関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2021年06月

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は後村上天皇の女御とされている、
中宮顕子笠間山陵について考えてみました(^^

〇源顕子
読みはミナモトノケンシ
生没年は元弘2年(1332)~正平14年(1359)
北畠親房の娘として生まれ、後村上天皇に入内(中宮)した。
子女や経歴等の詳細は不明であるが、
坊雲、憲子内親王の2人をもうけた説も有る。
享年27歳

Wikiには後村上天皇女御の欄に源氏(北畠親房女)と記載されています。
単に「女(娘)」と記載している辺り、本来の名は不明の模様です。
また、「源顕子」と検索すると、「鎌倉時代の女性であり、
中院通成の娘で、西園寺実兼の妻、文永元年(1264)に西園寺公衡を生む」という、
別の人物が出てくる他、平安時代後期~鎌倉時代前期に掛けて実在した、
源顕信の娘(女子)にも源顕子(生年不詳~1212年)が居ますが、
宮内庁が治定している人物とは別人なので混同しない様、注意が必要です。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
陽雲寺の西側にある自然丘陵全体が墓域とされており、
頂部平坦面北西寄りに円丘が確認できます。
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実測図拡大
見ようによっては前方後円形にも見えますが、
公式形状は円墳を示す「円丘」となっているので、
それほど高さが無い円塚が有るものと思われますが、
自然丘陵の頂部を整備しただけの様にも見えます(^^;
尚、当地に中宮顕子の墓を治定した理由や根拠は、
例によって不明なままです。。。

また、陽雲寺境内に設置されている説明板には、
「顕子は児の坊雲とともに世俗を離れて陽雲寺雲上庵で、
静に暮らし当地で没しました」と記載されてますが、
陽雲寺の創建年代は不明(平安時代説有り)であり、
どういったいきさつが有って顕子と繋がる様になったのかも定かではありません。

源顕子が仕えた後村上天皇の陵は大阪府河内長野市に有るのに、
中宮の墓が遠く離れた奈良県磯城郡朝倉村(現:奈良県宇陀市榛原笠間)とは、
約42kmも離れています。。。
この距離の長さが不自然に思います(^^;
後村上天皇の陵は観心寺が管理する境内に有り、
どちらかが母親である阿野廉子の墓であるとする、
コウボ坂陵墓参考地檜尾塚陵墓参考地が同じ境内や近所に有りますが、
仕えた天皇の傍に埋葬されたと仮定すれば、
上記2参考地のどちらかだと思われます。


尚、現地(現墓)の拝所に建てられている石標には、
「新陽明門院笠間山陵」と記載されている様ですが、
新陽明門院とは亀山天皇の女御である近衛位子(1262~1296)の院号なので、
宮内庁が治定している源顕子の院号では有りません。

このことから、治定が困難で特定も難しい人物であり、
実在したとしても、子女や事績も不明という、
謎な人物であると思われます。

:結論:
〇実在はしたが名前や事績が不明である
〇ネット情報の顕子という名前の人物とは別人である
=生没年や入内先が合致していない
〇仕えた天皇の陵と距離が離れ過ぎている事が不自然
=陵が有る付近や周辺に真墓が有る可能性は?

以上で中宮顕子 笠間山陵についての考察を終わります。

皆様おはようございます(^▽^)

本日は宮内庁が最後に治定した
都紀女加王の墓について考えてみました(^^

〇都紀女加王
読みはツキメカオウ
生没年不詳
事績不詳


筑紫邦米多郡の国造として赴き、以後王の子孫が国造を代々継いだという事以外は、
『記紀』にも登場しないため、経歴不明な人物とされてます。
尚、宮内省が陵墓と指定(治定)した最後の人物墓です。
ほとんどの陵墓は明治期に治定されていますが、
この人物だけ昭和18年(1943)に治定されています。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
南北に細長い墓域の北側に墳丘が見えます。
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墓の考古学的名称は上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづか)と呼ばれる、
全長49mの帆立貝型前方後円墳とされ、葺石を伴っています。
出土した円筒埴輪の編年から築造年代は5世紀代と推定されていますが、
今後の調査次第では古くなる可能性も有るかと思われます。
実測図を見ていると、前方部が低くて短い、
初期型の前方後方墳の可能性も有るかと思います(^^

本古墳は目達原(めたばる)古墳群の主墳で、
群中最も古い時代(最初に築かれた可能性有り)に築造されたと推定されています。
本古墳以外に複数基有りましたが、戦時中に飛行場の建設によって破壊されてしまってます。
尚、近くに邪馬台国時代の遺跡を発見したと話題になった、
吉野ケ里遺跡が有る上、吉野ケ里遺跡内に墳丘墓が2基発見されていますが、
距離が近い事から、本古墳に埋葬されている人物は都紀女加王では無く、
吉野ケ里遺跡内墳丘墓に埋葬されている人物と由縁の有る人物や一族が、
眠っているとされており、都紀女加王という人物は実在しないという説が有力です。

『先代旧事本紀』の「国造本紀」に、
「竺志米多国造 志賀高穴穂帝の御世に息長公と
同祖の稚沼毛二俣命の孫都紀女加を国造に定む」と記載されている。
これは訳すると「成務天皇の御世に、筑紫の米多国造として、
息長公の祖でもある稚沼毛二俣命の孫の都紀女加王を国造に任じた。」
という事になるが、大きな矛盾が有る
稚野毛二派王は応神天皇の皇子であり、息長公はその二派王の子、
意富々迹王の子孫であるため、
都紀女加王と息長公が同じ祖先である事は分かるが、
応神天皇は成務天皇の2代後の天皇であるため、息長公や都紀女加王が、
成務天皇の御世に存在しているはずがないという点が矛盾である。

何故『記紀』に記載が無い人物を創作した上で、
墓を治定したのか、その必要性と治定理由が謎
ですね(^^;

:結論:
〇実在性に疑問が有る
〇年齢も事績も不明
=『記紀』に記載が無い人物の墓が有る謎
〇墳丘は群集墳の主墳であり治定されている人物の墓では無い
〇伝承の内容に矛盾が見られる
〇例によって治定の理由や決定した根拠は不明

以上で都紀女加王墓についての考察を終わります。

皆様おはようございます(^▽^)

本日は淳仁天皇の生母である、
当麻山背淡路墓について考えてみました(^^

〇当麻山背
読みはタイマノヤマシロ
生没年不詳だが天平神護元年(765)に亡くなっていた説有り
舎人親王の妃で、大炊王(淳仁天皇)の生母。

『続日本紀』によると758年(天平宝宇2年)の淳仁天皇即位の日に、
正三位を授与され、大夫人(オオミオヤ/ダイブニン)と尊称されたが、
764年の藤原仲麻呂の乱の後、淳仁天皇は皇位を剥奪され、
上皇号を許されなかった上、「淡路国の公」とされ配流された。
その際、山背は廃帝に従ったという。
二人はその後、護送され淡路に幽閉された模様。
淳仁天皇の墓が陵に格上げされたのと同時に、山背の墓も御墓に格上げとなった。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
現在、グーグルマップには「当麻夫人墓(舎人親王妃大夫人山瀬 淡路墓)」と、
記載されています。
淳仁天皇淡路陵の近くに有る(南へ約1.5km)ので見つけ易いと思います。
東側に大きな池が有る為、巨大な円墳かと思ってしまいそうですが、
実際は自然丘の頂部付近のみが該当場所(墓域も該当部分の周囲のみ)です。
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実測図拡大
陵墓地形図に掲載されている実測図を見てみると、
自然丘陵の頂部に形が整った円丘が見えるので、
この部分に火葬骨もしくは土葬されていると思われますが、
自然の山の頂部を整えただけの様にも見えます。

息子の淳仁天皇陵は山頂から山腹に向かって散骨したか、
山頂で散骨したとされているので、当麻夫人の遺骨も、
わざわざ自然丘陵の頂部に墳墓を造営せずに、散骨したものと思われます。
息子天皇陵が散骨なのに、母親の方に墳丘を造営するのは変ですし、
ひょっとしたら、淳仁天皇陵に一緒に散骨した可能性も有るかと思います。
また、当麻夫人墓の周辺を航空写真で見てみると、
古墳を思わせる様な箇所が複数ある為、周囲に古墳群が存在する可能性が有ります。
当麻夫人墓に治定されている箇所も実際は、古墳時代後期~終末期の古墳であり、
夫人の墓では無いかもしれませんね。。。

:結論:
〇息子が火葬骨を散骨したのに母親の墓が墳丘なのが不自然
〇淳仁天皇陵域内に一緒に散骨された可能性有り
=2人一緒に幽閉されていた事で、別々の場所に埋葬する面倒が省ける?
〇現墓は自然の丘陵である可能性大
=治定した際に頂部部分を整備した可能性有り
〇古墳だとすれば、時代が合致しない

以上で大夫人山背淡路墓についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は後伏見天皇の9世皇孫に当たる人物である、
邦茂王の墓について考えてみました(^^

〇邦茂王
別名は安藤惟実
生没年は享禄3年(1530)~永禄13年(1570)
伏見宮邦輔親王の王子として生まれる。
応仁・文明の乱以降の細川氏や三好氏の争いを避け、
亀山の小口に難を逃れた。
小口村は母方(安藤氏)の祖父安藤宗実の領地であり、
王は以後安藤家に入って、安藤惟実と称した。
詩歌を好み『千年山八境記』を著している。
後伏見天皇9世皇孫に当たる人物。
享年40歳
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
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墓の墳丘実測図 拡大
墓の公式形状は方丘(方墳)ですが、実際は京都府亀岡市内に有り、
山腹斜面に造営された平野古墳群の1基(墓は51号墳で、
元は円墳であるとされています。
平野古墳群は亀岡市千歳町平野に有り、
埋葬主体部に自然石や板石で構築した横穴式石室を採用する、
古墳時代後期の群集墳で、ほとんどが円墳であり、
規模は直径5~20m程度、高さは1~2m程度の規模で、
消滅したものを含めれば、総数80基以上にのぼるとされる。
治定墓も墳丘上に石室石材を想定させる物体が描かれてますが、
おそらくは横穴式石室の天井石が露出しているものと思われます。

臣籍降下し、安藤家の人物となった邦茂王ですが、
墓は五輪塔や宝篋印塔、宝塔もしくは無縫塔などが考えられます。
間違っても古墳時代後期の円墳を治定する事は不自然であり、
史料などにも古い時代の墳墓を利用したとする旨の記述は無い為、
治定は間違っており、安藤家の墓所が有る東光寺やその周辺を再探索した方が、
良いかと思います。
尚、これまでに宮内庁による公式の治定理由や決定に至った根拠などは、
示されておらず、調査等も碌に実施されていない模様です。

:結論:
〇治定墓は古墳時代後期の築造である為、年代が合致しない
=総数80基以上の群集墳の1基である
〇公式形状は方墳だが、群集墳の中に方墳は見当たらない為、
 元は円墳だと思われる(石垣が方形なので墳丘形状も方墳と見誤ったか?)
〇五輪塔や宝篋印塔の墓塔形式が採用される時代の人物なのに、
 古墳時代の墳丘が墓というのは不自然
〇古来の墳墓を墓として利用したとする記述の有る史料は無い
〇治定の根拠や理由は不明(公式発表無し)

以上で邦茂王墓についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は神武天皇の長兄とされる、
彦五瀬命竈山墓について考えてみました(^^

〇彦五瀬命(竈山墓) 
読みはヒコイツセノミコト
生没年不詳
鵜草葺不合尊の子として生まれる。
神武天皇の長兄に当たる人物。

鵜草葺不合尊の長子であり、末弟の磐余彦尊(神武天皇)等と共に、
国の中心となるべき地、大和を求め東征に向かった。
数年掛けて陸路、海路にて浪速に着いたものの、
生駒を越えようとしたときに大和の豪族長髄彦との戦になったが、
不慣れな土地での戦いであった為、磐余彦軍は敗れ、
その際に五瀬命は矢を受けて負傷してしまう。
この後、紀伊半島を南周りで再び大和入りすることになったが、
負傷していた五瀬命は重症化してしまい、遂に紀伊国竈山にて薨去した。
死ぬ間際に「賊の矢ごときに傷つけられて死ぬわけにはいかぬ」と雄叫びしたと伝わってます。
竈山神社の北隣に位置しており、神社の祭神が彦五瀬命御本人である為、
御墓自体が神社の御神体(聖域)となっている。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
墓域は墓所本体が有る部分だけでなく、
墓所が造営されている自然丘陵の約半分を取り込んでいる為、
広大な墓域面積を持っています。
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墳丘実測図 拡大
墓所部分拡大。
鳥居のある拝所から1段高い壇上の、
中心部分にやや楕円形を呈する円丘が有ります。
彦五瀬命は初代天皇である神武天皇の兄に当たる人物ですが、
神武天皇自身が実在性が薄いとされる人物なので、
彦五瀬命も非実在性が高いと思われます。
地形図を見ると、自然丘陵の一部に当たっている事や、
これまでに出土遺物的な物が伝わっていない事などから、
古墳では無く、近世に造営された土盛りだと思われます。
また上でも書いてますが、隣接する竈山神社の御神体(神域)となっている為、
元々何らかの祭祀遺構的な物が有った可能性や、
竈山神社の鎮護的な意味合いで経塚が有った可能性も考えられます。

彦五瀬命の名の「五」は厳(いつ)もしくは斎(いつ)、
「瀬」は神稲を意味するとされており、
このことから『古事記伝』では、穀物や食料の神様という意味が有るとしている。

:結論:
〇人物の実在性に疑問が有る
=もし仮に実在したとしても縄文時代前期頃となる為、不自然である
〇戦績以外の事績が不明
〇穀物や食料の神様を人物に置き替えた可能性大
〇墓は古墳時代やそれ以前の時代の墳墓では無く、
 祭祀的構造物や経塚等に盛土した可能性有り

以上で彦五瀬命 竈山墓についての考察を終わります。

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