関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2020年12月

皆様こんにちは~(^▽^)

今日で2020年が終わり、明日新たな年を迎えますが、
来年こそは少しでも新型コロナウィルスが終息することを願います。

・・・では、今年最後の記事更新は、
第16代天皇である、仁徳天皇とその陵墓について考えてみます。

陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は大仙古墳または大仙陵古墳と呼ばれ、
3重の周濠を持ち、5世紀前半~半ば頃の築造であると推定されている、
巨大で日本最大規模を誇る前方後円墳ですが、
文久年間に修陵を受ける前は2重周濠だった事が分かります。
また、周濠の水が水田用の灌漑用水として利用されており、
内堤が途中で切れているのも見えますね。
3重目の周濠は元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は、
一部を除いて畑地に開墾された為、2重濠の様な見かけになっていた模様。
3重目の周濠は明治期に埋没部分を掘り直して復元したものですが、
築造当時の形であるかは不明だそうです(^^;

また、現在2番目周濠の堤上に3基(1基は古墳では無い可能性有り)の、
域内陪塚が有りますが、何故か「荒蕪」図では描かれてません。
陪塚として認識されていなかったと思われますが、
発掘調査で大仙古墳とほぼ同じ時期の築造と推定されているので、
描かれていてもおかしくは無いのですが、

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「荒蕪」図 後円部内堤部分拡大
域内陪塚が有る付近に民家もしくは管理人用の詰所の様な建築物が2軒見えます。
また、域内陪塚だけでは無く、周囲に10基以上の陪塚を従えてますが、
それらも1基も描かれていません。
まるで最初からそんな物が無かったかのように描かれてます。
また、修陵する前から後円部上に長持型石棺が、
露出しているなど荒廃していた様ですが、「荒蕪」図には描かれてません。

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「成功」図 全体像
「荒蕪」図と違うのは前方部方向から眺めた状態で描かれている事と、
中央奥付近に域内陪塚と見られる盛り上がりが描かれている事。
修陵後に域内陪塚の周辺も整備されたと思われます。
・・・が、周濠は2重のままです。

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陵墓地形図集成から墳丘実測図 その1

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墳丘実測図 その2
墳丘が巨大な為、2ページに渡ってるので他の陵墓に比べて、
少々見難いのが欠点(^^;
前方部の拝所側が綺麗に整っているのは、
明治期に台風の影響で崩れた為、調査後整備された為です。
崩れた際に内部に長持型石棺が安置された竪穴式石室が現れた為、
石棺のサイズや石室のサイズを計測すると共に、
その時に出土した鉄剣や冑が、現在ボストン美術館に、
「伝:大仙陵古墳出土品」として収蔵・展示されていますが、
最新の年代測定調査結果により、これらの出土品は、
6世紀第1四半期と推定された事により大仙陵古墳からの出土という伝承は、
誤りである
となっています。
また、崩落して石室及び石棺の調査を実施した際に、
開棺作業は行われずに埋め戻されたと伝わっています。

全長486mと書きましたが、現在までに実施された墳丘調査では、
525,1mに長さが伸びた他、墳丘裾がヘドロの下に隠れている為、
正しい全長は600m近くに達すると推定されています。
また体積も誉田御廟山古墳を超えると推定されており、
秦の始皇帝陵をも超える体積であるとも推定されています。

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墳丘実測図後円部拡大
墳頂部のやや南東側端に綺麗に整った円丘が見えますが、
中央部からはズレている為、露出した石棺がこの位置に埋められている可能性が有ります。

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墳丘実測図前方部拡大
前方部頂部から裾にかけて明治期に修理された為、
後円部から前方部くびれ部近くまで等高線が乱れている以外は、
とても整っており、違和感を感じます(^^;
この等高線の乱れは自然崩壊の他、墳丘が未完成だったという説も有ります。
前方部頂部に方形の盛上りが有りますが、この直下に台風で露出した、
竪穴式石室が埋まっているものと思われます。

『記紀』には「百舌鳥野陵」
『延喜式』諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵」
・・・とそれぞれ記載されており、
田出井山古墳(反正天皇陵)、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、
上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の3古墳の推定築造年代の順と、
『記紀』による在位年代が合致しないため、現在の治定を疑問視する見解が有り

大仙陵古墳の発掘調査により出土した埴輪片から仁徳天皇の没年と、
1世紀ものズレが有ることが判明
しており、
正しい仁徳陵は南にある上石津ミサンザイ古墳(現:履中陵)とする説が、
濃厚となってきています。


次に人物像を、、、
名前は大鷦鷯尊(オオササギノミコト)
生没年は神功皇后摂政57(257)年~仁徳天皇87(399)年
在位期間は仁徳天皇元(313)年~仁徳天皇87(399)年
在位年数87年、143歳で崩御と伝わる。

『日本書紀』では143歳崩御、『古事記』では83歳と諸説あります。
古事記の方が現実的ですが、やはり当時の平均寿命からすると長すぎる為、
非実在説の他、応神天皇と同一人物とする見解も有ります。

伝わっている事績では、
『日本書紀』の仁徳天皇4年春の記事に、
「高殿に登って国を眺めると、民家の竈から煙が見られ無いのは人々が貧しいためとして、
今後3年間は租税の徴収を行わず、宮殿も修理せずにいたところ、
五穀豊穣が続いたので、仁徳天皇の徳を称える声が起きた」といった物や、
難波の開削工事、茨田堤の築造、和田池と横野堤の築造などの河内平野の開拓事業、
紀角宿禰(きのつねのすくね)を百済へ遣わして、
初めて国郡の境の分け方を決めた事などが記載されています。

ただし、『記紀』は「あくまで伝聞」による歴史書である為、
上記の事績は編纂された際に作られた話であるとされています。


:結論:
陵墓としては、、、
〇築造年代が没年と1世紀ものズレが有る
〇『記紀』と『延喜式』の陵の位置の記載が一致しない
〇後円部埋葬施設は盗掘による破壊を受けている

人物としては、、、
〇存在を疑う見解が有る
〇崩御年齢が一致しない
〇事績は後世の創作か

大仙陵古墳も仁徳天皇の陵では無い可能性が高いとされています。
いつの日か、再治定される日が来ることを願います。

以上で仁徳天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第15代天皇である、
応神天皇と陵墓について考えてみます(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は誉田山古墳誉田御廟山古墳と呼ばれており、
墳丘の体積は1位を誇り、全長は425mと全国2位の規模を持つ、
巨大な前方後円墳で、築造時期は5世紀前半と推定されています。
現在は周濠は1重ですが、「荒蕪」図を見てみると、
二重の周濠と周堤が確認できます。
また、くびれ部脇に今も残っている陪塚(二ツ塚古墳)と思われる円墳が見えます。
左側が後円部で、その近くには誉田八幡宮の社殿も見えます。

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後円部頂部には八幡宮の祠が建てられており、
現在の実測図でも基壇部分が残されている模様。
また、八幡宮境内には誉田山古墳から出土したと伝わる、
長持型石棺の小口板石材や竪穴式石室の天井石と伝わる大きな石材が見られる事から、
この頂部に祠を建てる際に出土したものである可能性が高いとされています。
石棺も小口板のみという事は、石室共々破壊されているものと思われますが、
後円部墳頂部直下を調査した記録が残っていないので、
どうなっているかは不明なままです。

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「成功」図 全体像
修陵後の姿を描いた物がコチラ。。。
「荒蕪」図とは違い前方部拝所側から描いているのが違いですね。
「成功」図の時は拝所が内濠の周堤上に造られています。
拝所の手前に外濠と周堤が確認できますが、現在は開発の為に外濠の大部分が埋められ、
西側にのみ外濠が一部保存されている状態となってます。
「成功」図の左下脇に見切れている小山状の物体は、
誉田丸山古墳と呼ばれ域内陪塚として管理されている古墳です。
現在はこの丸山古墳の脇を通って拝所まで行ける様に整備されてますが、
「成功」図の時は外堤の手前から拝所を眺める様な状態だった事が分かります。

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図
応神天皇陵と仁徳天皇陵は大きいので2ページに渡ってます(^^;
ちなみに他に陵墓指定箇所が多いからという理由で、
複数のページに掲載されている陵墓として宇治陵が有ります。

文久山陵図「荒蕪」図では、2重の周濠が確認できますが、
これまでに実施された発掘調査で、2重の周濠と外堤が造られたのは、
西側のみで東側には造られていなかった事が判明しています。

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墳丘実測図拡大
前方部の等高線の乱れは、ほぼ直下を活断層が走っており、
記録に残っている物では、734年と1510年にこの地で、
内陸型直下型地震が起こった際に崩れたとされています。

上の実測図の内、前方部頂部に方形の土壇状の物が有りますが、
大仙陵(仁徳天皇陵)と同じく、前方部頂部直下にも、
埋葬主体部が埋まっているかもしれませんね。

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後円部拡大
頂部に以前建てられていた八幡宮の祠の基礎部分が、
現在も残っていると思われます。
頂部から裾へ続く道は、石段の名残りですが、
完全に撤去されているのか、そのまま石段が残っているのかは定かでは無いです。

次に応神天皇の人物像を、、、
名前は誉田別尊(ホムタワケ)
生没年は仲哀天皇9(200)年~応神天皇41(310)
在位期間は応神天皇元(270)年~応神天皇41(310)年

ちなみに神功皇后は仲哀天皇の崩御後、
この誉田別尊を懐妊したまま新羅征伐を行ったとされ、
新羅征伐の後に筑紫で生まれたが、まだ赤子であったため、
母皇后が数十年にわたり摂政を務めたと伝わりますが、
朝鮮側の史料に記載が見られ無い事から、
大和で反乱を起こした異母兄カゴ坂王・忍熊王を、
神功皇后が鎮圧して即位したが、実際は神功皇后・応神天皇が、
反乱を起こして正統の後継者たる兄から権力を奪取したということが、
真相であるとみられています。
また、応神は大陸からやってきた騎馬民族の王という説もある。
4世紀末~5世紀初頭にかけて実在性が認められる最古の天皇ですが、
崩御年が100歳を超えている為、疑問も残るとされています(^^;
中国の史書である『宋書』倭国伝にみえる、倭王「讃」を応神天皇とする説が有る。
在位年数41年、111歳で崩御。

天皇の事績としては、『日本書紀』に、百済などの大陸からの使者が有り、
進んだ文化や技術がもたらされたという記事が多く見られます。
また、今まで大和にあった大王陵の造営地が河内に移動したことに注目し、
河内王朝が有ったのでは?とする説
が有ります。
この場合、応神は天皇では無く大王となりますね(^^

陵である誉田山古墳の築造年代が5世紀前半で、
応神天皇の没年が4世紀末なので、没後に築造されたとすれば、
有り得なくもないですが、当時の平均寿命から考えても、
やはり没年が長すぎるのが気になる所。。。
誉田八幡宮の祭神が応神天皇であった事から、
古くより応神天皇の陵として治定された経緯も有りますが、
発掘調査により出土した埴輪の年代や、須恵器の研究などから、
治定を否定する意見も有ります。

確実だとする可能性は高くは無いが低くも無い
・・・という微妙な感じになっています(^^;
現地に設置されている説明板も「応神天皇陵古墳」と記載してますが、
「応神天皇の陵である」とは断言してません(^^;

:結論:
陵墓としては、、、
〇天皇の没年とややズレが有る
〇既に石棺及び石室は破壊済みか?

人物像としては、、、
〇実在したとする最古の人物
〇平均寿命以上の没年齢(111歳)
〇河内王朝の最初の王であり、天皇では無く大王と呼んだ方が自然?


以上で応神天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第14代の天皇である、
仲哀天皇と陵墓について考えてみます(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は岡ミサンザイ古墳と呼ばれる、
全長245mの前方後円墳です。
周囲に7基(2基現存、5基湮滅)の陪塚を従え、
発掘調査により周堤上に埴輪列が確認されてます。

「荒蕪」図では、周濠に囲まれた3段築成の前方後円墳が描かれてます。
前方部東側に現在は見られ無い渡堤が見られますね。
後程掲載しますが、実測図にも描かれている片側のみにある造出し部分も、
はっきり描かれてます。
他の幾つかの陵墓墳丘の様に石材露出などは見られません。

仲哀陵は中世頃に所在不明となり、文久年間に修陵する際に、
・『日本書紀』に「長野陵」
・『扶桑略記』に「長野山陵」
・『延喜式』諸陵寮に「恵我長野西陵」
・・・の文言が考証のための根拠とされました。
それまでは、「河内国錦部長野庄上原村の塚山」と呼ばれていましたが、
現在の岡ミサンザイ古墳に改められたという経歴が有ります。

ちなみに、出土している埴輪片や墳丘の形態から、
築造年代は5世紀末~6世紀初頭と推定されており、
古市古墳群の中で最初に横穴式石室を採用した古墳とされています。
実在したと仮定すれば仲哀天皇の没年は4世紀前半頃()とされているので、
全く年代が合わない事から、雄略天皇の陵墓とする説が以前から存在しており、
付近に有る仲津山古墳が真陵であるとされています。

※『日本書紀』の仲哀天皇に関する記述を歴史的事実としていた、
 戦前の研究では4世紀に該当するとして、その詳しい年代は西暦367年としていた。


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「成功」図 全体像
前方部側から描かれている為、東側くびれ部の造出しは見えませんが、
3段築成から5段築成へと整えられている事が最大の違いでしょうか。
前方部東側隅に設けられていた渡堤は修陵の際に撤去された模様。

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
東側くびれ部に明瞭な造出しが有りますが、
西側については元々無かったのか、修陵の際に破壊されたかの判断は、
決着しておらず、不明となってます。

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墳丘実測図拡大
墳丘等高線の乱れは、中世に築かれた城郭建造と修陵の名残りとされており、
後円部に本丸、前方部に櫓台、前方部先端に横掘が掘られて馬出しを作るなど、
墳丘全体を城郭化された模様です。
葺石も無く墳頂部に石材が見られ無い事や、後円部3段目付近の傾斜角が急な墳丘形態から、
くびれ部方向に開口(南西方向?)する横穴式石室の存在が推定されています。
また、文久山陵図「成功」図では5段築成となった姿が描かれていますが、
これまで度々実施された各調査の結果、修陵後も3段築成のままだった模様で、
「成功」図は立派に見せる為の誇張と思われます。

次に仲哀天皇の人物像を、、、
名前は足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト)
生没年は生年不詳~仲哀天皇9(200)年
在位期間は仲哀天皇元(192)~仲哀天皇9(200)
生年が不明である上、父親が日本武尊(仲哀は尊の第2子)で、
母親が垂仁天皇の皇女である両道入姫命、皇后が息長足姫尊(後の神功皇后)と、
親族に実在性が低い可能性が高い人物が多数存在する他、
没年(戦前は4世紀前半とされていたが)が2世紀であるため、
仲哀天皇という人物も実在性が低いとされています。
尚、崩御年齢は52歳と、2世紀に生きた人物としてはやはり長く()感じます。

※縄文~弥生時代頃の平均寿命は14~30歳

事績としては、九州の熊襲討伐を企図したが、神懸った神功皇后が新羅征伐を勧めたところ、
これを容れなかった為に神罰に触れ崩御したと伝わっていますが、
別の説では熊襲の矢が当たったためとも言われています。
また、神功皇后による新羅征伐の記録ですが、朝鮮側の記録史料に一切無い為、
後世に造られた説話であるとされています。


:結論:
陵墓としては、、、
〇大王墓クラスには間違い無いが、築造時期と天皇の没年が合致しない
〇仮に4世紀前半頃に実在したならば、付近の仲津山古墳が真陵か?
 ※ただし、仲津山古墳の築造時期は5世紀前半の為、1世紀のズレが生じる

人物としては、、、
〇戦前の研究では4世紀前半、宮内庁公式見解は2世紀と大幅なズレが有る
〇親族に想像上の人物が居る(父母と妻)
〇生年が不明
〇崩御年齢が当時の平均寿命を大幅に超えている


以上で仲哀天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第13代天皇である成務天皇と陵墓について考えてみます(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
小高くなっていて頂部に松の樹木が生えている方が後円部です。
前方部側の周濠は水田として開墾されてしまっていて原型が分かり難いですが、
後円部裾の東側に弧線が見られるので、濠に水は入っていなくとも、
水田用地として利用されていた事が窺えます。

考古学的名称は佐紀石塚山古墳と呼ばれる、
全長218mの前方後円墳で、古墳名は葺石で覆われた古墳が、
まるで石を積み上げて造られた様に見えた事に由来してます。
尚、築造年代は出土した埴輪片などから、4世紀末頃と推定されています。

別記事にて紹介しますが、直ぐ東側に隣接する佐紀陵山古墳と、
南側に隣接する佐紀高塚山古墳の3基に加え、周囲に複数の陪塚を持つので、
当地を治めていた豪族とその一族の墳墓群であると推定されています。
また、文久年間には、付近にも多くの巨大な前方後円墳がひしめいている事から、
成務天皇陵と治定する以前は、神功皇后陵と混同していたという史料も有ります。

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「荒蕪」図 後円部頂部拡大
この古墳は修陵が実施される前に、数度にわたる盗掘を受けており、
記録が残っていて最も古いのは平安時代で、
『扶桑略記』に康平6(1063)年に、
興福寺の僧、静範らが副葬品を盗掘し事件が露見し連座。
16人が流刑になったと記されています。
江戸時代の盗掘記録では天保15(1844)年と嘉永元(1848)年に、
2度にわたって行われており、その時に石棺内から多数の勾玉や玉類が持ち出されました。
尚、盗掘犯はその後捕まって市中引き回しの上、磔刑に処せられてます。
後円部頂部に見られる石材は掘り出された竪穴式石室の石材の様です。
また、石棺(長持型石棺)の存在も持ち出された副葬品を元に戻す際に計測したのか、
詳細なサイズが判明しています。

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文久山陵図「成功」図 全体像
墳丘西側くびれ部付近に造出様の物が見られ、
周堤もくびれ部付近が同じ様に突き出してます。
このくびれ部付近に関しては、下で地形図を掲載した際に記述します。

「荒蕪」図では、掘り出された竪穴式石室の石材が露出してましたが、
「成功」図ではどうなったかと言うと・・・、

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何故か石棺が露出した状態で頂部からやや西側に離れた位置に安置されてます。
後程下に墳丘実測図を掲載しますので、この位置を良く覚えておいて下さい。

何故石室石材を埋め戻したのに、石棺を置いたままになっているのかは、
推測ですが、盗掘によってボロボロになってしまった石室を修復するのは、
当時の技術では困難だったのと、修陵に費やされた予算が少なかったのではないでしょうか?

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陵墓地形図集成より実測図全体像
成務天皇陵は左上の前方後円墳となります。
尚、コチラの3基は大正15年測量、昭和3年製図となってます。
陵墓地形図集成に掲載されている実測図は、
ほとんどが大正年間~昭和初期に測量されたものなので、
そろそろ最新の機器を活用して新しく測量し直して欲しいです。
尚、一番新しいのは平成26年に測量された豊島岡墓地です。

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墳丘実測図拡大
文久山陵図「成功」図では、前方部東側先端付近が西側と同一ラインなのに、
明治期に行われた修陵の影響でしょうか?前方部先端の長さが、
拝所を挟んで東西で長さが違ってます。

・・・で、先程の文久山陵図「成功」図で見られた、
石棺が露出している位置ですが、現在は埋められたのか、
後円部頂部中央から西寄りの位置に最高所が有る点が注目です。
やや楕円を描く最高所の中央に正円状の盛土が見られますが、
おそらくこの直下に石棺が有ると思われます。
そして、破壊された竪穴式石室は頂部中央下に、
現在もそのまま残されていると思われます。

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コチラは平成6年に墳丘裾の護岸工事に先立つ調査時に作成された、
墳丘実測図で、おそらくこれが現在公表されている最新の実測図と思われます。
墳丘裾(特に西側に集中して)の26箇所にトレンチを設定した模様。
この時に文久山陵図「成功」図で見られる造出様の突起についても調査し、
「明瞭な造出と思われる様な物は無かった」と記述が有るので、
造出を持たない前方後円墳である事が判明した模様です。
また、「成功」図で見られた周堤の突起状の部分も、
明治期の修陵で訂正されたのか、現在はその様な物は見られません。
尚、ほぼ全てのトレンチ内から円筒埴輪列が確認された為、
墳丘は3段築成ですが、全てのテラスに埴輪列が有ると推定されています。


次に成務天皇の人物像を、、、
名前は稚足彦尊(ワカタラシヒコノミコト)
・生没年:景行天皇14(84)年~成務天皇60(190)年
・在位期間:成務天皇元(131)年~成務天皇60(190)年

成務天皇も2世紀後半頃の没年の為、
ココで既に古墳の築造年代と全く合致しない事が分かります。
在位年数60年、107歳で崩御とされていますが、
2世紀後半~末期頃と言えば、まだ弥生時代真っ只中。。。
縄文時代~弥生時代頃の平均寿命は15~30歳前後。。。
どう考えても不自然ですよね。。。

成務天皇は武内宿禰を大臣に据えた上で、
国々の境を定め、県主(あがたぬし)や国造(くにのみやつこ)を置いて、
地方支配制度を整えたことなど、内政面での事績が多く伝えられていますが、
実在性が低い人物とされているので、後世の作為と考えられています。
実在性が低い根拠は、宮が畿内に無い(滋賀県大津市に有ったと伝承)事と事績が少ない事。
在位60年の間に崩御を除いて、甥の仲哀天皇を皇太子にした事と、
上に書いた国を2段階の地方行政区画に整理したことの2点のみ。
60年も国を治めていて事績が2項目しか無いのは不自然ですよね。
甥の仲哀天皇も実在性が低いとされていますが、
別の記事にて書こうと思います(^^

:結論:
陵墓としては、、、
〇天皇の没年と築造時期が全く合わない
〇江戸時代に持ち出された副葬品は戻されたが、
 平安時代の物は散逸してしまっている可能性大
〇天皇陵では無く、有力豪族の墳墓群である

人物としては、、、
〇実在性が低い(2世紀頃に天皇が居る事の不自然さ)
〇年代を考えると崩御年齢の長さが不自然
〇伝わっている事績は後世の創作である可能性が高い


以上で成務天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第12代天皇である、
景行天皇と陵墓について考察をしてみようと思います(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
水田と水田用の灌漑池に利用された周濠が見えます。
周濠跡も途中で数本の畦道が入っていますが、
これは古墳自体が傾斜地に造られているからです(^^
この畦道様の物は元は渡堤の跡で、文久年間に修陵を受けた際に、
造られた物も有りますが、築造時の渡堤も数本有ることが、
近年実施された発掘調査により判明しています。
古墳の考古学的名称は渋谷向山古墳と呼ばれていて、
全長は310mという全国8位という規模を持ちます。
出土した埴輪片などから4世紀後半頃に築造されたと推定されています。
また規模が大きい事から、最初に大和朝廷の礎を作った、
崇神天皇の陵であるとして、長い期間当時の陵墓決定現場が、
混乱していた古墳
でも有ります。

私個人的な考えですが、、、
もし卑弥呼が居た邪馬台国が当地(畿内)に有ったと仮定して、、、
卑弥呼から統治を受け継いで崇神天皇が即位し、後に崩御した際、
前時代の人物の墓形状を踏襲すると思われます。
そうであった場合、箸墓とほぼ同じ築造年代で、
特殊器台埴輪などが出土している古墳で大型の物は西殿塚古墳となります。
平地に築かれている箸墓よりも、もっと高い位置に築造されており、
被葬者が統治していた集落が一望できる高さなのも気になる点です。
現在グーグルマップ等で見れる様に、西山塚古墳・西殿塚古墳・下池山古墳
中山大塚古墳・行燈山古墳・櫛山古墳・渋谷向山古墳の比較的規模が大きな古墳が、
傾斜地を南北に3kmの長さにわたって連綿と築かれているのも、
何か理由が有りそうですが、ほとんどが宮内庁の指定/管理を受けていて、
簡単に調査が出来ないのが歯がゆい所です。。。
付近で見つかっている大きな集落跡は纏向遺跡が有りますが、
他には西方向に唐古・鍵遺跡が有るのみなので、
巨大古墳の近くにもう1~2個、大きな集落跡が有りそうに思います。

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「荒蕪」図 拡大
前方部には神社の社殿と基礎付近石垣で土留めをしていた模様です。
盗掘の記録は有りませんが、石枕(国指定重要文化財)の出土が伝わってます。
後円部には直径42mもの平坦面が有ることから複数の埋葬施設を持つと、
考えられていますが、石枕が有るということは、
竪穴式石室内に石棺(長持型石棺か?)安置という、
埋葬主体部が考えられ、複数主体部を持つとすれば、
後は木棺直葬か竪穴式石室が2基並列に並んでいる可能性も有るかと思います。

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陵墓地形図集成より実測図全体像
陪塚3基も合わせて掲載されています。
陪塚3基の内、前方部北側に有る上の山古墳は、
当初陪塚であると考えられてきましたが、
出土した埴輪が渋谷向山古墳よりも若干古い為、
向山古墳に先行する形で築造されたと推定
されてます。
また、渋谷向山古墳の主軸線と直交する形で築造されている為、
両古墳の被葬者は何らかの深い繋がりがあるものとされています。

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墳丘実測図拡大
文久山陵図の項で述べた様に現在も複数の渡堤が確認できます。
周濠を水田用の灌漑池として利用する際、古墳が傾斜地に造られているので、
水が溜まる様に細切れになっています。
前方部南側のやや広い平坦面は神社社殿の跡地ですが、
現在は樹木が茂っており、周堤に沿う様に造られている観察路からの観察は、
冬場以外は難しそうです。
また、後円部南側くびれ部付近に方形の張り出し状の物が見えますが、
これも神社社殿跡地に関連する改造で、造り出しでは有りません。


次に景行天皇の人物像を、、、
名前は大足彦忍代別尊(オオタラシヒコオシロワケノミコト)
生没年は垂仁天皇17(前13)年~景行天皇60(130)年
在位期間は景行天皇元(71)年~景行天皇60(130)年
コチラも崇神天皇や垂仁天皇同様、実際に存在したとしても、
弥生時代後半~末期頃となり、古墳が築造された4世紀後半頃とは合致しない為、
実在性に疑問が持たれています。
また崩御年齢も143歳と、ギネス記録的な長さであり、
この崩御年齢の長さも不自然過ぎですね。
・・・また「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の、
3天皇が持ち、時代が下がって7世紀前半に在位したことが確実な、
34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、
タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、
12、13、14代の称号は後世の造作と考える説が有ります。

景行天皇には80名(薨去含む)もの皇子女が居ますが、
その中で最も有名な方にヤマトタケル()が居ます。
「記紀」には景行天皇の事績も記載されてますが、
在位初年に九州の熊襲征伐に赴いて、皇子日本武尊の活躍もあって、
九州平定に成功している事や、皇子女たちを諸国に封じて、
権力を強化した旨の事が記載されているのみで、
崇神天皇や垂仁天皇が行った治世については皆無です。
「記紀」の景行天皇に関係する事績は、
ほぼヤマトタケルの活躍が記載されているのみです。
また、景行天皇には稲日大郎姫(イナビノオオイラツメ)と、
八坂入媛命(ヤサカイリビメノミコト)の2人の皇后が居ますが、
稲日大郎姫は崩御後に故郷とされる兵庫県加古川市にある日岡陵に葬られたと、
記載が有りますが、稲日大郎姫崩御後に皇后となった八坂入媛命に関しては、
崇神天皇を父に持つ事と成務天皇を生んだ以外は、
母親が不明で生没年も不明であり、陵の記載も有りません。
もしかしたら景行天皇と共に葬られたかもしれませんが、
天皇と皇后or皇子女が合葬される様になったのは7世紀代に入ってからなので、
4世紀代の古墳であれば、別々の古墳に埋葬されたとするのが普通でしょうか?
その場合、渋谷向山古墳が景行陵で、少し遅れて行燈山古墳が八坂入媛命の陵として、
築造されたと考えれば面白いですが、景行天皇・稲日大郎姫・八坂入媛命の3名とも、
実在性が疑われている人物なので、可能性は低そうですね(^^;

※ヤマトタケルに関しては天皇陵が終わり次第、
 天皇以外の皇族陵墓の時に詳しく書こうと思います。


:結論:
陵墓としては、、、
〇古墳の築造年代が天皇の没年と合致しない
〇景行天皇では無く、付近を統治していた有力豪族の墓である
〇複数の埋葬主体部を持つとされているが、
 天皇の皇后についての伝承も記載も無い

人物としては、、、
〇タラシヒコの称号は7世紀に入ってから使われる為、
 景行天皇は後世の造作とされる
〇崩御年齢が不自然な長さ
〇実在したとしても弥生時代後半~末期頃で現実的では無い
〇80名もの皇子女が居るのに天皇の事績が少な過ぎる


以上で景行天皇陵についての考察を終わります。

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