皆様こんにちは~(^▽^)
今回から皇族の陵墓について、陵墓地形図集成に掲載されているものを、
1基づつ考察していきたいと思います(^^
今回は崇神天皇の皇子とされている大入杵命の墓を。。。
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
右下の大きな円墳が大入杵命の墓とされている古墳で、
左上の前方後方墳はい号陪塚として、宮内庁の指定・管理がされている古墳です。
〇皇子の実在性に疑問が有る
=古事記だけに記載され、日本書紀には登場しないのが不自然
〇古事記には実在したと記載されているのに、
事績の欄が無い事と婚姻の事実や子女の欄も無い事が謎
=能登国造の先祖となるなら子女は居たハズなのに。。。
〇古墳の築造時期と比定されている人物の年代が合わない
〇陪塚が前方後方墳な例は非常に珍しい
〇陵墓指定されているのに、埋葬主体部と出土品が知られている不思議
=指定前に発掘された可能性大
〇能登国造の先祖とあるが非確定
=そもそも実在が疑われている人物なので、国造の先祖は別人か?
〇農業の神が作り替えられた可能性有り
以上で大入杵命墓についての考察を終わります。
今回から皇族の陵墓について、陵墓地形図集成に掲載されているものを、
1基づつ考察していきたいと思います(^^
今回は崇神天皇の皇子とされている大入杵命の墓を。。。
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
右下の大きな円墳が大入杵命の墓とされている古墳で、
左上の前方後方墳はい号陪塚として、宮内庁の指定・管理がされている古墳です。
考古学的名称は小田中親王塚古墳と呼ばれる円墳で、
墳丘直径65m✖高さ14mの規模を持ち、
3段築成で葺石が認められ、北側を除く部分で周濠が確認されており、
4世紀後半~末期頃の築造と推定されています。
現状は円墳ですが、本来は帆立貝型前方後円墳だったとする説も有ります。
確かに墳丘実測図を見ると、拝所に接している箇所の等高線が直線的なので、
拝所の方向に短い前方部が有ったとしても不思議では有りませんね。
現在はコロナの影響や調査資金が無いのか、地方の陵墓については、
未調査で現状維持のままが多いので、墳形確認調査が実施されるまで、
墳形確定は待つほかないですね(^^;
確かに墳丘実測図を見ると、拝所に接している箇所の等高線が直線的なので、
拝所の方向に短い前方部が有ったとしても不思議では有りませんね。
現在はコロナの影響や調査資金が無いのか、地方の陵墓については、
未調査で現状維持のままが多いので、墳形確認調査が実施されるまで、
墳形確定は待つほかないですね(^^;
尚、埋葬主体部は竪穴式石室とされていましたが、かつて描かれた絵図から、
石槨であった事が知られています。
出土品は三角縁神獣鏡、管玉、鍬形石、石棒が知られていますが埴輪は検出されていません。
尚、鍬形石と石棒は古墳からではなく、古墳近くの土中から出土したそうなので、
古墳の下や周囲に住居跡が埋蔵されていると推定されています。
古墳の下や周囲に住居跡が埋蔵されていると推定されています。
「い号飛地(陪塚)」は亀塚古墳と呼ばれる全長62mの前方後方墳。
埋葬主体部は知られていないが、墳頂部に縦長の窪みが認められる。
こちらも石槨か木棺直葬や粘土槨などが想定されています。
尚、主墳が円墳で陪塚が前方後方墳な例はココだけです(^^;
普通に考えれば、前方後方墳という墳形は、
3世紀後半頃から造られ始める(弥生時代の墳丘墓は除外)ので、
亀塚古墳の方が先に築かれ、後から小田中親王塚古墳が築かれたと考えた方が自然に思います。
:結論:尚、主墳が円墳で陪塚が前方後方墳な例はココだけです(^^;
普通に考えれば、前方後方墳という墳形は、
3世紀後半頃から造られ始める(弥生時代の墳丘墓は除外)ので、
亀塚古墳の方が先に築かれ、後から小田中親王塚古墳が築かれたと考えた方が自然に思います。
2基の古墳は、小田中(こだなか)古墳群と呼ばれており、
特に親王塚古墳の方は『平家物語』の第7巻に、
「木曾殿(木曽義仲)は志保の山打ちこえて、能登の小田中、親王の塚の前に陣をとる」
と見られることから、古くから知られた古墳とされています。
古墳名は以前に墳頂に「親王社(新王社)」と称される社が有った事に由来していますが、
陵墓指定を受けて、現在は撤去されているものの、
墳頂部平坦面の最も高い位置がこの社の基壇と見られています。
大入杵命については、崇神天皇の皇子である事は確かなものの、
古事記にのみ登場し、日本書紀には登場しない為、非実在説が濃厚。
父帝の命令を受け、能登国に赴き同国を治め、
能登国造の先祖となったと伝わるが、同国を治めたと伝わる割に、
事績は無く、婚姻・子息子女の記述も無い為、
実際に能登臣の先祖なのかどうか疑問。
もし先祖であるとするならば、代々相続した人物が居るハズなのですが、
記述が無い辺り、先祖は皇子とは関係の無い別人である可能性が有ると思われます。
もし先祖であるとするならば、代々相続した人物が居るハズなのですが、
記述が無い辺り、先祖は皇子とは関係の無い別人である可能性が有ると思われます。
また、名前に「杵」の字が入っている事から、
農業の神が人物に替えられたと思われます。
生没年は不明ですが、崇神天皇が実在すると仮定すれば、
治世時期は3世紀後半頃となり、皇子の生没年は3世紀後半~4世紀前半頃となる為、
小田中親王塚古墳の推定築造時期と合致しません。
そして、以前に崇神天皇陵考察にも書きましたが、
3世紀頃の日本は縄文時代晩期~弥生時代となる為、
武器は柔らかい金属の為、殺傷能力が低い青銅製の剣や短刀の他、簡単な造りの弓矢くらいで、
鉄器がまだ伝わっていない時代の為、粗末な武器や武具で、
中央政権の力が伝わっていない地方の国を、如何にして治めたのか謎です。
また、3世紀頃の平均寿命は15歳前後(※)とされる為、
3世紀頃の日本は縄文時代晩期~弥生時代となる為、
武器は柔らかい金属の為、殺傷能力が低い青銅製の剣や短刀の他、簡単な造りの弓矢くらいで、
鉄器がまだ伝わっていない時代の為、粗末な武器や武具で、
中央政権の力が伝わっていない地方の国を、如何にして治めたのか謎です。
また、3世紀頃の平均寿命は15歳前後(※)とされる為、
現実的に考えても皇子の存在に疑問に持たざるをえません。
※日本人の平均寿命が50歳を超えるのは第2次世界大戦後以降で、
食の欧米化が進んだことによるものと、医療の発達によるものであり、
質素でバランスの良い日本食が、必ずしも長寿の理由にはならないとされてます。
〇皇子の実在性に疑問が有る
=古事記だけに記載され、日本書紀には登場しないのが不自然
〇古事記には実在したと記載されているのに、
事績の欄が無い事と婚姻の事実や子女の欄も無い事が謎
=能登国造の先祖となるなら子女は居たハズなのに。。。
〇古墳の築造時期と比定されている人物の年代が合わない
〇陪塚が前方後方墳な例は非常に珍しい
〇陵墓指定されているのに、埋葬主体部と出土品が知られている不思議
=指定前に発掘された可能性大
〇能登国造の先祖とあるが非確定
=そもそも実在が疑われている人物なので、国造の先祖は別人か?
〇農業の神が作り替えられた可能性有り
以上で大入杵命墓についての考察を終わります。