関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2021年01月

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第32代天皇である、
崇峻天皇と陵墓について考えてみました(^^

この陵墓が治定されたのは明治期になってからの為、文久山陵図には掲載されていません。
・・・ので、陵墓地形図集成に掲載されている、現陵の実測図のみとなります(^^;
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
東西に細長い形状の陵域内東端に円丘が見えます。
崇峻天皇に縁の有る法華堂が有った事と、
皇居である倉梯柴垣宮伝承地でもあるため、現陵を治定した模様です。
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実測図拡大
こちらは、古墳では無い為に考古学的名称は有りません。
尚、その日の内に埋葬した事に加え、陵地・陵戸が無い事も他に例が無いです。

この円丘は直径30m✖高さ50cm程度の法華堂の基壇とされています。
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『安政山陵図』より天皇屋舗(天皇屋敷)の図
安政年間にはこの様に基壇を石で覆った土台に、
社殿が建っている様子が描かれてますので、
現陵はこの基壇部分であるとされています。

なお、真陵は現陵から北東方向に2.4km離れた場所に有る、
赤坂天王山古墳高い確率で真陵であるとされています。
6世紀末~7世紀初頭頃に築造されたと推定されており、
一辺42~50m✖高さ9mという規模を持ち、
内部に家型石棺を安置した巨大な横穴式石室が構築されています。
また、3段築成で葺石も伴っています。
早くから開口していた為、出土品などは皆無で、
石棺も穴を空けられて盗掘されていますが、
・蘇我氏系の人物がほぼ方墳を採用している事
・『日本書紀』に崇峻天皇は倉橋の地に葬られたと記されており、
  この地域で造られた古墳で該当するものは当古墳以外に見当たらない
・明治時代に現陵に治定されるまでは本墳が崇峻天皇陵に擬せられていた
・墳丘規模が大きい
・家型石棺や石室の年代が崇峻天皇の崩御年と合致している

・・・などから、本墳が真陵である可能性が高いとされています。

また、崇峻天皇陵には附属地として雀塚と呼ばれる、
形態&規模不明の古墳が1基有りますが、
現在は古墳では無く崇峻天皇とは無関係経塚とされています。

崇峻天皇は臣下によって暗殺された唯一の天皇ですが、
暗殺された当日に埋葬されたと伝わってます。。。
仮に赤坂天王山古墳が真陵だったとしても、
1日の内に一辺42~50mもの方形墳を造り、
内部に巨大な石材を使用した長大な横穴式石室を構築し、
重量の有る家型石棺(最初に石棺を安置して後から石室を造った?)を、
石室内に安置したと考えるのは、少々不自然すぎるので、
「1日の内に」というのは間違いで、「1ヶ月」が正しいかと思われます。

次に人物像を、、、
名前は泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)
・生没年:欽明天皇14(553)年~崇峻天皇5(592)年
・在位期間:崇峻天皇元(587)年~崇峻天皇5(592)年
在位年数6年、崩御年齢は諸説有るが30代後半頃とされている。

事績としては、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行ったとされます。

しかし、即位した後でも政治の実権は常に蘇我馬子が握っていた為、
次第に不満を感じる様になり、ある時に献上された猪を見て、
「いつかこの猪の首を斬る様に、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と、
発言したことを聞きつけた蘇我馬子は部下の東漢直駒に命じて暗殺させたとされています。
臣下により殺害された天皇は、確定している例では唯一です。

近年、歴史学者の一人である佐藤長門氏は、
「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、
天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、
蘇我馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での、
「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。

皇居である倉梯柴垣宮の推定跡地は、
現陵から北東へ450mの位置に有ります。
尚、推定地から天王山古墳までの距離は北東へ2kmの距離となります。

:結論:
〇現陵は法華堂の基壇であり古墳では無い
〇埋葬主体部が無い擬陵
〇暗殺されたその日の内に造ったとされるが、
 現実的に考えて無理な点が多い
〇事績が少ない
〇在位年数6年で夫人(妃)は居るが皇后が居ない
〇暗殺時の年齢に諸説有る

これまでは実在性が低い天皇と陵が幾つも出てきましたが、
実在性の高い天皇の陵が伝承地なのは珍しい例ですね(^^;
この陵こそ古墳では無いのだから、治定解除願いたいです。。。

以上で崇峻天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

茨城県稲敷郡美浦村に有る、
木原白旗古墳群の紹介記事はこれでラストとなります(^^
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『続・常陸の古墳群』より分布図
11号墳は工場敷地内の駐車場建設により消滅しています。
10号墳は、11号跡地の南に有る人工的な丘陵(中世城郭跡)と、
元々同一の丘陵であった北側の丘陵上に立地しています。

10号墳から、、、
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西から見た根火山大日塚古墳(白旗10号墳)の遠景
丘陵上平坦面東端に立地しており、古墳群内唯一の方墳となります(^^
また、正式な発掘調査は実施されていませんが、
墳丘の裾周囲に窪みがみられる事から、周濠を持つと推定され、
出土品なども伝わっていませんが、組合式箱型石棺を埋蔵していた事から、
6世紀代の築造と推定されています。
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東側から墳丘に近寄って。。。
墳頂部に箱型石棺材と伝わる板石に仏像を彫り込んだ石碑が建てられてます。
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墳頂部の大日如来像。
古墳名はこの大日如来像から名付けられてます。
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仏像の裏側を撮影。
加工痕が見られ、角が丸く削られてますが、
奥に見える石材と共に、箱型石棺の部材とされています。
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元禄13年の文字が読めます。
相当昔からこの様な状態だったのでしょうか?(^^;
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もう1枚は頂部平坦面北側端に立てられてますが、コチラは何も刻まれていません。
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横(厚み)と裏側。
箱型石棺の部材だとすれば、底石板でしょうか?

※古墳所在地ですが私有地内の為、詳細は控えさせて頂きます。
:根火山大日塚古墳(白幡10号墳):
・墳形:方墳
・規模:東西約16m✖南北約15m✖高さ2.5m
・周濠:未確認だが周囲に窪み有り
・埋葬主体部:組合式箱型石棺
・出土品:不明
・築造年代:6世紀代
・史跡の指定:村指定史跡
・備考:城跡内頂部に立地 
    駐車場/駐車スペース無し

次に11号墳跡地ですが、、、
11号跡地遠景
赤丸で囲った青い車両の辺りに有ったと思われます。
駐車場は広大な工場敷地内であり、一般人立入禁止の為、
10号墳のある丘陵上から撮影するのみとなってます。
調査が入る前に既に削平されたとされている為、
墳形が円墳であった事以外は不明となってます。

次に10号墳の有る丘陵一帯について、、、
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木原根火山遺跡の説明板
説明板に有る「狐の穴」ですが、当日は枯葉や枝が堆積しており、
また雨も降ってきていたので未確認です(^^;
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大きな自然石の板石を使った石碑が建てられてます。
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少々読み難いですが、この石標柱にも、「根火山遺跡」と刻まれてます。
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石標柱から見上げた感じ。
結構な急勾配で手すりなども無い為に滑り易く、
気を付けないと滑落しそうな角度でした(^^;
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丘陵頂部に上がってきた所。。。
中世城郭跡の中で物見台もしくは狼火台の跡とされています。
また、冒頭の分布図でも書きましたが、
工場入口脇にも似た様な形状の丘陵地帯が有り、
この丘陵と繋がっていたと予想されますが、
入口脇の方はストリートビューで人工的な形状が見れるのみで、
おそらく工場敷地内の為、立ち入っての見学は難しそうです。。。
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また、地権者(工場主とは別?)がいらっしゃる様で、
榊を管理されているそうなので、切ったり折ったりしない様に、
見学の際はご注意下さい(^^;

:木原根火山(きはらねびやま)遺跡:
・形態:中世城郭跡
・遺構:物見台もしくは狼火台遺構
・備考:日本テキサスインスツルメンツ美浦工場敷地北側に一部残存
    丘陵頂部に白旗10号墳有り
    駐車場/駐車スペース無し

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第31代天皇である、
用明天皇と陵墓について考えてみました(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
冬に描かれた珍しい陵墓図です(^^
考古学的名称は春日向山古墳と呼ばれてます。
3段築成の大型方墳で一辺60~65mの規模を持ち、築造年代は7世紀前半頃と推定
周濠のさらに外側に土塁が有ることから、外周を含めた兆域の全長は100mに達します。
調査はされてないので正確な位置や規模は不明ですが、南側斜面に開口する、
横穴式石室が埋葬主体部だとされています。
この陵墓も文久年間に修陵を受けてます。

墳裾が菱形状に描かれている事から、修陵前から方墳であった事が分かりますね(^^
荒廃していて分かり難いですが、2~3段築成で裾からの1段目はさほど高さが無い事が、
お分かり頂けるかと。。。
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「荒蕪」図 石材露出箇所拡大
墳頂部近くには横穴式石室の石材(天井石付近?)か、
貼石(葺石)の石材と思われる大きな石が5~6個描かれています。
修陵前から南側に開口し、内部に家型石棺を安置する横穴式石室の存在が推定されています。
石室の存在については、『廟陵記』に「大石有之」として巨石の露出が記され、
享保10年の古文書『春日の吉村家蔵文書』にも横穴式石室の可能性を示唆する記述が有ります。
古墳形態は石舞台古墳と同一プランと見られることから、
石舞台古墳同様に巨石を積んだ長大な石室の存在が推定されています。
本古墳が用明天皇陵であれば、天皇陵として最初の方形墳に位置づけられる。
尚、現陵に改葬される前の初葬地である「磐余池上陵」の正確な位置については不明だが、
奈良県桜井市阿部付近と推定されている。
尚、上記の同市阿部にはやや築造年代は新しくなりますが、
横穴式石室内に巨大な家型石棺を収める艸墓古墳が有ります。
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「成功」図 全体像
前回紹介した敏達天皇陵と同じ様に基壇部分を嵩上げした所に木柵で囲み、
墳丘正面に拝所を設置しています。
また、「荒蕪」図では、周濠の痕跡などは見られない事から、
濠を持たない古墳であったと思われますが、「成功」図では、高さの低い外堤を作り、
空濠を巡らせてある事が分かります。
現在航空写真などで見られる外堤は、この時に原形が造られたと思われます。
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「成功」図 陵墳丘拡大
墳丘の段築は3段ですが、「成功」図では2段の様に見えますし、
2段目から頂部までが急斜面で、まるでピラミッドの様な外観ですね(^^;
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
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墳丘実測図拡大
石室は拝所に向かって開口(南側)すると推定されています。
尚、皇后の穴穂部間人皇后は、皇子の厩戸皇子(聖徳太子)の墓に、
皇子の妻と共に葬られているのは知られていますね(^^
古墳時代~飛鳥時代の歴代天皇陵墓には合致しない例が多い事で知られていますが、
この用明陵はほぼ合致している可能性が高いとされています。

尚、皇居が有ったとする推定地ですが、
皇居の位置は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)で、
『日本書紀』によれば、5世紀前半に履中天皇が造った、
磐余池のほとりに建設されたとされています。
場所は奈良県桜井市阿部(石寸山口神社境内)または同市池之内などの説が有りましたが、
2011年に天香久山から北東に数百メートルの位置にある、
橿原市東池尻町で古代の堤跡と堤上から大型建物跡が発見され、
東西4m✖南北17.5m以上の規模の建築物と、他にも6基の建物跡と塀跡が見つかっており、
ここが磐余池辺雙槻宮である可能性が高いとされている遺跡が検出されています。

ちなみに、皇居推定地と陵の距離はおよそ22kmで、
初葬地として仮に艸墓古墳から皇居までの距離は2.2kmほど。
艸墓古墳以外に方墳は見当たらないのも気になりますが、
陵が方形墳であっても初葬地も方墳とは限りませんし、
推古陵の初葬地とする植山古墳(コチラは長方墳ですが)の様に、
今後「土地開発でたまたま見つかった」的に、
未知の古墳が見つかる可能性も有るかもしれませんね(^^

尚、この用明陵や石舞台古墳など、
蘇我氏の古墳はほぼ全て方形墳を採用している点も注目ですね(^^

次に人物像を、、、
名前は橘豊日命(タチバナノトヨヒノミコト)
生没年は欽明天皇元(540)年~用明天皇2(587)年
在位期間は敏達天皇14(585)年~用明天皇2(587)年
在位年数3年、48歳で崩御。
和風諡号は『日本書紀』では橘豊日天皇、『古事記』では橘豊日命。
尚、即位前の名称は大兄皇子(おおえのみこ)である。
崩御年齢には諸説あり、36歳,41歳,48歳、67歳,69歳の説が有る。
当時の平均寿命から考えると36歳が妥当そうですが。。。

蘇我稲目の孫で蘇我氏を外戚とする初めての天皇。
厩戸皇子(聖徳太子)の父です。
用明天皇以後3代にわたって蘇我氏を外戚とする天皇が続いた。
即位2年目で疱瘡により崩御したため治世は短く事績も少ないが、
蘇我氏と物部氏の対立が激しくなるなか、初めて仏教受容を認めた事が特筆される。

先代の敏達天皇は仏教に否定的でしたが、
用明天皇は厩戸皇子と共に仏教を広める事に同意したと、教科書でも習いますね(^^

:結論:
〇実在した天皇としては初の方墳採用
〇石室の存在は知られているが果たして未盗掘であるか?
〇事績が少ない(即位2年目で崩御したので仕方ないが)
〇崩御年齢がやや長いか?(36歳説であれば妥当だが)

以上で用明天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

前回に続きまして、茨城県稲敷郡美浦村に有る、
木原白旗古墳群から、本日は7,8,9号墳を紹介(^^
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『続・常陸の古墳群』より分布図抜粋
7~9号墳は如来寺という寺の墓地内に有り、
8号墳と9号墳は既に削平されていました。。。
また7号墳の有る場所は深い竹林と急角度の傾斜地となっており、
竹林の入れそうな所までは行きましたが、
元々高さが低いのか、はたまた斜面上に築造されていて、
上(墓地)からは見え難い場所にあるのか、確認できませんでした(^^;

6号墳跡地方向から道路を進むと、
墓地内に入れる所を見つけたのでそこから中へ入らせて頂きました。
8号跡地
赤丸で囲った辺りに8号墳が有った模様(^^;
何やら土塁の様な構造物が奥に見えますね。
後日紹介予定の10号墳が有る場所に、中世の城郭跡や狼火台跡などが有りますが、
その関連かな?と思いながら見てましたが、特に何も情報が無く、
寺院や墓地の周囲を土手状の構造物で囲ってあるので、
境界線的な目的の土塁かと思われます(^^;

8号墳ですが、正式な調査の手が入る前に削平されてしまった模様で、
墳形は円墳だそうですが、規模や埋葬主体部、出土品などの詳細は不明です。
9号跡地付近
推定9号墳跡地
右手前方向に行くと8号墳跡地の通路が有ります(^^
墓地(まだまだ墓石は少なかったです)を拡げる為に削平された模様。
コチラも墳形が円墳という事だけ分かっているのみで、
主体部や出土品などについては不明です。。。
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推定7号墳の有る竹林
左奥に低木の植え込みが有りますが、
分布図ではこの植え込みから竹林内に入って直ぐ位の位置かと思われます。
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推定位置の横から撮影。
3m以上の高さがある崖となっている為、
怪我を負う危険が有るので、近づけませんでした(^^;
これだけ竹が生い茂っていると、例え墳丘が残っていたとしても、
根で攪乱や崩壊しているかもしれません。
また、竹林を抜けた先は民家があり、私有地と思われますので、
無理な接近や侵入は止めておいた方が良いかと思います。。。

7号墳は分布図では「残存」扱いですが、
ひょっとしたら5号墳や6号墳の様に分布図が掲載された後で、
削平&破壊を受けている可能性も有ります。
形状は円墳で、規模や出土品などは不明です。

一通り撮影を終えてから墓地を出ようとした所、
墓地の片隅に気になる物を見つけました。。。
石棺/石室石材?
1号墳(愛宕山古墳)や2号墳(石尊古墳)などで見られた、
箱型石棺材によく似た板石が積まれてました。
墓石の納骨堂の蓋材かと思いましたが、御影石で艶の有る板石が普通で、
この様な石材を使用している墓は無かったので、
恐らく8号墳か9号墳の主体部だった石材の可能性が有るかも?と思ってます。

次回は10号墳と11号墳跡地、木原根火山遺跡の一部を紹介します(^^

皆様こんにちは~(^▽^)

前回に続きまして、茨城県稲敷郡美浦村に有ります、
木原白旗古墳群から、今回は3,4,5,6号墳を紹介します(^^
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『続・常陸の古墳群』より分布図を、、、

愛宕山古墳(1号墳)と円筒埴輪が出土している白旗石尊古墳(2号墳)のみ、
5世紀後半~6世紀前期頃の築造年代が推定されていますが、
他は調査が実施されておらず、また埴輪片や土器片などの採取も無い為、
詳しい築造年代は推定されていませんが、古墳が分布する地域から、
古墳時代中期~後期頃の集落跡が検出されている為、
その頃に造営された古墳群であると推定
されています。

3号墳から、、、
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西側から見た3号墳全景。
西側道路で裾を削られていますが、その他は良好に残っていると思われます。
調査が実施されていない為、説明板なども墳丘規模なども分かっていませんが、
推定直径10m✖高さ2m程度の円墳と思われます(^^
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墳頂部付近を。。。
藪が凄いのと、墳頂部平坦面があまり大きく無いので、
木棺直葬か、他の古墳と同じ様に箱型石棺を埋納しているものと思われます。
土器片などは皆無でした。。。

:3号墳:
・所在地:稲敷郡美浦村木原
・墳形:円墳
・規模:(推定)直径約10m✖高さ約2m
・備考:西側裾を道路敷設で一部削平


続いて4号墳、、、
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東側から見た4号墳遠景。
4号墳は3号墳の斜め向かいの民家庭園の奥に有ります。
民家は不在だった(人の気配ゼロだが管理されているっぽい)上、
民家の裏側や敷地外から近づこうと思いましたが、
背丈以上に伸びた藪が凄く墳丘には近づけませんでした(^^;
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ズームで。。。
3号墳よりもずっと大きく高さも有るので、
推定直径30~40m✖高さ4m程の円墳と思われます。
こちらも調査は実施されていませんが、
かなり良好な墳丘状態と思われます。

尚、3号墳及び4号墳が見られる道路は道幅がとても狭く、
離合場所も無い為、路駐はオススメ出来ません。。。

※古墳所在地ですが個人宅敷地内の為、詳細は控えさせて頂きます。
:4号墳:
・所在地:稲敷郡美浦村木原
・墳形:円墳
・規模:(推定)約30~40m✖高さ約4m
備考:民家庭奥に現存


続いて5号墳を、、、
上に掲載した分布図では西に前方部を向ける前方後円墳が掲載されていますが、
現地に行ってみた所、墳丘の姿は無く3軒の民家が立ち並んでおり、
その内の1軒の玄関脇に気になる石材が有ったので撮影してみました。
5号跡地付近石材

5号跡地付近石材2
駐車場脇の2個の石材は庭石かもしれませんが、
玄関脇の2個の大きな石材は庭石にしては位置が変(室外機の前に置くかな?)なのと、
庭石にするならこの様な黒ずんだ石材は使わない様に思います(^^;
尚、5号墳はちょうどこの玄関横付近に後円部が有ったと思われます。
もしこの石材が石室石材であれば群中唯一の横穴式石室採用墳だったかもしれません。
遠目からですが凝灰岩っぽく見えます(^^

※古墳跡所在地ですが個人宅敷地内の為、詳細は控えさせて頂きます。
:5号墳:
・所在地:稲敷郡美浦村木原 
・墳形:前方後円墳
・規模:(推定)全長約30m前後?
・備考:民家建設の為消滅


続いて6号墳を、、、
推定6号跡地
分布図で示されている6号墳は丸で囲った辺りになります。
現地に行った時は廃屋状態でしたが、グーグルマップで見てみると、
牛が数頭確認できるので、ストリートビュー撮影時は牧場が有った模様です。
元々規模が小さかったのかは分かりませんが、
特に古墳が有ったと思われる様な高まりは、この場所には無かったです。
6号付近疑惑森
ただ、敷地内の奥にこの様な丸い森が有るので、
ひょっとしたら分布図よりも少し奥に存在するのか?と思ってますが、
ただの木立かもしれません(^^;
牧場自体は廃業したのか、牛の姿も管理人の姿も無いので、
一瞬中に入ってみようかとも思いましたが、
牧場の前の道路は結構な数の車両が行き交う為、接近は止めておきました(^^;

:6号墳:
・所在地:稲敷郡美浦村木原 牧場内
・墳形:円墳
・規模:不明
・備考:牧場建設の為消滅


次回は如来寺境内の7~9号墳を紹介します。

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