皆様こんにちは~(^▽^)
本日は第32代天皇である、
崇峻天皇と陵墓について考えてみました(^^
この陵墓が治定されたのは明治期になってからの為、文久山陵図には掲載されていません。
・・・ので、陵墓地形図集成に掲載されている、現陵の実測図のみとなります(^^;
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
東西に細長い形状の陵域内東端に円丘が見えます。
崇峻天皇に縁の有る法華堂が有った事と、
皇居である倉梯柴垣宮伝承地でもあるため、現陵を治定した模様です。
実測図拡大
こちらは、古墳では無い為に考古学的名称は有りません。
尚、その日の内に埋葬した事に加え、陵地・陵戸が無い事も他に例が無いです。
この円丘は直径30m✖高さ50cm程度の法華堂の基壇とされています。
『安政山陵図』より天皇屋舗(天皇屋敷)の図
安政年間にはこの様に基壇を石で覆った土台に、
社殿が建っている様子が描かれてますので、
現陵はこの基壇部分であるとされています。
なお、真陵は現陵から北東方向に2.4km離れた場所に有る、
赤坂天王山古墳が高い確率で真陵であるとされています。
皇居である倉梯柴垣宮の推定跡地は、
現陵から北東へ450mの位置に有ります。
尚、推定地から天王山古墳までの距離は北東へ2kmの距離となります。
:結論:
〇現陵は法華堂の基壇であり古墳では無い
〇埋葬主体部が無い擬陵
〇暗殺されたその日の内に造ったとされるが、
現実的に考えて無理な点が多い
〇事績が少ない
〇在位年数6年で夫人(妃)は居るが皇后が居ない
〇暗殺時の年齢に諸説有る
これまでは実在性が低い天皇と陵が幾つも出てきましたが、
実在性の高い天皇の陵が伝承地なのは珍しい例ですね(^^;
この陵こそ古墳では無いのだから、治定解除願いたいです。。。
以上で崇峻天皇陵についての考察を終わります。
本日は第32代天皇である、
崇峻天皇と陵墓について考えてみました(^^
この陵墓が治定されたのは明治期になってからの為、文久山陵図には掲載されていません。
・・・ので、陵墓地形図集成に掲載されている、現陵の実測図のみとなります(^^;
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
東西に細長い形状の陵域内東端に円丘が見えます。
崇峻天皇に縁の有る法華堂が有った事と、
皇居である倉梯柴垣宮伝承地でもあるため、現陵を治定した模様です。
実測図拡大
こちらは、古墳では無い為に考古学的名称は有りません。
尚、その日の内に埋葬した事に加え、陵地・陵戸が無い事も他に例が無いです。
この円丘は直径30m✖高さ50cm程度の法華堂の基壇とされています。
『安政山陵図』より天皇屋舗(天皇屋敷)の図
安政年間にはこの様に基壇を石で覆った土台に、
社殿が建っている様子が描かれてますので、
現陵はこの基壇部分であるとされています。
なお、真陵は現陵から北東方向に2.4km離れた場所に有る、
赤坂天王山古墳が高い確率で真陵であるとされています。
6世紀末~7世紀初頭頃に築造されたと推定されており、
一辺42~50m✖高さ9mという規模を持ち、
内部に家型石棺を安置した巨大な横穴式石室が構築されています。
また、3段築成で葺石も伴っています。
早くから開口していた為、出土品などは皆無で、
石棺も穴を空けられて盗掘されていますが、
・蘇我氏系の人物がほぼ方墳を採用している事
・『日本書紀』に崇峻天皇は倉橋の地に葬られたと記されており、
この地域で造られた古墳で該当するものは当古墳以外に見当たらない
・明治時代に現陵に治定されるまでは本墳が崇峻天皇陵に擬せられていた
・墳丘規模が大きい
・家型石棺や石室の年代が崇峻天皇の崩御年と合致している
・・・などから、本墳が真陵である可能性が高いとされています。
・家型石棺や石室の年代が崇峻天皇の崩御年と合致している
・・・などから、本墳が真陵である可能性が高いとされています。
また、崇峻天皇陵には附属地として雀塚と呼ばれる、
形態&規模不明の古墳が1基有りますが、
現在は古墳では無く崇峻天皇とは無関係の経塚とされています。
崇峻天皇は臣下によって暗殺された唯一の天皇ですが、
暗殺された当日に埋葬されたと伝わってます。。。
仮に赤坂天王山古墳が真陵だったとしても、
1日の内に一辺42~50mもの方形墳を造り、
内部に巨大な石材を使用した長大な横穴式石室を構築し、
重量の有る家型石棺(最初に石棺を安置して後から石室を造った?)を、
石室内に安置したと考えるのは、少々不自然すぎるので、
「1日の内に」というのは間違いで、「1ヶ月」が正しいかと思われます。
暗殺された当日に埋葬されたと伝わってます。。。
仮に赤坂天王山古墳が真陵だったとしても、
1日の内に一辺42~50mもの方形墳を造り、
内部に巨大な石材を使用した長大な横穴式石室を構築し、
重量の有る家型石棺(最初に石棺を安置して後から石室を造った?)を、
石室内に安置したと考えるのは、少々不自然すぎるので、
「1日の内に」というのは間違いで、「1ヶ月」が正しいかと思われます。
次に人物像を、、、
名前は泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)
・生没年:欽明天皇14(553)年~崇峻天皇5(592)年
・在位期間:崇峻天皇元(587)年~崇峻天皇5(592)年
在位年数6年、崩御年齢は諸説有るが30代後半頃とされている。
事績としては、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行ったとされます。
しかし、即位した後でも政治の実権は常に蘇我馬子が握っていた為、
次第に不満を感じる様になり、ある時に献上された猪を見て、
「いつかこの猪の首を斬る様に、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と、
発言したことを聞きつけた蘇我馬子は部下の東漢直駒に命じて暗殺させたとされています。
臣下により殺害された天皇は、確定している例では唯一です。
近年、歴史学者の一人である佐藤長門氏は、
「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、
天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、
蘇我馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での、
「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。
皇居である倉梯柴垣宮の推定跡地は、
現陵から北東へ450mの位置に有ります。
尚、推定地から天王山古墳までの距離は北東へ2kmの距離となります。
:結論:
〇現陵は法華堂の基壇であり古墳では無い
〇埋葬主体部が無い擬陵
〇暗殺されたその日の内に造ったとされるが、
現実的に考えて無理な点が多い
〇事績が少ない
〇在位年数6年で夫人(妃)は居るが皇后が居ない
〇暗殺時の年齢に諸説有る
これまでは実在性が低い天皇と陵が幾つも出てきましたが、
実在性の高い天皇の陵が伝承地なのは珍しい例ですね(^^;
この陵こそ古墳では無いのだから、治定解除願いたいです。。。
以上で崇峻天皇陵についての考察を終わります。