関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2018年11月

皆様こんにちは~(^◇^)
今日は市内の博物館へ行ってきました(^^
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さいたま市立博物館外観
常設展見学と発掘調査の資料閲覧が主な目的です(^^
特別展では「さいたまの茶葉 大海を渡る」として、市内の貴重で文化財指定を受けた文書や、
道具などが展示してありましたが、写真撮影は不可との事なので、ザッと見てきました(^^;
尚、常設展の方は写真撮影可能ですが、
受付に申し出が必要ですので、勝手に撮影しない様に注意が必要ですね(^^
特に目新しい展示物は無かったので撮影はしておりません(^^;
尚、入館/見学は無料です(^^
休館日も稀に工事などで休館の時も有りますが、
基本的に月曜日、年末年始、月曜祝日の場合は翌日が、それぞれ休館となります。
駐車場は無いので、近くのコインパーキングを利用して下さい(^^

退館する前に以下の書籍を購入(^^
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以前見学した際に、住人不在で見学できなかった、
塚本塚山古墳(4世紀 前方後方墳)や、神明寺古墳(6世紀)の墳丘写真などが、
カラーで掲載されていたので、また時間が有る時に、
上記2古墳は見学しに行こうと思っております(^^

また、PC上で閲覧できるさいたま市埋蔵文化財分布図ですが、
見学の際に持ち歩きたいので、地図的な物は無いかとお尋ねした所、
埋蔵文化財のみの物は無く、市内全ての文化財が、
何処に有るかを掲載している地図は有るそうで、
現物もお見せして頂いたのですが、一般には配布していないとの事でした。。。
残念。。。(^^;

※2022年追記
ネット通販の古書店で『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』の、
入手が叶いました

今日は膝の調子が少し良かったので見学して来ましたが、
今後膝の調子があまり良く無い時は、まだ浦和博物館や岩槻区の資料館など、
行った事が無い施設へ順次時間を作って見学しに行こうと考えてます(^^
早く標準体型に戻りたいですが、何時になるやら。。。(汗

皆様おはようございま~す(^◇^)

今回でネタ切れなので、
また時間を見つけてまだ未見学の古墳や史跡を優先して、
近い内に見学に行こうと考えております(^^
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南側寺参拝者用駐車場から見た永明寺(ようめいじ)古墳の遠景。
羽生市内に現存する前方後円墳では最大規模を持つ古墳で、
埼玉県内では10番目の規模を持ち、周囲に散在する村君古墳群の主墳とされています。
墳丘全長73m、後円部径36m✖高さ7m、前方部幅42m✖高さ7mの規模を持ちます。

南西に12km程進んだ所にさきたま古墳群が有り、
埋葬主体部に礫槨と思われる埋蔵施設を持つ事などから、
稲荷山古墳や二子山古墳などの被葬者との、
何らかの関連性を持つ被葬者が葬られていたのでは?
・・・とされている古墳です(^^

駐車場に停めた際に住職の方がいらしたので、
古墳見学の為と伝えた所、快諾して頂いたので、
ゆっくり&じっくり隅々まで見学できました(^^
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寺院の山門脇には、寺院名の看板と共に、
石碑と茶御影石製の2つの古墳名を刻んだ標柱が有りました(^^
住職によると、見学客が結構多いそうです(^^
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駐車場端に設置された休憩所の裏に、立派な古墳の説明板が設置されてます(^^
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墳丘実測図が掲載された、寺院内文化財説明パネル。
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墳丘実測図の拡大。
墓所の造営で後円部南側斜面の一部を、前方部/後円部頂部それぞれに社殿が有る事などで、
各々削平や破壊を受けていますが、墳丘西側と北側は、
概ね築造当時の面影が残っていると思われます。
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こちらは羽生市立郷土資料館内に掲示されていた、
墳丘規模確認と周濠確認の発掘調査時のトレンチ設定の位置図。
平成22年度から毎年実施されていたのですね(^^
墳丘を全周すると見られる周濠ですが、南側が最も幅が広いのが特徴ですね(^^
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くびれ部付近から後円部を見た感じ。
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くびれ部後円部寄りから後円部頂部及び社殿。
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後円部頂部に建てられた薬師堂の社殿。
昭和6年にこの薬師堂を建立するに当たって、
頂部を掘り起こした際に、緑泥片岩等を用いた石室が出土し、
内部から、直刀や鉄鏃、甲冑などの武具や馬具、
耳環などの装飾品が出土しています。
出土品の一部は羽生市立郷土資料館で展示されているので、
見学前後にご覧頂くと良いと思います(^^

また、主に周濠から出土した円筒埴輪の年代と、
薬師堂下部から出土した遺物の年代が合わない事から、
5世紀初頭頃に築造され、6世紀後半頃まで追葬された可能性が、
近年指摘され始めてますので、ひょっとしたら、
発掘された埋葬主体部以外に別の埋葬施設や副葬品が、
まだ堂の下に眠ったままかも?という説も出てきてます(^^
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コチラが出土した円筒埴輪や土師器片。
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桂甲小札などの甲冑類
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少々失礼して社殿の床下を撮影してみました(^^;
埋葬主体部の正確な位置は不明ですが、
中央奥の丸石が直線的に並ぶ辺りが怪しいですね。。。
無造作に置かれたにしては、直線的過ぎますし、
丁度後円部頂部北側寄りから、中央部に掛けての位置なので(^^
説明板には石室と記載されていますが、現在は礫槨と推定されています。
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後円部頂部から前方部を眺めた感じ。
前方部頂部には文殊堂の社殿が有ります。
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文殊堂の社殿と前方部頂部の状況。
斜面に比べて頂部は下草が少ないので、墳丘表面の観察が容易です(^^
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前方部頂部から後円部を眺めた感じ。
頂部に上る階段は、くびれ部と前方部の2ヶ所に有ります。
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墳丘北側に廻り、後円部裾から前方部を眺めてみました(^^
北側には見学路が設けられているので、
畑などの私有地に入ることなく、墳丘を1周できます(^^
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前方部裾から後円部を眺めた感じ。
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北側の道路上から、全景を。。。
写真左奥が後円部となります(^^

:永明寺古墳(ようめいじこふん):
・所在地:羽生市下村君2278 永明寺
・墳形:前方後円墳
・規模:全長73m 
    後円部径36m✖高さ7m
    前方部幅42m✖高さ7m
・周濠:有 幅20~30m✖深さ2.5m
・埋葬主体部:礫槨と推定
・出土品:直刀、刀子、鉄鏃、衝角付冑、桂甲小札、
     鋸、金製耳環、埴輪片
・築造年代:5世紀初頭
・史跡の指定:県指定史跡
備考:前方部頂部に文殊堂、後円部頂部に薬師堂の社殿有り
    駐車場有り

皆様こんにちは~(^◇^)

本日は永明寺古墳に行く途中で見つけた、
コチラの古墳を紹介します。。。
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南西側から見た御廟塚(ごびょうつか)古墳遠景。
元は全長50m程度は有ったかと思われる前方後円墳ですが、
現在は後円部が有ったと思われる場所には水路が走っており、
現在残っている前方部も墓地化により、全体の2/3程度が残っている状態です。
残存丘部分は東西20m✖南北15m✖高さ2.5m程の規模で、
遠目には長方形墳にも見えますね(^^;
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北側から。。。
手前の空地に前方部とくびれ部、後円部の一部が有った物と思われます。
地表が露出している所を中心に観察してみましたが、土器片などは皆無でした。
この場所にもいずれ墓地が造営されると思われます。。。
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南東側から見た感じ。
墳頂部には墓所が造営されているので、墳頂部に上るのは遠慮しました(^^;
その代わり、墓地に接している南側斜面を中心に、
くまなく観察したところ、土師器と思われる小さな土器片を数点確認しました。

年度は不明ですが、破壊される際に行われた調査で、
埋葬主体部は横穴式石室であった事や、
土師器片の他、円筒埴輪や人物埴輪、轡なども出土しているそうです。
これらの出土品から築造年代は6世紀代とされています。
また、伝承として彦狭島王の墳墓であるとも伝わってます。

※彦狭島(嶋)王(ひこさしまおう) Wikiより引用
『日本書記』等に伝わる皇族で、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の孫で、
御諸別王の父である。
東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至り病死した。
東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。
景行天皇56年8月の条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって、
東国を治め、その子孫が東国にいるとある。
『先代旧事本紀』『国造本紀』上毛野国造条では、
崇神天皇年間に豊城入彦命の孫彦狭島命が初めて東方十二国を、
平定した時に国造に封ぜられたとしている。
穴咋邑の正確な位置は現在も不明だが、
穴吹神社(奈良県奈良市)が有力候補地とされている。

上野国とは現在の群馬県に当たりますが、
何故この場所(旧武蔵国埼玉郡)に、彦狭島王の伝承が有るのかが気になりますね(^^;
仮に実在したとしても崇神天皇の孫で景行天皇が治世する、
4世紀中頃~5世紀前半頃に生きた人物とすると、
6世紀代とする当古墳の被葬者に充てるには、無理が有る様に思います(^^;

駐車スペースや駐車場は有りませんが、
水路を挟んだ向かいに霊園の駐車場が有りますので、
今回は管理の方に一言断った上で停めさせて頂きました(^^
いずれ墓地化で削平されてしまうかもしれませんが、
可能であれば残しておいて欲しいですね(^^;

:御廟塚古墳(ごびょうづかこふん):
・所在地:羽生市下村君 霊園の向かい側墓地内
・墳形:前方後円墳(現状前方部の一部のみ残存)
・規模:不明 
    残存丘部分は東西20m✖南北15m✖高さ2.5m
・周濠:不明
・埋葬主体部:横穴式石室
・出土品:轡、円筒埴輪、人物埴輪、土師器片
・築造年代:6世紀代
・史跡の指定:市指定?
・備考:墳頂部に墓所有り
    駐車スペース無し(向かいに霊園駐車場有り)
    彦狭島王の墳墓との伝承有り

皆様こんにちは~(^◇^)

古墳を2基見学した後、別の古墳へ行く前に、
持参しているタブレット端末で羽生市内を見ていて気になった所に、先に行ってみました(^^
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それが古城天満宮です(^^
神社境内にしては、異様に広いので、
良く見てみると羽生城址とグーグルマップには記載されてますので、
羽生駅からさほど距離が離れて無かった為行ってみました(^^
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境内入口付近に設置された天満宮の縁起板
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市指定文化財の説明板
一番下部に羽生城跡の説明が掲載されてます。
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羽生古城之図と記載された古絵図と、
城跡の略年が掲載されてました。

少し羽生城跡について調べたのが以下。。。
永禄3年(1560年)の長尾景虎(上杉謙信)による関東出兵以降、
上杉方の関東攻略の拠点となったが、後に北条氏の度重なる攻撃を受け、
天正2年(1574年)閏11月に自落した。
その後城は北条氏から成田氏に与えられ、天正18年(1590年)の、
徳川家康の関東入封後は大久保氏に与えられたが、慶長19年(1614年)に、
廃城となった。
築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、
弘治2年(1556年)、木戸忠朝によるものと記しているが、
『風土記稿』の説を裏付ける資料が存在しない為、詳細は定かではない。
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天満宮参道入り口からの眺め。
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天満宮社殿。
丁度昼間の時間帯でしたが、自分以外の人気はゼロ(^^;
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社殿の北西側で、マップでは羽生城跡と記載されている箇所。
児童向けの遊具が有りますが、夥しい数の石碑に囲まれていて、
少々異様な雰囲気でした(^^;
城跡に関係する様な空堀や土塁などは皆無。。。
瓦片が少々落ちていましたが、天満宮社殿関係のものだと思われます。
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先程遊具が石碑に囲まれて異様だと書きましたが、
引きで見るとこんな感じです(^^;
ブランコは石碑と石灯籠に囲まれてしまってます。。。
右手前の白い物体はウサギの遊具でしょうか?
これだけ真っ白に塗装されているので目立ってました(^^;

駐車場は有りませんが、天満宮参道入り口前付近の道路が、
かなり幅広くなっているので、寄せて停めれば問題無さそうです(^^
3ナンバー車両でも切り返し1回でUターンできる程の道幅です。

:羽生城跡(はにゅうじょうせき):
・城の種別:平城
・築城主:不明
・築城年:16世紀初頭
・主な城主:木戸氏、成田氏、大久保氏
・廃城年:慶長19年(1614年)
・現存遺構:天神曲輪跡
・史跡の指定区分:市指定史跡
・備考:駐車スペース有り

皆様こんにちは~(^◇^)

保呂羽堂古墳に続きましては、
上記古墳の東方向、東武伊勢崎線の線路に、
前方部が掛かっているコチラの古墳を。。。
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南西側から見た毘沙門山(びしゃもんやま)古墳前方部。
墳丘全長63m、後円部径35m✖高さ4.5m、前方部幅40m✖高さ4.5mの、
前方後円墳で、線路敷設工事の際に埴輪片が出土し、
周濠の跡もついでに検出された古墳です(^^;
現在は、前方部側の周濠は完全に破壊、墳丘の全周を巡っていたと思われる周濠は、
宅地化と毘沙門天社殿建築などにより、痕跡すら分からなくなってます。
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南から見た毘沙門山古墳全景。
写真左が前方部、中央の石碑が有る場所がくびれ部、
右の朱色の本殿背後が後円部となります。
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前方部の頂部には古江神社の社殿が有ります。
また、後円部も前方部も同じ高さですが、社殿建築に当たって基礎を作っている関係で、
後円部よりも1.5m程高くなってます。
いつも後円部から見学しますが、今回は逆に前方部から見学してみました(^^
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前方部頂部から見下ろした感じ。
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前方部頂部の社殿。
厚いコンクリートの基礎が有る為、前方部頂部の観察は不可能。。。
線路に接している墳丘斜面を観察してみましたが、
まだ雑草に覆われていて遺物などは見当たりませんでした。
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前方部頂部から後円部方向を眺めた感じ。
社殿建築などでだいぶ削られてますが、
全長63mという規模を感じる事ができます(^^
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くびれ部上には誰かの銅像が(^^;
一瞬土地関係者もしくは古墳に関係する方?・・・と思いましたが、違う様です(^^;
正解は下部の写真で判明します(^^;
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後円部頂部から前方部方向を眺めた感じ。
くびれ部の銅像が少々邪魔ですね(^^;
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後円部頂部平坦面の様子。
全体的に踏み固められており、遺物は斜面で風化してボロボロになった土器片が、
斜面や平坦面端付近で少量見られたのみ。
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後円部平坦面北側端には、合祀されている浅間神社に関連する石碑が有ります。
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後円部裾から前方部方向を眺めた感じ。
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くびれ部に有る、巨大な板碑。
元はこの古墳の横穴式石室の天井石と伝わります。
この事から当古墳の埋葬主体部は緑泥片岩の板石を組んだ、
規模の大きな横穴式石室であったと思われますが、
既に石室は破壊され、石碑として使用されたこの石材以外は、
何処かへ持ち去られた可能性も。。。
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石碑の直ぐ横に設置されている説明板
この説明板によって、先ほどくびれ部に建てられていた、
銅像の人物が誰なのか判明しました(^^;

また、この古墳について説明板は無いものかと、
探していた所、毘沙門堂拝殿前で見つけました(^^
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踏切側(前方部)から墳丘に接近した為に、この説明板に気付くのが遅かったです(^^;
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古墳については、短く簡潔に記載されているのみ。。。
今後、墳丘実測図を掲載するなどのしっかりとした説明板の、設置を希望したいです(^^;
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こちらは、天井石を転用した青板石塔婆の説明文。
この記述により、石材の大きさが把握できます。

駐車場や駐車スペースは有りませんので、
今回は駅近くのコインパーキングを利用しました。

:毘沙門山古墳(びしゃもんやまこふん):
・所在地:羽生市西1-13 
・墳形:前方後円墳 2段築成
・規模:全長63m 
    後円部径35m✖高さ4.5m
    前方部幅40m✖高さ4.5m
・周濠:有
・埋葬主体部:横穴式石室
・出土品:埴輪
・築造年代:6世紀後半
・史跡の指定:市指定史跡
・備考:前方部頂部に古江神社社殿
    境内に横穴式石室天井石と伝わる板石有り
    駐車スペース無し

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