関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2020年11月

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第2代天皇とされている綏靖天皇と、
その陵墓について考えてみました(^^

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綏靖天皇陵地形図全体像

南北に長い長方形状敷地内の北側奥に、
陵墓とされる墳丘が有ります。

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墳丘拡大
直径30m✖高さ2.5~3m程度の規模とされており、
考古学的名称は塚山or塚根山古墳と呼ばれています。

先に結論から言うと、綏靖天皇の陵墓などでは無く、
神武陵が造営されている辺り一面に存在した、
縄文後期~古墳時代までの大きな集落と、
その集落近くに造営された四条古墳群(14基確認 全て埋没古墳で現在は湮滅)
に属する古墳であるとされ、築造年代は5世紀前半~6世紀中頃と推定。
実際に私自身も神武陵とセットで見学しています(^^
墳丘の周囲を石製の柵で八角形に囲まれているのを確認してますが、
石柵が建てられている位置よりも下部分に墳丘斜面の一部が見えたので、
築造当初の直径はもう少し大きいかもしれません。

次に人物について、、、
綏靖天皇の生没年は、神武天皇29年(前632年)~綏靖天皇33年(前549)
在位期間は綏靖天皇元年(前581)~綏靖天皇33年(前549)
84歳で崩御したとされています。
紀元前632年を現代の日本の時代に照らし合わせると、
弥生時代初頭頃となり、崩御年齢は現代的ですが、
焼成温度が幾分縄文時代よりも高くなって、
厚みが薄めな土器と、地域によっては青銅製の武器や武具が、
祭祀用として製作され、鉄器が出始めた頃。

事績(天皇として実施した業績)は、神武天皇は東征伝説が有りますが、
あくまで神話上での話であり、現実的では有りません。
また、当時の天皇は政治的・軍事的な権力よりも宗教的な存在であったためか、
綏靖天皇も記紀ともに「事績不明」となっていますが、
他の欠史八代に数えられている天皇とは違い、
皇位継承争いの記述が記紀に見られる事から実在したとする説も有ります。
しかし、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であることの他、
宮(天皇の住まい)と陵の所在地が一致しない事などから、
現在は想像上の人物であり、実在はしなかった疑いが強いとされています。

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文久山陵図「荒蕪」図 全体像

大きな松の樹木が頂部から生え、
雑草に覆われた円墳が描かれています。
上で「石柵のさらに下にも墳丘斜面の一部が見えた」と書きましたが、
この荒蕪図でも柵の下にさらに墳丘の裾が有る事が分かります。

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「荒蕪」図 墳丘拡大
左下に参道の様な道が見え、墳丘と接する部分はそれほど高さが無い様に見えますが、
右奥では少し高くなっている様に描かれているので、
文久年間に陵墓として指定する前に耕作で削られたか、
周囲を掘り下げて目立つ様にしたのかは不明ですが、
本来はもう一回り大きかったかもしれませんね(^^;

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「成功」図 全体像
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「成功」図 拡大
墳頂部の松の樹木は立派になり、
墳丘裾付近に桜の樹木も見えます。

:結論:
人物については。。。
〇実在しない可能性が高い想像上の人物である
〇崩御年齢は現代的だが、在位年数が疑問
〇事績不明(皇位継承争いの記述が有るが創作の可能性強し)

陵墓については。。。
〇墳丘の築造年代が新しい
 天皇の在位期間は弥生時代中期頃古墳の年代は5世紀前半~6世紀中頃
〇四条古墳群中の1基である
〇八角形に石柵で囲っているが八角墳では無く円墳である

以上で綏靖天皇についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

陵墓考察カテゴリ1回目は、やはりどうしても外せない、
公式で初代天皇とされる神武天皇とその陵墓から。。。
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陵墓地形図から全体像。
地形図を見て、まず最初に思う事は、、、
「中央付近に有る墳丘が綺麗過ぎるor整い過ぎてる」事。。。
整備費用は15000両が費やされたと資料にあります(^^;

現在「1両は現在の貨幣価値に換算すると幾らになる?」と検索すると、
多くの情報が出てきますが、その中でも分かり易い例を用いて、
当時と今の米の値段を比較すると、
1両は約4万円程の価値であるとされているので、
15000✖4=6000万円・・・となり、
さらに明治時代の1円は現在の3800円くらい(ネット調べ)なので、
6000万✖3800=228000000000円
・・・となり、2280億円という膨大な予算が、
費やされた事になります(汗

陵墓のある土地内に、橿原神宮(神武天皇が居住していたとされる橿原宮跡地とされる)も、
建設しているので、その費用も含まれているとしても・・・です(^^;
・・・まぁ、これだけの資金を投入されれば綺麗な墳丘と周囲にはなりますよね(^^;
「天皇は神聖な存在」として崇敬されていた時代だから出来た事で、
現代でこんな事業をやろうとしたら国会や国民から叩かれそうです(^^;
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文久山陵図「荒蕪」図から全体像
伝承によると以前は国源寺という小さな寺社が有った基壇とされており、
大きい方は直径7m✖高さ1mの円丘で、
小さい方は直径6m✖高さ0,6mの円丘だった模様。
ココが治定に至った理由としては、
この水田が広がる地が「神武田(じぶでん)」や、
天皇の山陵名に似た「ミサンザイ」と呼ばれていた事から・・・とされています。

・・・そんな訳で、公式にはこの2つの小丘が、
神武天皇の陵であるとされ、まず文久年間に修陵。。。
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文久山陵図「成功」図
この頃は陵自体を整備したのみ橿原神宮はまだ有りません。
中央右の小さな木立は整備する際に土中から出土した、
寺社の土台に使用されたとされる礎石が保護されている所ですが、
コレは現在も有り、陵墓地形図でも陵の東側に確認できます。

陵墓の規模は直径40m✖高さ3mの円墳で、周囲に幅16mの方形の掘を巡らせ、
四条ミサンザイ/山本ミサンザイ/神武田・・・という3通りの古墳名が有る模様。。。
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「成功」図の時点では2個有った小丘ですが、
最終的には1つにまとめられたのでしょうね(^^;

次に神武天皇について。。。
神武天皇の在位期間は「神武天皇元年(紀元前660)~76年(紀元前585)」
生没年は「庚午年(紀元前711年)~神武天皇76年(紀元前585)」
名前は始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)
127歳で没したとされる。

以下に現在入手できる資料(史料)と私見を。。。

まず陵墓から、、、
指定前の小丘は荒廃した国源寺方丈堂の基壇という説
周囲に存在(現在はほぼ湮滅)した四条古墳群中の物とする説

国源寺については早くに荒廃した模様で、伝承以外に何の情報も無い上、
現在陵の脇に保護されている礎石も実際に国源寺の物かは確証が有りません
従って、国源寺の基壇だったとする伝承は可能性が低いものと思われます。

四条古墳群は別記事にて紹介予定の綏靖天皇陵が、
最も築造当時の姿を残す四条古墳群中の1基であるとされていますが、
神武陵の元になった2小丘とも距離が近い為、
古墳であるとする説が出てきています。
また、ミサンザイ(現神武陵)からは土器片が出土したとの資料も有り、
実際に周辺から埴輪片や須恵器等が確認された為、
現在はミサンザイも綏靖天皇陵も四条古墳群に含まれる古墳だった説が濃厚となってます。
また、橿原神宮を整備する際に縄文~弥生時代頃の集落跡が見つかっており、
その際に四条古墳群も埋没古墳として現在までに14基が確認されています。
尚、四条古墳群は5世紀前半~6世紀中頃にかけて造営された古墳群です。
これらの事から、神武陵となった2個の小丘は、
5世紀~6世紀代の古墳だった可能性が高いと思います。

次に人物から。。。
神武天皇の生没年と在位期間は上記に書きましたが、
その頃の年代を現代に照らし合わせてみると、
縄文時代末期~弥生時代初頭頃になり、
上記時代に鉄製の武器や武具が有ったとは考えにくいです(^^;
よくネット上で見られる神武天皇の想像図ですが、
大きな弓を持ち、長い矢が入った矢筈を背中に背負って、
腰に豪華な柄頭を装着した剣を携えて・・・という、
想像図が描かれてたりしますが、
もし本当に存在したとなれば色々な歴史が塗り替えられる騒ぎになりますね(^^;

また、没年時の年齢が127歳。。。
現在ギネスブックに世界最高齢記録として残っている年齢は117歳だそうです。
現在と当時とでは衣食住環境や気候も違うと思われますが、
120歳越えは無理があると思います(^^;

神武天皇と崇神天皇が同一人物ではないか?という仮説が有名ですね(^^
これには理由が有りまして、よく知られているのは名前が一緒という事。

神武天皇=始馭天下之天皇
崇神天皇=御肇国天皇


漢字に違いは有りますが両名ともに、
「ハツクニシラススメラミコト」と読みます。
崇神天皇も崩御時の年齢が119歳と公式では記載されてますが、
現存するギネス記録からするとあながち非実在とは言えないかもしれません。
神代の世で非実在性が高い神武天皇よりも、
崇神天皇の方が実在性が高く、また実在したとすれば3世紀後半頃とされます(^^

※ちなみに現在、史料やこれまでに発掘された遺物から、
 はっきりと実在性が確実視されている最初の天皇は雄略天皇とされています。
 
以下は私が疑問に思っている事項を。。。
〇神武天皇の出生地は現在の宮崎県日向市とされており、
 東征して現在の橿原市に宮を建築し即位したのが、
 日本国の始まりとされていますが、
 何故橿原に宮を構えたのか?という理由が謎。
 箸墓古墳や行燈山古墳、西殿塚古墳、纏向石塚古墳などの四条古墳群よりも、
 古い古墳が密集している
天理市付近に宮を構えたとしなかった理由は何故なのか?
 また、宮崎県には西都原古墳群が有り、宮内庁が陵墓参考地として指定&管理している、
 男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳が有る上、西都原古墳群だけでなく、
 周辺にも夥しい数の古墳が有るにもかかわらず、
 何故東征伝説にこだわってまで近畿に宮を構えたとしたのか?
 西都原古墳群内にも3世紀後半~4世紀前半頃の築造とする、
 築造年代が古い古墳が確認されています。
 日本で初めての天皇が誕生した地が、天皇が誕生した日向(現:宮崎県)だが、
 わざわざ遠く離れた橿原に宮を建てたとしている事について、
 橿原でなければならなかった明確な理由が不明
〇神武天皇の即位年月日は記紀に基づいて明治政府が決定したが、
 その際に神武天皇と崇神天皇の名が同一だと分かっている上で混同しない様に、
 あえて神武天皇は橿原宮に、崇神天皇は磯城瑞籬宮にした可能性も考えられるが、
 確たる理由と根拠は公表されていないので不明であり謎

:結論:
人物としては、、、
〇想像上の人物である可能性が強く存在も疑わしい。
〇崩御年齢が非現実的

陵墓としては、、、
〇陵墓に指定されている墳丘は、元は2基の古墳もしくは廃寺の基壇だった可能性が高い。
〇修陵当時に出た遺物は全て縄文~弥生時代の遺物であり、神武天皇とは関係が無い。
〇陵墓は遺体埋葬が無い擬陵。

その他、、、
〇存在しなかった人物であるならば、橿原宮という宮殿跡も当初から無いという事になる
〇想像上の人物の墓を作り神聖化した上で多額の税金を投入

神武天皇で無く崇神天皇が初代となれば、
色々な皇室関係の書籍なども訂正が必要になってきますが、
現在のギネス記録では「日本の皇統譜は世界最古」として認定はされているものの、
「古くても4世紀」と注が付いている辺り、
やはり崇神天皇の方が初代なのでは?と考えてしまいますね(^^;

長くなりましたが、以上で神武天皇の考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

今日から新しいカテゴリを作りまして、
先日新聞記事で「真の文武天皇陵確定」との見出しと記事を読んで、
改めて宮内庁が治定/指定している陵墓や陵墓参考地の、
過去に調査され現在までに判明している事項を参考に、
手持ちの資料である、文久山陵図と陵墓地形図集成縮小版を使い、
私自身が特に疑問に思う陵墓/参考地を挙げて、
「公式見解は〇〇だが、自分は〇〇と思う」と言う事を、
公式見解と自分の考え(伝承含む)と分けながら書いていこうと思います(^^

また、現在第Ⅶ巻まで出版されている「陵墓関係論文集」も参考にしていきますが、
宮内庁長官は「墓誌などの確たる証拠が出ない限り真の陵墓として認めないし、
指定解除も治定替えもしない」
と発言していますね(汗
論文集の中では、例えば「安康天皇陵」については、
はっきりと「中世の城郭跡であり陵墓では無い」、
「他に陵墓候補を探し、治定解除すべきものである」と断じてます(^^;

以前カテゴリを作って1陵墓づつ書いた、
「陵墓地形図集成」と「文久山陵図」では、あまり突っ込んだ私見までは、
書きませんでしたが、今回のカテゴリでは、
事前に調べた上で可能な限り書いていこうかと思います(^^


・・・例えば・・・

天皇を「テンノウ」と呼び始めたのは7世紀後半からで、
大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇or持統天皇からとするのが通説で、
それ以前は「オオキミ(大王)」と呼ばれていたとされています。
1つの王朝を治めた王を全て天皇とするのあれば、
何故大和や河内を治めた王だけが天皇とされたのか?
・・・の謎
が出てきます。
日本国内には近畿以外にも100mを超える巨大な前方後円墳を含む、
古墳群が多数ある事から、規模の大きな王朝が有ったとする説が有りますが、
大和・河内以外は天皇、それ以外は有力豪族もしくは単に王としているのが、
不思議であり何故?と疑問が湧きます。。。
天皇は全て大和か河内か京都で即位しているとしても、
初代神武天皇は天孫降臨が有った鹿児島県・宮崎県にまたがる高千穂付近の出生、
継体天皇は福井県から(出生地は滋賀県)と、辻褄が合わない人物が複数人居ますが、
その辺りの説明は有りません。。。
また、神武から仲哀天皇までは非実在説が多く、存在しない人物を、
わざわざ天皇に仕立て上げて多額の税金を投入してまで陵墓を管理する理由は?
縄文時代に当たる頃に天皇と呼べるような人物は居たのか?
・・・この辺りの公式な見解が未だ無いのは、
宮内庁自身でも確たる根拠と自信が無い事の現れでしょうか?

・・・くらいの個人的なツッコミが有るかと思います(^^
あくまで考古学的な観点から考察していく為、
天皇制の否定派/肯定派という訳ではありませんので、
ご了承の上お読みくださいます様、宜しくお願いします(^^

※本来であれば当ブログのメインである関東の古墳と史跡の見学をしたい所ですが、
 新型コロナウィルス感染拡大により、今後、外出自粛の様相が出てきそうなのと、
 しばらくの期間自家用車を運転出来ないので、古墳・史跡見学はしばらくの間、
 お休みとさせて頂きます m(_ _)m

皆様こんにちは~(^▽^)

今朝の新聞記事内に私が興味を持っている、
陵墓関係の事が掲載されていたので切り取って保管。。。

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『文武天皇陵 特定』
・・・と大きな見出しで、中尾山古墳が発掘調査の結果、
真の文武天皇陵である事が決定づけられた模様。
これまでの発掘調査で形状が八角形で内部の広さがとても狭い、
小規模な横口式石槨が有る事は知られていましたが、
今回の調査で墳丘の全周を3重の石敷が囲っているという事実が判明。

長らく研究者の間で「真の文武天皇陵では?」との指摘が、
裏付けられた意義は大きいとも書かれています。
また、露出している天井石の隙間からファイバースコープでも入れたのか、
石槨内部のカラー写真も掲載されているので、
天井石に朱の一部が残っている事や、石槨内側の壁面は、
平滑に仕上げられているなど、精巧な石槨である事も分かりますね(^^

今回の中尾山古墳同様に被葬者が特定されたのは、
斉明天皇の牽牛塚古墳が有りますが、
コチラも八角形で墳丘周囲に石敷が全周している事も判明していますし、
築造時期も天皇の没年と一致してます。

尚、宮内庁が指定している車木ケンノウ古墳は、
文久山陵図の「荒蕪」図を見てみると、自然の山の頂上部分であり、
古墳の可能性は低く、「母の陵前に皇女の陵も営まれた」という、
言い伝えとはかけ離れている位置に皇女の陵が治定されているので、
調査で牽牛塚古墳の墳丘から直ぐ側の土中から発見された、
腰塚御門古墳の方が真の皇女陵である可能性が高いとされていますね(^^

また、今回調査された中尾山古墳は築造年代が8世紀初頭で、
天皇の没年と埋葬地である「檜隈」と呼ばれた地域内に有りますが、
現在宮内庁が治定している陵域内には6世紀後半~7世紀代の、
築造年代が推定されていて、横穴式石室が開口していた栗原塚穴古墳が、
充てられてます。。。
飛鳥時代に火葬された天皇は持統天皇と文武天皇だけ。

宮内庁の担当者は「被葬者を示す墓誌など確固たる決定打が有れば
変更は有り得るが、そうでなければ現状維持の姿勢は変わらない」
・・・との事です(^^;
墓誌が確認されたのは太安万侶墓(奈良時代)からなので、
かなりの無茶振りですが、「今まで国民の税金を投入してきているので、
今更『私達が間違ってました』とは言いにくい
・・・みたいな事情でも有るのでしょうね?(^^;


今回のこの記事を読んで、改めて現在宮内庁が治定/指定している、
陵墓の矛盾点が他にもいっぱい有るので、
神代~古代天皇まで陵墓のカテゴリで1天皇づつ、
最近の調査結果や手持ちの資料の文久山陵図と陵墓地形図集成(縮小版)を、
使いながら書いていこうかな?と思いつきましたので、
ステイホーム中に更新していきたいと思います(^^

皆様こんにちは~(^▽^)

大変ご無沙汰しております~(^^;
ここのところ本業関係が多忙なのと、
新型コロナウィルス感染拡大による外出自粛をしている関係と、
諸事情でしばらく運転出来ないので、
仕事や買い物以外は家でグーグル散歩や、
次に見学しに行く予定の場所を選んだりして過ごしています(^^

妻の実家が水戸なので、よく茨城県に行くついでに、
県内の古墳や遺跡を見学していますが、
茨城県の古墳に関係する資料をあまり持っていないので、
コチラを購入してみました

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『続 常陸の古墳群 六一書房』

表紙の古墳は石岡市にある舟塚山古墳の墳丘実測図です(^^
前方部の長さが後円部の直径よりも長いという、
近畿前方後円墳の影響を色濃く受けているとされていますね(^^

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中身(目次)はこんな感じ。。。
何故、上巻から買わず下巻から買ったかと言うと。。。
以前見学しに行った2基の古墳に関する情報と、
茨城町の古墳群や古墳が掲載されていたから(^^

それ以外の水戸市やかすみがうら市などは、
上巻に掲載されている様なので、お小遣いを貯めてから、
購入してみようと思っております(^^

尚、今回この資料を購入したので、
以前見学した古墳で掲載されている所は、
随時墳丘規模などのデータを書き換えていこうと思います


先程上で、グーグル散歩をしていると書きましたが、
先日埼玉県埋蔵文化財分布図には記載されていない箇所で、
水塚or古墳様の物体を見つけまして、今とても気になっています(^^;
諸事情で運転できない上、最寄りの駅(西浦和駅)からは、
徒歩12分(約1km)と少々遠い閑静な住宅内に有ります
また、直ぐ南側の水田内にもわざわざ避ける様にして、
半円状の物体が確認できますので、
運転できる様になったら見学しに行こうと思ってます
住所的には、さいたま市南区松本2丁目という、
1軒の住宅を含む畑地内とその南側約160m(徒歩2分)の、
水田内の2箇所となります。
グーグル検索とストリートビューで確認出来ます
空からは丸い木立が目立つので直ぐ見つけられるかと思います(^^
畑地内の盛土に関しては、未調査なのか一切情報が無いので不明ですし、
単なる畑用の用土を積み上げたとも考え難いです。。。
ストリートビューで見た上でですが、推定直径20m✖高さ2m程度の、
やや楕円形を呈する結構大きな物体と思われます。
また、水田内の方は平面状になっていて盛土は見られません。
コチラも直ぐ西側道路からのストリートビューで確認できますが、
わざわざこの部分を残す様な形になってるので気になっています。
何か情報をお持ちの方はコメント欄にお願いします m(_ _)m

※もし古墳でもなんでも無いと判明したら、
 この記事は一部修正した上で削除させて頂きます(^^;

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