に出てくるオノゴロ島の所在が不明な他、
宮内庁が参考地として指定している島根県松江市八雲町日吉とは
別の物なので、
どれが正しいのか現在も決着が着いてません
(^^;

:結論:
〇治定されている人物は神話内に登場する神様であり実在しない
〇当然遺骸埋葬の事実も無い
〇墓としているが普通の山(自然丘陵)である
〇夫であり兄である人物の墓は現在も無いのが不思議
〇「御陵」と呼ばれる巨石が有る比婆山とは別
〇比婆山が複数有る
〇宮内庁が「有力な候補地として特定した」とするも選定理由は不明
〇大庭空山と呼ばれる自然山の西側突出部分が該当する為、
 人工の陵などでは無く、自然の山である
 (ただし、等高線4~5本目付近から修復した可能性有)

以上で岩坂陵墓参考地についての考察を終わります。

↑このページのトップヘ