皆様こんにちは~(^▽^)
本日は後村上天皇の女御とされている、
中宮顕子の笠間山陵について考えてみました(^^
本日は後村上天皇の女御とされている、
中宮顕子の笠間山陵について考えてみました(^^
〇源顕子
読みはミナモトノケンシ
生没年は元弘2年(1332)~正平14年(1359)
北畠親房の娘として生まれ、後村上天皇に入内(中宮)した。
子女や経歴等の詳細は不明であるが、
坊雲、憲子内親王の2人をもうけた説も有る。
享年27歳
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
陽雲寺の西側にある自然丘陵全体が墓域とされており、
頂部平坦面北西寄りに円丘が確認できます。
実測図拡大
見ようによっては前方後円形にも見えますが、
公式形状は円墳を示す「円丘」となっているので、
それほど高さが無い円塚が有るものと思われますが、
自然丘陵の頂部を整備しただけの様にも見えます(^^;
尚、当地に中宮顕子の墓を治定した理由や根拠は、
例によって不明なままです。。。
また、陽雲寺境内に設置されている説明板には、
「顕子は児の坊雲とともに世俗を離れて陽雲寺雲上庵で、
静に暮らし当地で没しました」と記載されてますが、
陽雲寺の創建年代は不明(平安時代説有り)であり、
どういったいきさつが有って顕子と繋がる様になったのかも定かではありません。
源顕子が仕えた後村上天皇の陵は大阪府河内長野市に有るのに、
中宮の墓が遠く離れた奈良県磯城郡朝倉村(現:奈良県宇陀市榛原笠間)とは、
約42kmも離れています。。。
この距離の長さが不自然に思います(^^;
後村上天皇の陵は観心寺が管理する境内に有り、
どちらかが母親である阿野廉子の墓であるとする、
コウボ坂陵墓参考地と檜尾塚陵墓参考地が同じ境内や近所に有りますが、
仕えた天皇の傍に埋葬されたと仮定すれば、
上記2参考地のどちらかだと思われます。
:結論:
〇実在はしたが名前や事績が不明である
〇ネット情報の顕子という名前の人物とは別人である
=生没年や入内先が合致していない
〇仕えた天皇の陵と距離が離れ過ぎている事が不自然
=陵が有る付近や周辺に真墓が有る可能性は?
以上で中宮顕子 笠間山陵についての考察を終わります。
Wikiには後村上天皇女御の欄に源氏(北畠親房女)と記載されています。
単に「女(娘)」と記載している辺り、本来の名は不明の模様です。
また、「源顕子」と検索すると、「鎌倉時代の女性であり、
中院通成の娘で、西園寺実兼の妻、文永元年(1264)に西園寺公衡を生む」という、
別の人物が出てくる他、平安時代後期~鎌倉時代前期に掛けて実在した、
源顕信の娘(女子)にも源顕子(生年不詳~1212年)が居ますが、
宮内庁が治定している人物とは別人なので混同しない様、注意が必要です。
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
陽雲寺の西側にある自然丘陵全体が墓域とされており、
頂部平坦面北西寄りに円丘が確認できます。
実測図拡大
見ようによっては前方後円形にも見えますが、
公式形状は円墳を示す「円丘」となっているので、
それほど高さが無い円塚が有るものと思われますが、
自然丘陵の頂部を整備しただけの様にも見えます(^^;
尚、当地に中宮顕子の墓を治定した理由や根拠は、
例によって不明なままです。。。
また、陽雲寺境内に設置されている説明板には、
「顕子は児の坊雲とともに世俗を離れて陽雲寺雲上庵で、
静に暮らし当地で没しました」と記載されてますが、
陽雲寺の創建年代は不明(平安時代説有り)であり、
どういったいきさつが有って顕子と繋がる様になったのかも定かではありません。
源顕子が仕えた後村上天皇の陵は大阪府河内長野市に有るのに、
中宮の墓が遠く離れた奈良県磯城郡朝倉村(現:奈良県宇陀市榛原笠間)とは、
約42kmも離れています。。。
この距離の長さが不自然に思います(^^;
後村上天皇の陵は観心寺が管理する境内に有り、
どちらかが母親である阿野廉子の墓であるとする、
コウボ坂陵墓参考地と檜尾塚陵墓参考地が同じ境内や近所に有りますが、
仕えた天皇の傍に埋葬されたと仮定すれば、
上記2参考地のどちらかだと思われます。
尚、現地(現墓)の拝所に建てられている石標には、
「新陽明門院笠間山陵」と記載されている様ですが、
新陽明門院とは亀山天皇の女御である近衛位子(1262~1296)の院号なので、
宮内庁が治定している源顕子の院号では有りません。
このことから、治定が困難で特定も難しい人物であり、
実在したとしても、子女や事績も不明という、
謎な人物であると思われます。
:結論:
〇実在はしたが名前や事績が不明である
〇ネット情報の顕子という名前の人物とは別人である
=生没年や入内先が合致していない
〇仕えた天皇の陵と距離が離れ過ぎている事が不自然
=陵が有る付近や周辺に真墓が有る可能性は?
以上で中宮顕子 笠間山陵についての考察を終わります。