関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2021年03月

皆様こんにちは~(^▽^)

今回から皇族の陵墓について、陵墓地形図集成に掲載されているものを、
1基づつ考察していきたいと思います(^^

今回は崇神天皇の皇子とされている大入杵命の墓を。。。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
右下の大きな円墳が大入杵命の墓とされている古墳で、
左上の前方後方墳はい号陪塚として、宮内庁の指定・管理がされている古墳です。
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考古学的名称は小田中親王塚古墳と呼ばれる円墳で、
墳丘直径65m✖高さ14mの規模を持ち、
3段築成で葺石が認められ、北側を除く部分で周濠が確認されており、
4世紀後半~末期頃の築造と推定されています。
現状は円墳ですが、本来は帆立貝型前方後円墳だったとする説も有ります。
確かに墳丘実測図を見ると、拝所に接している箇所の等高線が直線的なので、
拝所の方向に短い前方部が有ったとしても不思議では有りませんね。

現在はコロナの影響や調査資金が無いのか、地方の陵墓については、
未調査で現状維持のままが多いので、墳形確認調査が実施されるまで、
墳形確定は待つほかないですね(^^;
尚、埋葬主体部は竪穴式石室とされていましたが、かつて描かれた絵図から、
石槨であった事が知られています。
出土品は三角縁神獣鏡、管玉、鍬形石、石棒が知られていますが埴輪は検出されていません。
尚、鍬形石と石棒は古墳からではなく、古墳近くの土中から出土したそうなので、
古墳の下や周囲に住居跡が埋蔵されていると推定されています。

「い号飛地(陪塚)」亀塚古墳と呼ばれる全長62mの前方後方墳。
埋葬主体部は知られていないが、墳頂部に縦長の窪みが認められる。
こちらも石槨か木棺直葬や粘土槨などが想定されています。
尚、主墳が円墳で陪塚が前方後方墳な例はココだけです(^^;
普通に考えれば、前方後方墳という墳形は、
3世紀後半頃から造られ始める(弥生時代の墳丘墓は除外)ので、
亀塚古墳の方が先に築かれ、後から小田中親王塚古墳が築かれたと考えた方が自然に思います。

2基の古墳は、小田中(こだなか)古墳群と呼ばれており、
特に親王塚古墳の方は『平家物語』の第7巻に、
「木曾殿(木曽義仲)は志保の山打ちこえて、能登の小田中、親王の塚の前に陣をとる」
と見られることから、古くから知られた古墳とされています。
古墳名は以前に墳頂に「親王社(新王社)」と称される社が有った事に由来していますが、
陵墓指定を受けて、現在は撤去されているものの、
墳頂部平坦面の最も高い位置がこの社の基壇と見られています。

大入杵命については、崇神天皇の皇子である事は確かなものの、
古事記にのみ登場し、日本書紀には登場しない為、非実在説が濃厚。
父帝の命令を受け、能登国に赴き同国を治め、
能登国造の先祖となったと伝わるが、同国を治めたと伝わる割に、
事績は無く婚姻・子息子女の記述も無い為、
実際に能登臣の先祖なのかどうか疑問。
もし先祖であるとするならば、代々相続した人物が居るハズなのですが、
記述が無い辺り、先祖は皇子とは関係の無い別人である可能性が有ると思われます。
また、名前に「杵」の字が入っている事から、
農業の神が人物に替えられたと思われます。
生没年は不明ですが、崇神天皇が実在すると仮定すれば、
治世時期は3世紀後半頃となり、皇子の生没年は3世紀後半~4世紀前半頃となる為、
小田中親王塚古墳の推定築造時期と合致しません。
そして、以前に崇神天皇陵考察にも書きましたが、
3世紀頃の日本は縄文時代晩期~弥生時代となる為、
武器は柔らかい金属の為、殺傷能力が低い青銅製の剣や短刀の他、簡単な造りの弓矢くらいで、
鉄器がまだ伝わっていない時代の為、粗末な武器や武具で、
中央政権の力が伝わっていない地方の国を、如何にして治めたのか謎です。
また、3世紀頃の平均寿命は15歳前後()とされる為、
現実的に考えても皇子の存在に疑問に持たざるをえません。

※日本人の平均寿命が50歳を超えるのは第2次世界大戦後以降で、
 食の欧米化が進んだことによるものと、医療の発達によるものであり、
 質素でバランスの良い日本食が、必ずしも長寿の理由にはならないとされてます。

:結論:
〇皇子の実在性に疑問が有る
=古事記だけに記載され、日本書紀には登場しないのが不自然
〇古事記には実在したと記載されているのに、
 事績の欄が無い事と婚姻の事実や子女の欄も無い事が謎
=能登国造の先祖となるなら子女は居たハズなのに。。。
〇古墳の築造時期と比定されている人物の年代が合わない
〇陪塚が前方後方墳な例は非常に珍しい
〇陵墓指定されているのに、埋葬主体部と出土品が知られている不思議
=指定前に発掘された可能性大
〇能登国造の先祖とあるが非確定
=そもそも実在が疑われている人物なので、国造の先祖は別人か?
〇農業の神が作り替えられた可能性有り

以上で大入杵命墓についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第98代天皇である長慶天皇の陵について考えてみました(^^
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
同一陵域内に2基の円墳(円丘)が有りますが、
長慶天皇の陵とされる方は北側(上)の拝所が大きい方となります。
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墳丘実測図拡大
2段築成の円墳なので、実測図だけだと割と大きな円墳に見えますが、
実際(以前に見学済み)は直径5m✖高さ1m程の小さな土盛りです。

実は長慶天皇の真陵は未だに決着が着いておらず
大正時代までは天皇として即位した事の確証も無かった為、
歴代天皇として扱われていませんでした。。。
尚、陵墓が治定されたのは昭和19年になってからです。。。
ここに陵墓を治定したのも、
「この地に長慶天皇が居住していた邸宅が有った」
・・・という言い伝えに基づいただけなので、
遺骸埋葬が無い「擬陵(空墓)」となってます。
また、南側に承朝王墓(長慶天皇の皇子)とされる小円丘が有りますが、
こちらも勿論擬陵です。。。
地元の伝承に基づいて作った2基の盛土に仰々しく拝所を造って、
「陵」として整備して・・・まさに税金の無駄遣いですね(^^;

少し人物像を。。。
父帝である後村上天皇在位時に立太子し、
父帝崩御に伴い摂津住吉行宮で26歳の時に践祚。
南北朝動乱期最中の世であったため、摂津・河内や吉野と行宮を転々としていた。
和歌への造詣が非常に深く、叔父の宗良親王を招いて様々な和歌集を編纂している。
大正期までは天皇として即位したことの確証が無かった為、
歴代天皇として扱われていなかった。
陵墓が治定されたのは昭和19年になってから。
宝算52歳。

52歳という年齢も当時の平均寿命と照らし合わせると、
20年以上も長いので、少々不自然に思います。
実際は30歳前後だったのではないでしょうか?

大正期にようやく天皇として認定されたのは、
南北朝で南朝が正統とされたのが明治末年になってからで、
長慶天皇に関する史料がとても少なく『長慶上皇院宣』のみ)、
確実に実在はしたとされてはいるものの、即位式を行ったかが不明な上、
在位したのかも江戸時代から論議されてきた経緯が有り
北朝の圧迫から逃れて全国を転々としたという伝説も有る事から、
陵墓の伝説地も多い時で100箇所にもなった事がある程。。。
中でも現在の岩手県南部地方に滞在したという伝説が有り、
このとき食料が乏しく、家臣が兜で小麦粉を焼いて差し上げたのが、
南部煎餅の始まりとされています。
東北に居た証拠としては、青森県八戸市の櫛引八幡に、
長慶天皇が着用したと伝わる「赤糸威(あかいとおどし)鎧兜」が所蔵されてます。
尚、長慶天皇の真陵候補のほとんどは、現在は解除されていますが、
青森県の旧相馬陵墓参考地(楕円形状の円丘)と、
和歌山県にある河根(かね)陵墓参考地(径約30m✖高さ5mの円丘)の、
2箇所は現陵が治定された後も「伝説地」として残っており、
特に旧相馬陵墓参考地は根強い伝承が残っています。
また、100箇所までに候補地が増えた理由は、
安徳天皇の様に家臣と共に各地を転々とした伝説の他、
地元に天皇の陵が有るとして話題や注目を集めしようとした、
自治体が幾つも有ったからと言われてます
。。。

以下に現陵及び2箇所の参考地及び伝説地を、
『事典 陵墓参考地』より引用及び抜粋します。。。

〇下嵯峨陵墓参考地(現陵)
臨時陵墓調査委員会が昭和19年2月11日に宮内大臣に宛てた答申で、
「現下ニ於テハ京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町ノ慶寿院址ニ陵ヲ定メラルヲ
最モ妥当ナリト認ム」としたことをその発端とする。
昭和16~7年の「下嵯峨陵墓参考地」に「長慶天皇ノ御陵所ニ擬スルノ説有之、
且同所ニ長慶天皇皇子承朝親王墓ノ存スヘキハ疑フヘカラサル所ナルヲ以テ、
右慶寿院址ノ主要部分ヲ一応陵墓参考地トシテ保存スルヲ適当ト被認候ニ付」と記載されており、
同地の指定が将来の長慶天皇陵となることを見越しての事であることが明らかである。
しかし、この参考地が昭和19年に正式に長慶天皇陵とされるには、
乗り越えられなければならない問題が有った。
それは「長慶天皇の遺骸を納めた場所がついに捜し当てられず、長慶天皇が住んだと思われる、
同地を最も由緒深い地として陵とした事」だった。
元々遺骸埋葬が無いにもかかわらず陵墓とされた例(景行天皇皇后播磨稲日太郎姫命日岡陵、
崇峻天皇倉梯岡上陵、桓武天皇柏原陵、二条天皇香隆寺陵、安徳天皇阿弥陀寺陵、
仲恭天皇九条陵、光明天皇大光明寺陵)も引き合いに出され、
制度上「擬陵」が容認され得るかどうかについて、
慎重に検討が加えられ、その上で長慶天皇陵として決定したのである。
尚、同地の名称は下嵯峨陵墓参考地の他、「慶寿院陵墓参考地」「慶寿院址陵墓参考地」
「嵯峨院陵墓参考地」「嵯峨天竜寺角倉陵墓参考地」「嵯峨角倉陵墓参考地」「天竜寺陵墓参考地」
・・・が候補として挙がっていた。

〇相馬陵墓参考地(指定解除済み)
『相馬村史』の明治21年12月27日に、青森県中津軽郡紙漉沢村字ウヘノ堂に、
御陵墓伝説参考地が指定され、明治41年に御陵墓参考地と改められた。
同地を長慶天皇陵とする伝承は、『相馬村史』によれば、相馬村紙漉沢の石田家に伝わる、
古文書や遺物が根拠であり、それによると、長慶天皇は譲位の後の弘和元年に南部糠部郡に移住、
元中2年に紙漉城に移り紙漉御所と称し、応永10年6月1日に崩じたという。
現陵が治定された後に、真偽を確かめようと発掘の話が持ち上がったものの、
「神聖な地」として、神社などの反対で実現しなかったとされる。

〇河根陵墓参考地(指定解除済み)
和歌山県伊都郡河根村大字丹生川参考地は、明治6年4月に丹生川村戸長外3名が上申し、
明治7年3月に実検勘註が成り、明治9年6月14日に塔の四周に仮柵を建て、
戸長をして取締らしめ、明治10年12月に工事が成り、
明治21年2月24日に伝説地と決定・・・という経過をたどった。
指定が解除された後も、同地は久度山町文化財史跡として、南朝玉川宮伝承地3件の内の1件、
「元長慶天皇御陵墓参考地附五輪石塔1基、宝篋印塔1基」として、
昭和56年6月1日に指定されている。

尚、相馬陵墓参考地の円丘も河根陵墓参考地内の円丘も、
現在までに発掘調査された実績は無く、何故上記2箇所が現在も、
長慶天皇の陵候補となっているかは定かでは有りません。
他に真陵候補地を探すのであれば、父帝である後村上天皇が葬られたとされる、
後村上天皇檜尾陵(大阪府河内長野市寺元475 観心寺境内)の近くで、
現在は新待賢門院墓とされているコウボ坂陵墓参考地もしくは、
檜尾塚陵墓参考地の2箇所どちらかが妥当ではないかと思います。
尚、コウボ坂陵墓参考地の横に隣接する形で楠木正成の首塚が有ります。
楠木家と長慶天皇は同じ南朝方の有力武将と南朝の天皇であり、
関係も深い
為・・・と考えております。
コウボ坂陵墓参考地は該当御方に新待賢門院(阿野廉子)が想定されており、
域内に直径約5m✖高さ1.5m程の小円丘が有りますが、
規模が直ぐ近くの父帝である後村上天皇の陵墳丘と似た様な規模である事がポイント。
また、コウボを漢字で書くと「皇母」となる為、
後村上天皇の母である新待賢門院(阿野廉子)の陵墓ではないかとされる理由となってます。
また、現地の画像を見てみると、斜面上に多数の石材が露出してますが、
これらの石材は墳丘規模を考えると、横穴式石室や竪穴式石室を埋蔵する形態の、
古墳時代の墳墓には見えず、奈良期以降の薄葬令に準じた低墳丘墓の様に見えます。
そして、檜尾塚陵墓参考地ですが、こちらもコウボ坂陵墓参考地同様、
該当御方に新待賢門院(阿野廉子)が想定されており、
域内に宝篋印塔が1基建てられています。
新待賢門院は長慶天皇の祖母に当たる人物である為、
後村上天皇檜尾陵に近い上記2箇所の陵墓参考地の内、
どちらか一方が長慶天皇か新待賢門院(阿野廉子)の陵墓ではないかとされています。
また、新待賢門院の陵墓とされる陵墓参考地は、
奈良県吉野郡にも川上陵墓参考地が有り、
父帝である後醍醐天皇陵に近い為というのが理由ですが、
石造五輪塔と宝篋印塔は確かに室町~鎌倉時代によく見られる墓塔や供養塔ですが、
考証意見が第3類もしくは第4類と、「調査の結果治定を解除すべきもの」にされている為、
上記2箇所ほど注目されていません。

コウボ坂陵墓参考地と檜尾塚陵墓参考地を、
非破壊調査すれば円丘内部や宝篋印塔直下に何が有るか直ぐ判明しそうですが。。。
こればかりは今後の調査を待つ他無さそうです。

:結論:
〇現陵はあくまで宮が有ったとされる地であり、遺体埋葬が無い擬陵である
=擬陵と知ってて治定に踏み切った経緯は不明
 陵が判明するまで治定を待っても良かったと思うが。。。
〇真陵は父帝である後村上天皇檜尾陵に近い位置が妥当か?
=コウボ坂陵墓参考地と檜尾塚陵墓参考地を再調査すべきである
〇崩御年齢が少々長過ぎる
〇各地に伝わる伝承や伝説を再検討/再調査すべきである
=使用したとされる遺物が有れば、DNA検査などで判明するハズ
〇実際に在位したのかや即位したのかについて、再度調査すべきである
 
以上で長慶天皇陵についての考察を終わります。
今後は陵墓地形図集成に掲載されている皇族陵墓と陵墓参考地を、
順次考察していきたいと思います(^^

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第85代天皇である、
仲恭天皇の陵について考えてみました(^^
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
東福寺の南東方向に有る小高い丘陵上の、
同一陵域内に2基の陵が営まれていますが、
宮内庁が正式に治定している仲恭天皇陵は、
矢印で示した方の円丘(囲いは八角形)となります。
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墳丘実測図拡大
頂部に平坦面を持つ小さな墳丘です。
等高線が頂部平坦面以外に見られ無い事から、段築などは無さそうです。

文久山陵図や安政山陵図などの絵図が無いのは、
明治期になってから天皇として公式に認定されたから。。。

理由としては以下に。。。
仲恭天皇は承久の乱に加担した順徳天皇の子であり、
また、在位期間が最も短く即位も認められてなかった他、
即位式も大嘗祭も行われなかった諡号・追号がされなかった為に、
江戸時代までは正式な天皇として認められていませんでした。
践祚とは「天皇の位を継ぐこと」であり、即位は皇位継承を、
内外に示す事で、仲恭天皇は「皇位継承はしたものの、
きちんと皇位継承を認めさせて無い」という理由から、
明治時代に天皇の序列に加わるまでは、 
「半帝」「九条廃帝」「後廃帝」「承久廃帝」等と呼ばれていました。
また、崩御後に何処に埋葬されたかという史料も無い為に、
現陵は御遺体埋葬が無い事が明らかな「擬陵」として治定されたものです。

上の墳丘は宮内庁により公式な陵として治定されているものですが、
実際は東山本町16丁目に有る、東山本町陵墓参考地として、
宮内庁により管理されている楕円形の円丘の方が、
真陵では無いかとされていますし、該当御方は仲恭天皇となっています。
また、陵墓参考地一覧の該当参考地の文面内にも、
「現陵よりも確か」と記載されています。
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コチラが陵墓参考地の墳丘実測図 全体像
L字型の域内の北側壁にくっつく様な立地で、
東西に長い楕円形の円丘が確認できます。
私も現地へは現陵とセットで見学に行っていますが、
北~東側が宅地開発で削られたせいで直線的になっている辺り、
元はもう少し陵域が広かったのでは?と感じました。
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参考地円丘拡大
2段築成で墳頂部は完全に平坦では無く、
頂部に植えられた樹木の付近のみ平坦面が見られる以外は、
緩やかな傾斜の蒲鉾型の頂部となってます。
墳頂部近くに針葉樹の表記が見られますが1本では無く、
2本の大きな樹木がストリートビューなどでも確認できます。
それ以外は墳丘上には常緑低木が数本植えられているのみなので、
墳丘に近づく事は出来ませんが、観察はし易いと思われます。

以下は手持ちの資料『事典 陵墓参考地』より抜粋(^^
◎東山本町陵墓参考地
・該当御方:仲恭天皇
・所在地:京都市東山区本町十六町目
     (現在:京都府京都市東山区本町16丁目)
・墳形:楕円丘
・地況:周囲宅地
・面積:四畝八歩
・指定ノ時:大正13年12月
・考証意見:第2類甲
・備考:現陵ヨリモ確カナリ

以前は塚本社という祠が域内もしくは頂部に有った模様です。
現地に見学に行った際に確認した、墳丘裾近くの五輪塔に似た形状の石塔は、
この祠に関連した供養塔的な物と思われます。
昭和24年に作成された陵墓要覧や陵墓参考地一覧には、
「現陵(治定されている)よりも確実」と記載されていて、
考証意見も陵墓の可能性が高いランクの「甲」が付けられてます。

現在治定されている陵墓よりも確実視されている参考地ですが、
上に書いた様に肝心の仲恭天皇の陵墓所在地を記した書物が無いので、
決定とはされていない模様。。。
ただ、現在真陵ではないかと言われている幾つかの参考地の内、
最も可能性が高い参考地の1基として知られてます。

宮内庁が治定している室町・鎌倉時代頃の陵墓は、
正円に近い円丘墳がほとんど
ですが、陵墓参考地や皇后・皇族の墓は、
楕円形型の円丘墳や歪な形状の円丘が多い
です。

少々人物像を、、、
わずか3歳で践祚。これは祖父である後鳥羽上皇が、
鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わったための、
親王への譲位であったが、上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、
上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に流されるという、いわゆる承久の乱が起こる。
祖父や父の配流に伴い、順徳上皇系の天皇は廃位され、
土御門上皇(自ら望んで土佐に流されている)系の、
茂仁親王(後堀河天皇)が即位したが、
幼少で政治的な判断は皆無だった為、幕府の意向で廃位となったが、
この廃位は予想外なものであり、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円が、
幕府に仲恭天皇の復位を願う文書を納めたが、聞き入れられなかった。
歴代天皇の中で、最も在位期間が短い天皇である。
在位期間78日(歴代最短)、上皇年数13年、享年17歳

在位期間が短い上、幼少だった為か事績も無いし、
健康状態なども不明の人物の為、安徳天皇の様な伝承や伝説は皆無です。
また、廃位後は生家の九條邸(現在の京都御所南端の九條池付近)に、
居住していたと伝わりますが、本町陵墓参考地までは南へ5km、
擬陵である現陵までは6kmと、少々遠いのが疑問。
九條邸近くであれば、皇族墓の多い南禅寺や知恩院付近、
もしくは父帝が埋葬されている大原陵に追葬しても良かったのでは?
・・・と思うのですが。。。

:結論:
〇現陵は明かな擬陵(遺体埋葬の事実無し)なので、
 東山本町陵墓参考地の詳細な調査を実施した上で治定解除と、  
 上記陵墓参考地が調査の結果、埋葬施設が確認された場合は、
 陵として管理した方が良い
〇「現陵よりも確か」と記載しており、それを肯定しているのに、
  何故、調査もせずに現陵の場所に陵をわざわざ造ったのかが謎
〇即位する為の行事をせずにいた為、天皇に数えられていなかった人物を、
 明治期になってから天皇に列記したのは何故か?
 =天皇の数を増やす事で、日本という国が中国やエジプトなどと同じ頃(※)に、  
  王朝が誕生していたとするための口実?
  神武天皇が即位したとする頃は縄文時代晩期頃なので大いに矛盾
※エジプトでピラミッドが建設された頃の日本は縄文時代中期~後期
 中国の殷の時代頃は縄文時代晩期

以上で仲恭天皇陵についての考察を終わります。
次回の長慶天皇で天皇陵の考察は終了ですが、
引き続き、皇族陵墓や陵墓参考地や伝承地などについて、
順次考察していきたいと考えております(^^

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第83代天皇である土御門天皇の陵について考えてみました(^^
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
周囲が水田となっている中央部に、
樹木と下草が生い茂った自然丘陵の斜面が描かれ、
絵図のほぼ中央部に石材が露出している箇所が見えます。
現在も上の絵図とほぼ変わらない景色である事がマップなどで確認できます。
現陵の西側は松林では無く、杉の樹木が多く見られる程度に変わってはいますが。。。
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「荒蕪」図 拡大
該当部分を拡大してみると、大きな石材が2~3個見えます。

以下に「山陵図」図版解説の文章を。。。
土御門帝 金原法華堂
承久の乱の責任を感じ、みずからの意志で土佐国への配流の途を
選んだ土御門上皇は、後に阿波国に遷ってその地で崩御した。
上皇の遺骨は京に戻され、母后の承明門院源在子が建立した山城国
乙訓郡の金原御堂に納められた。現陵の地は乙訓郡金ヶ原村(現・
長岡京市金ヶ原)に属しており、林の中に二個の大石が露出して
「石塚」と呼ばれていた。この東南に隣接する畑の字が「金原寺跡」
であったことから、谷森義臣はここを金原御堂の跡地であると推定した。
「荒蕪」図では林の中に大石が見え、「成功」図ではこの周囲に濠と
土堤を新設して八角形の墳丘が新造されている。地名の点からいうと
土御門天皇陵の金原御堂がこの近辺に存在したことは認めてよいであろうが、
大石が存在したというのは御堂の跡としてはいかにも不自然に思える。

「石塚」と呼ばれていたという事と、御堂の跡として不自然であるならば、
この石材は何だろう?という事になりますが、それについては、
『歴代廟陵考補遺』石棺が露出していたとする記録が有る為、
この地に法華堂が有った事は否定しがたいけれど、
元々横穴式石室内に石棺を安置した古墳時代後期頃の古墳が有ったと思われます。
法華堂が荒廃した事で、基壇下から石室が現わになったかもしれません。
現在、現陵の周辺は宅地開発されており、現陵の北側には斜面を利用した、
現代的な墓所は確認できますが、南側周辺には古墳群は見当たりません。
しかし、石棺+横穴式石室の古墳が当地に有ったのであれば、
他にも周囲に幾つかの古墳が有ったかもしれません。
調査前に破壊&湮滅してしまった可能性も考えられますが。。。
ただ、周辺道路から現陵の西側周辺の丘陵斜面を見てみると、
斜面や頂部などに、古墳では?と思われる膨らみが幾つか見られる事から、
もし実際に古墳だとすれば、同一丘陵上に古墳時代後期~末期頃の古墳群が有り、
現陵もその古墳群の一部でたまたま、丘陵先端部に有った事と規模が大きかった事で、
法華堂が建てられ荒廃した後に、明治期の修陵で現在の姿になったのではないでしょうか?
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「成功」図 全体像
石材を中心に八角形状に周囲を掘り下げて堀を造り、
土を盛上げて外堤を整備し、参道と拝所を整備した状態。
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「成功」図 墳丘部分拡大
拡大してみると2個の石材はそのまま露出した状態で、
土で覆われた墳丘では無い事が分かります。
・・・が、現在陵墓地形図集成などの実測図で見てみると、
八角形の基壇上に円丘が確認でき、この石材の描写は無いので、
明治期の修陵の際に円丘の中に埋められたと思われます。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
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墳丘実測図拡大
周堤は全周しておらず、北~北東側が欠けています。
航空写真では墳丘は見えませんが、生垣と周堤の一部が確認できます。

現陵が八角墳として修陵される以前に、塚上に法華堂が有ったとされていますが、
既に廃れてしまっていた為、江戸時代の初め頃に御堂の維持・管理のために、
金原寺(こんげんじ)が営まれたとされていますが、
文久年間に修陵を実施するより前に既に荒廃していたとされています。
昔の寺院内には金銅製品など値が付く物品が数多く収蔵されている為、
荒廃した際に付近の住民などに持ち去られた可能性も有るかと思います。
なお、薄葬の風習が天皇・皇族の陵墓制に採用されていたから、
天皇の遺体は火葬され、法華堂内に安置されていたのに、
八角形状に盛土して巨大な墳丘を造ってしまった明治期の修陵には、
違和感を感じてしまいます(^^;
鳥羽天皇や後白河天皇などの様に、法華堂をそのまま改葬(修理)して、
墳丘を造らずにいる例も有るので、何故土御門天皇の陵は、
この様に造ってしまったのでしょうね?
法華堂が荒廃していたのであれば、新しく法華堂を作り直した方が、
費用的にも安価に済んだと思いますが。。。

尚、荒廃してから後の火葬骨の行方は不明となっており、
「成功」図でも確認できる様に、露出した石材がそのままとなっている辺り、
その石材の下に新たに石槨を造って埋葬されたとは思えないので、
実際に法華堂が有ったとしても、火葬骨を探す必要が有るかと思います。

他に真陵の候補や伝説地としては、、、
土御門天皇火葬塚阿波神社
徳島県鳴門市大麻町池谷大石に、周濠を巡らせた土御門天皇の火葬塚と、
陪塚(人物埋葬では無く、天皇の所持品を埋納か?)2基が、
それぞれ宮内庁により治定/管理されているが、この火葬塚で火葬に付された後、
土を盛って陵としたとする説が有ります。
また、隣接する阿波神社の祭神は土御門天皇です。

承久の乱が勃発し、乱後に直接関与した後鳥羽院や順徳院は流される。
土御門院自身は関与していなかったが、
「父と弟が流罪になったのに、自分だけ京に留まるのは忍びない」
・・・とし、自ら望んで土佐へ配流となったが、
幕府の配慮により京に近い阿波へ移動となり、
行宮を守護に造営させる等の厚遇を受けた。
その後阿波で崩御した為に同地で火葬されたが、
御遺骨は京に戻るも京の近くに戻る事は許されなかった為、
金ヶ原法華堂(現材の長岡京市金ヶ原金原寺)に埋葬された。
在位12年、上皇年数21年、35歳()で崩御。

※火葬塚に隣接する阿波神社の御由緒板には37歳で崩御したと記載

尚、鎌倉時代の平均寿命は24歳前後となっています。
乱後に阿波に流刑となり、皇居という恵まれた環境とは違い、
行宮が建設されていたとしても、現代の様に医療も発達していないハズなのに、
当時の平均寿命を10年以上も超える事が可能だったか疑問です。 

:結論:
〇法華堂が現陵の付近に有った事は事実であるかもしれないが、
 痕跡や現地を碌に調査をしていない事が不自然
〇墳丘規模が薄葬の主旨に合致していない
〇鎌倉時代の人物なのに、現陵は古墳時代後期の古墳である可能性有り
〇火葬骨を法華堂に安置としているのに、法華堂の再建では無く、
 何故か墳丘を造っている謎
〇崩御年齢がいずれの説も平均寿命を超えている

以上で土御門天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第81代天皇である安徳天皇の陵について考えてみました(^^
壇ノ浦の戦いで二位の尼と共に海中に没したとされていますが、
生き残り伝説(平家落人伝説)が、主に西日本に散在(最北端は青森県)する為、
現陵は山口県の赤間神宮境内に治定されていますが、
陵墓参考地や伝承地などが多数ありますので、
治定されている現陵から順に考察していきたいと思います(^^

〇安徳天皇阿弥陀寺陵(現陵)(山口県)
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
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墳丘実測図 拡大
安徳天皇
名前は言仁(トキヒト)
生没年は治承2(1178)年~寿永4(1185)年
在位期間は治承4(1180)年~寿永4(1186)年
数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位。
壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突した結果、平氏軍は敗北し一門は滅亡に至った。
安徳天皇は最後を覚悟して神鏡と宝剣を身に着けた祖母の二位尼(平時子)に、
抱き上げられ壇ノ浦の急流に身を投じた(入水自殺)と伝わる。
尚、鏡と勾玉は熊手に引っ掛かり引き上げられたが、
剣だけは見つからなかった為、後日伊勢神宮から献上された草薙剣を、
宝剣として新たに神器に加えた上で、その後の儀式で使用されたそうです。
在位年数6年、8歳で崩御(崩御というよりも無理心中?)

赤間神宮の境内に造営されている陵で、
形状は円丘ですが、基壇部分は八角形となっています。
高さは1.5m程度で直径は10m未満のとても小さな円墳ですが、
考古学的名称は有りません。
合戦の翌日に、源義経が漁師に命じて三種の神器を捜索させた際、
底引き網に引っ掛かった安徳天皇の遺体を埋葬したとされるが史料に記載が無く不明である。
陵の直ぐ背後には壇ノ浦合戦で敗れて落命した平家一門の墓所(七盛塚)が有る。
現陵は壇ノ浦古戦場から南西へ1.5kmの距離で、
陵の直ぐ前が浦となっている為、地元の言い伝えに合致する可能性は高いが、
網に引っ掛かったのは安徳天皇では無く別人で、天皇は引き上げられなかった為、
供養の為に五輪塔を建て、明治期の修陵の際に土を盛って五輪塔を埋めて、
円丘を造ったとする説も有り、その説が事実の場合は遺体埋葬が無い擬陵となる。

尚、この五輪塔に盛土の説ですが、
『国史大辞典』第1巻の安徳天皇阿弥陀寺陵項に、
「明治8年(1875)阿弥陀寺を廃止して赤間宮とし、
同22年御影堂の遺跡に陵を営み、旧堂基壇と五輪塔に土盛をして円丘とし、
陵背に接続する「平家塚」と呼ぶ五輪塔の群立地域を陵の付属地とした」

・・・との記載が有ります。

また、下関市伊崎町には壇ノ浦の戦いの翌日、漁師たちが網に掛かった、
安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所が有ります。
しかし、現実的に考えてみると、壇ノ浦の有る海域は海峡の幅が狭く潮流も速いため、
タンカーや貨物船などの事故が多発している難所とも言われる海域
となっています。
その為、果たして底引き網程度で三種の神器や安徳天皇と二位の尼の遺体を引き上げる捜索が、
実際に行われたのかは疑問であり、「底引き網を使用した」と有りますが、
最深部で水深47mを計る為、かなり大がかりな網を使用しなければならないハズで、
潮流は大潮で最大10ノットを超える事も有る急流地帯である為、
現代の大型エンジンを搭載した船で無ければ、
当時の手漕ぎの木造舟で捜索するなど、現実的に考えなくても不可能そうに思います。

また、安徳天皇の陵墓であるとする参考地/伝説地は山口県の他、
長崎県対馬、高知県、熊本県、鳥取県にも有りますが、
これは壇ノ浦に沈んだのは別人(影武者説有り)であり、
天皇本人は生き残り、数人の従臣や女官らと共に隠れながら、
終焉の地に辿り着いたとする伝説に基づくものである事から、
考証意見は全て「調査の結果治定を解除すべし」
・・・という第3類(第4類)に属しています。

以下に各地に有る安徳天皇の陵墓参考地の地形図と調査結果を、
『事典 陵墓参考地』などから一部引用します。

〇宇倍野陵墓参考地(岡益の石堂)(鳥取県)
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参考地全体像
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参考地部分拡大
宮内庁が治定している陵墓参考地の中で唯一の石造構造物の参考地
石板に囲まれた内部に1本の石柱が建てられているが、
誰がいつ何の為に建てたかは不明となっています。
宮内庁が保存処理の際に実施した事前調査により、
周囲から石造五輪塔の部材や完品などが複数出土し、
その五輪塔類は参考地敷地内南側の隅丸長方形状の土地内に現状保存されています。

この地に伝わる伝承は以下に。。。
「壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸し岡益にある寺の住職の庇護を受けた。
天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。
その後荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。
岡益の石堂はこの時建立された安徳天皇の墓所と伝わる」

・該当御方:安徳天皇
・所在地:鳥取県岩美郡宇倍野村大字岡益字敏谷地
     (現住所:鳥取県鳥取市国府町岡益)
・指定ノ時:明治28年12月4日
・現況:基壇上に石柱
・考証意見:
第三類
・備考:「陵墓伝説地・御陵墓参考地各県へ通達写」の注記に、
    「安徳天皇に縁故ある見込み」と記載

この備考の部分の注の部分で、必ずしも安徳天皇陵とまでは言い切って無い事に注目
最近の調査により、石柱の形式が飛鳥時代に創建された法隆寺の柱と似ている事から、
古くとも上記時代頃の建造物であり、安徳天皇が生きていた時代とは合致しない事が、
判明
しています。
その為、現在では平家の落人は居たであろうが、
安徳天皇では無い上、参考地も天皇の陵でも無いとし、
以前にこの地に有った慰霊塔的な構造物であろうとされています。

〇西市陵墓参考地(山口県)
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参考地全体像
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参考地部分拡大
現陵と同じ山口県にある参考地で、毎年例祭が行われる。

・該当御方:安徳天皇
・所在地:山口県豊浦郡西市町大字吉村字土居上
     (現在:山口県下関市豊田町地吉)
     『豊浦郡地吉村大字丸尾山古墳』
・墳形:丘陵『山形』、大石十ヶ余アリ
・指定ノ時:明治十六年四月五日
・考証意見:第三類
・備考:『伝説』
「丸尾山古墳」と以前に呼ばれていた事から、
参考地全体を「前方後円墳ではないか?」と唱える方も居ますが、
個人的には独立自然丘陵にしか見えず、また前方後円墳であるならば、
安徳天皇とは全く時代が合わない事になります。。。
また、前方後円墳であるとしても、立地が不自然であり、
豊田湖に後円部部分が接する様には造れません。
付近に古墳などは無い為、地元の人間が個人的な見解で「古墳」と言っただけで、
一般的な埋葬主体部を持つ高塚式の古墳とは違うと思われます。

同じく「竪穴式石室の残骸」とする意見も有りますが、
やはり安徳天皇の時代とはズレてしまう為、この見解も無理が有ります。
参考地区域内、丘陵頂部には長方形状に石垣が組まれた区画が有り、
内部に多数の石材が確認できます。
おそらく神社や祠に関連する石材であり、基礎や敷石に使用されたか、
または磐座的な祭祀遺構などの石材が散乱しているだけ
の様に見えます。
また長方形状の石垣は明治期に参考地指定をした際に設置されたので、
やはり安徳天皇の時代とは全く合いません。
壇ノ浦の戦いで海中に没した安徳天皇を海から遠く離れた山中まで運び、
平家とは何の縁も無い場所に葬るという事が疑問に思います。
尚、参考地から壇ノ浦で安徳天皇の遺体が引き上げられたとする、
沢江浦までは約50kmもの距離が有り、道中も平坦では無く、
山を幾つも越えなければならず、人力で棺を運ぶといった説話も、
無理が有る様に思います。

伝説の内容としては、、、
壇ノ浦の合戦後、源義経は沿岸の漁師を動員して、
三種の神器の内水没した神剣を探していた。
沢江浦の漁師が底引き網を曳いていると、
安徳天皇の御遺骸が網に掛かって発見されたが、
神剣は見つからなかった。
御遺骸と網を棺に移して運んでいたところ、
急に重くなり運ぶことができなくなった。
そのため棺を立てて休憩したことからこの地を、
「御篭建場(かごたてば)」と称するようになった。
休憩したのち、南方の人里離れた丘に御遺骸を埋葬したのが、
現在の「安徳天皇西市御陵墓」なのだと。

尚、参考地の前方50mの湖底より古刀が出土しているが、
安徳天皇の時代のものかは不明であり、現在所在も不明である。

〇越知陵墓参考地(高知県)
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参考地全体像
自然の山の頂部に有ります。
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参考地部分拡大
グーグルマップなどでは「鞠ヶ奈呂陵墓」と検索するとヒットします。
安徳天皇の陵墓参考地中、最も山深い場所に有ります。
横倉山の山頂付近に位置しており、陵墓地形図に掲載されている地形図には、
方形区画内に方形の檀が見えますが、公式形状は「円丘」と記載されています。
考証意見は第三類ですが、「地元に古くから御陵として特に深い信仰がある」として、
参考地指定を受けた模様です。
尚、壇ノ浦古戦場からは300kmも離れています。。。

・該当御方:安徳天皇
・所在地:高知県高岡郡越知町字金峯山
     (現在:高知県高岡郡越知町)
・墳形:円丘、中央ニ方形土壇アリ
・指定ノ時:明治十六年四月五日
・考証意見:第三類

画像検索を掛けると、内部の様子を撮影した画像が見れますが、
方形区画内のどこにも「円丘」に該当する部分は見られず、
方形の土壇も見られず、ほぼ平坦面に見えます。
平安時代以降の低墳丘墓だった場合は可能性が有るかもしれませんが、
人里からかなり離れた森深い山頂に、わざわざ墓を造る事が考えにくいです。
また画像を見る限りでは、良く神社境内などで見られる禁足地の他、
経筒を内部に納めた経塚の可能性も有るかと思います。

この地に伝わる説話は、「平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、
同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが23歳で崩御し、
鞠ヶ奈呂に土葬された」とするもの。
マップで確認すると、参考地の周辺には平家にまつわるとされる名所旧跡が存在する。

・「平家穴」=壇ノ浦合戦から生き延びて辿り着いた際に隠れていたと言われる洞穴
・「平家の宮(神社)」=この地で終焉を迎えた平家一門を祀る
・「飛騨守景家之墓」=安徳天皇の従臣の墓所と伝わる
・「八坂神社」=安徳天皇勧請と伝わる
・「安徳天皇行在所跡」=安徳天皇の居宅跡
平家に関係するかと思われる神社や名所が多く見られるので、
平家一族の落人伝説が有るかもしれませんが、
壇ノ浦に沈んだ安徳天皇が影武者だったとする史料は無い為、
平家の一族が移り住んだかもしれませんが、
何故壇ノ浦から300kmも離れた山中に行ったのかは謎です。。。

この地に伝わる伝説は以下の通り、、、
「文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代りを立てた本隊を
下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門はひそかに四国に上陸した。
1年数か月の潜幸の後ここ横倉山に辿り着き終焉の地としたが、正治二年(1200)に
御歳二十三歳で崩御しこの地に奉葬される。天皇が従臣らと蹴鞠をされた所と伝えられ、
地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」ともいう。ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた
「御馬場跡」と言われている。
明治十六年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。
正式には「越知陵墓参考地」。県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。」

〇佐須陵墓参考地(長崎県対馬)
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参考地全体像
こちらは自然丘陵の斜面の一部分が参考地域として指定されてます。
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参考地部分拡大
平家落ち武者伝説と安徳天皇生き残り伝説が元になっています。
また、対馬に渡った安徳天皇が島津氏の娘との間に儲けた子が、
宗重尚であるという説が有ります。

・該当御方:安徳天皇
・所在地:長崎県下県郡佐須村大字久保田舎字補陀落山
     (現在は長崎県対馬市厳原町久根田舎)
・墳形:山形
・指定ノ時:明治十六年四月五日
・考証意見:第三類
・備考:『久根村、大内山ト云フ地ノ中腹大内 カワヤの石碑』

この地は壇ノ浦で入水せずに難を逃れた安徳天皇が、
数名の従臣と共に居住し、74歳で崩御された場所という伝承が有る。
離島陵墓の1つで、陵墓のある離島としては最も遠い。
墳形には山形とあるが、現況は石垣で構築された基壇上に石塔が建てられている。
参考地本体の画像は検索を掛けると閲覧できますが、
どう見ても「最近になって作られた」様にしか見えません(^^;
安徳天皇の時代に造られたにしては、石材が綺麗過ぎると思います。。。
安徳天皇本人では無く、祠的な物ではないかとされています。
また74歳という年齢も、当時の平均寿命を遥かに超えており、
現実的に考えても、別人や後世の創作ではないかと思われます。

対馬市が建てた説明板には以下の様に記載されてます。
安徳天皇御陵墓参考地
「この村の古名を大調(おおつき)といい、歴史と伝説の多いところである。
今も学校の校名を大調と呼んでいる。これは良質の銀を産出し調貢したからで、
大きな調(つき)の里の意味がある。
学校の隣の御所大明神(別名・銀山上神社)は「寿永用保」と銘のある古鏡を、
寿永帝(安徳天皇)の遺品とし、御神体として祀っている。
明治十六年四月五日、安徳天皇御陵墓見込みとなり、その後昭和二年、
御陵墓参考地と改められた。
対馬の地頭代であったとされる宗重尚公は壇の浦合戦後六十余年、
帝が七十歳の時の寛元四年(1248)筑前与志井からお迎えして、
久根の地に御所を営んだと言われている。
それから五年後、建長五年(1253)四月五日に帝は崩御された。」

尚、壇ノ浦古戦場跡からは240kmの距離が有ります(^^;

〇花園陵墓参考地(熊本県)
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参考地全体像
独立自然丘陵の頂部に立地。
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参考地部分拡大
考古学的名称は晩免古墳と呼ばれており、
5世紀後半頃に成立した立岡古墳群中の1基で、
組合式家型石棺の出土が伝わる直径30~35mの円墳。
石棺の身の内側に菊花文があることから地元に伝わる安徳天皇伝説を受け、
宮内省から御陵墓参考地に指定された。
明治期の調査記録によれば、主体部となっている石棺は蓋上面に、
短冊状の区画が有り、小口部に円柱状縄掛突起、両長辺に環状縄掛突起が、
三個ずつ付いており、身の内面には刀掛け状突起が有り、
円文があらわされていたとする。
尚、出土品については所在不明となっており、葺石や埴輪も確認されていない。
近くに楢崎古墳(前方後円墳 全長46m)が有り、
後円部頂部直下に3基の組合式家型石棺と石蓋土壙を、
前方部にも1基の組合式箱型石棺を埋納するが、
晩免古墳から出土した家型石棺もこの楢崎古墳の物と同型式とされています。

これまでの調査で、石棺の身に刻まれた彫刻は、
菊花文ではなく、九州地方で良く見られる円文の一種であり、
築造年代も5世紀後半頃と見られる事から、
安徳天皇の時代とは全く合わない事も指摘されているので、
ここは治定解除が望ましいと思います。
そもそも安徳天皇の時代に家型石棺が採用される事は無いですよね?(^^;

壇ノ浦古戦場からは214kmもの距離が有る。

・該当御方:安徳天皇
・所在地:熊本県宇土郡花園村大字岡字晩免
     (現在:熊本県宇土市立岡町607)
・墳形:円丘
・指定ノ時:明治二十一年十二月二十六日
・考証意見:第三類
・備考:『〔帝室例規類纂〕明治二十一年山陵三 参考地指定関係
             明治二十一年山陵三 木柵取設ノ件
     (蓋石表面ニ彫刻アリシモノ如シ)

以前に見学しに行った際に墳丘を見てますが、直径30~35mの規模には見えず、
現存直径5~6m、高さ1.5m程度の中近世の塚の様に見えました(^^;
出土した家型石棺を土を盛って保護している状態の為、
かなり小規模な円墳であると感じました。

その他の平家の落人伝説が有る地を以下に、
「=」に私個人的な考えを書いてみました。

・青森県つがる市木造町天皇山
 安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。
=壇ノ浦からつがる市までは、海を進んだとしても相当な距離が有る為、
 現実的に考えて可能性は低そうに思います(^^;

・摂津国(大阪北東部)来見山安徳天皇御陵墓
 能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。
 戦場を脱した安徳天皇と4人の侍従が「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、
 能勢の野間郷に潜幸されたが、翌年崩御され、当地の岩崎八幡社に祀られた。
 能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓とされる塚が有るが、
 源氏の追求を惑わすための偽墓とされている。
=画像検索すると、安徳天皇御陵墓と刻まれた現代風の墓石の背後に、
 頂部に小さな石柱が建てられた塚が確認できますが、
 壇ノ浦から当地までは結構な距離が有るので不自然です。

・鳥取県八頭郡八頭町姫路 上岡田五輪塔群
 安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残り、天皇に付き従った女官などのものとされる、
 五輪塔が存在する。
=調査は実施されておらず、いつの時代の五輪塔かははっきりしていません。

・鳥取県東伯郡三朝町
 安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。
=平家一族を名乗る平家側兵士の生き残りではないか?
 当時8歳の子供が歩ける距離では無いため不自然。

・徳島県三好市(阿波国祖谷山) 栗枝渡八幡神社 安徳帝御火葬場
 壇ノ浦から逃れた天皇と一行が同地に落ち延び、天皇が崩御したとする説。
 「鉾伏」や「栗枝渡」等の安徳天皇に由来すると伝わる地名が有る。
 安徳帝はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社境内で火葬されたと伝わる。
 火葬後の遺骨を御神体として同神社内に祀っているとされる。
=安徳天皇と、どの様な由来が有るのかが明らかになっておらず不明。
 御神体を見るのは畏れ多いが、X線で内部の様子を見るくらいは許されるのでは?

・徳島県の剣山
 安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を修めたという伝説が有る。
=剣山にはアーク(聖櫃)伝説が有るが、この伝説と混在した可能性有り。

・肥前国山田郷
 二位尼らとともに山田郷に逃れた後、安徳帝は出家して宋に渡り仏法を修め、
 帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に43歳で没したとする説。
崩御年齢が当時の平均寿命を超えているため不自然。

・薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)
 平資盛に警護されながら豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとする説。
 安徳帝は資盛の娘とされる櫛筍局と結婚して子を儲けたとされる。
 硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた、
 長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいた。
 安徳天皇の陵墓とされる石塔墓と平家一門が眠るとされる石塔群が有る。
=この長浜豊彦という人物については諸説あるが、天皇の子孫などでは全く無く
 自発的に「自分は天皇の末裔である」と称し、マスコミが「長浜天皇」などと呼んだ事から、
 島民から「天皇さん」と呼ばれていた模様。

 安徳天皇の陵墓とされる石塔については、鹿児島県文化財保護委員会が、
 調査に来たが「貴重なものだが御陵とは断定できない」としている。

・大隅国牛根麓
 硫黄島から移ってきた安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られたとする説。
裏付けとなる資料が無いため伝説に過ぎないと思われる。

:結論:
〇安徳天皇本人は海中に没したまま急な海流により流され、
 遺体は引き上げられなかった可能性大
〇現代の大型船やタンカーでも難所と言われる海域なのに、
 8歳程度の子供が引き上げられるのは考え難い
〇47mもの深さが有る海域なので底引き網使用は考え難い
〇現陵以外の参考地はそれぞれ、何らかの慰霊塔的な構造物の他、
 祠や堂建築物の跡だったり、古墳時代後期の古墳であるので、
 一部で平家が関わっていたとしても、安徳天皇の陵墓とするには、
 どれも確証が無い為、指定解除すべきである

以上で安徳天皇陵についての考察を終わります。 

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