関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2016年04月

皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は成務天皇の陵墓絵図を紹介します(^^

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「荒蕪」図 全体像
水田内に整備前の墳丘が描かれてます。
絵図右端に畦道が周濠の弧線を描いてる点に注目(^^
こちらは溜池として利用されていた訳では無く、
周濠内も水田用地として利用されていた事が分かります。

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「荒蕪」図 墳丘拡大
墳丘斜面に生えている樹木が少ないのは、
何か理由が有るのでしょうか?

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「荒蕪」図 後円部頂部拡大
「山陵考」に、「修陵前に盗人によって石室及び石棺が盗掘された」
・・・と記述が有りますが、記述の通り石室天井石と思われる、
大きな石材が墳頂部に数点見られます。
その手前の駒札は、おそらくココが陵墓である事を示していた、
立て札だと思われます。

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「成功」図 全体像
墳丘を整備し、周濠内に水を入れられ、
拝所を整備した様子。
拝所が周濠内に設置されている点が、
他の陵墓と違っている点ですね(^^
また、くびれ部に造出が見られますが、
その横の周濠外堤も造出の様に出っ張っているのが、
面白いですね(^^

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「成功」図 墳丘拡大
拝所の鳥居は2本有り、灯篭も一対見えます。
「荒蕪」図では樹木は、後円部頂部の松以外には、
ほとんど見られなかったですが、
修陵後は墳丘1段目テラスの部分に、
多くの樹木が植樹されてます。
前方部2段築、後円部3段築の様子が見られます。

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「成功」図 後円部頂部拡大
松の樹木の中、主軸線から少し西側にズレた所に、
何やら構造物が見えますが、「山陵考」によると、
これは盗掘により石室が破壊されてしまった為に、
石室内部に安置されていた石棺を置いたとの事。
これは、以前に陵墓地形図の書庫内でも記事にしましたが、
この石棺(長持型石棺か?)が現在もこの様な状態なのか、
至急調査して欲しいですね(^^;

以下に「山陵考」の文章を。。。

「山陵考」狭城盾列池後陵
成務天皇の御陵なり、大和国添下郡御陵村の東にあり、
字を石塚山とよぶ由ハ、陵山に砂礫を敷満ちたれハなるへし、
御在所既く発けて御石椁の大石とも露出たり、
高さ八丈許めぐり弐百廿丈許、御在所のかた円く前のかた方に
南面に三段に築たり、敷地平坦ならす、左ハ高く右ハ低けれハ
堀底も一様に打続かす、北後と南面とに少ツツ中絶たり、
これ日本紀に、葬于倭国狭城盾列陵とミえ、古事記に、
御陵在沙紀多他那美也とミえ、延喜式に、狭城盾列池後陵、
志賀高穴穂宮御宇 成務天皇、在大和国添下郡、
兆域東西一町南北三町、守戸五烟とミえたる御陵なり、
この 御陵号の楯列池後といふことは、池上に対へたる号にて、
すへて池ハ水の注入るかたを上とし水の流出るかたを後とする
定なれハ、此楯列池ハ佐紀川なと流入へたる池なるへきが、
今も佐紀川より南へ流るれハ、その水の流入けむには実に北ハ
池上といふへく南ハ池後といふへき地勢なり、西大寺に蔵伝へたる
宝亀五年五月十日弘仁二年十一月廿九日等の班田使官人の連署ある
奈良の京北班田図を見るに、楯列池ハ此 御陵より西北のかたにありて
池上陵の西下に広く湛へたりつらむを、宝亀のころハ既く水ハ涸たりけむ
とそ思はるる、また続日本紀に、神亀四年五月辛卯、従楯波池、
飃風忽来、吹折南苑樹二株、即化為雉といふことなとミえたり、
今ハミな田地となりて何処を池の跡なりとも知られぬかとくなりにたり、
然るを和州舊跡幽考大和志なとに、常福寺の東なる水上池をこの楯列池に
当たるは甚しき誤にて、水上池ハ御陵より遥に東にありて、
其中間に西畑村常福寺村なと立隔りたれハ、上代とてもかく隔りたる池の名を
御陵号にかけても申すましき地勢なるを、況て班田図に正しく此
御陵の西北に楯列池と注したるをや、さて此 御陵のこと先達の考ミな
此処として今ハ更に異論あらぬを、古く承和のころ 神功皇后の御陵と
相混たることありしを、図録に検給ひしに、北は神功皇后の陵、
南なるは成務天皇の陵なること分明になれりしこと、続日本後紀に見え、
又今弘仁の班田図を検へても 神功皇后山陵より三町許南方に此 
御陵ハある趣に注したり、又康平のころ此 池後陵を盗人発奉て宝物を
掠奪たりしを、旧のことく 山陵に返納させ給ひしこと扶桑略記に
ミえたり、さて又此 御陵の東に双ひて字をミササキと申せる古墳を、
里人ハ 神功皇后の御陵なる由云伝へたれと、その御陵ハこの
御陵より北にある趣上にも引る班田図にミえ、続日本後紀にも
楯列北南二山陵とミえたるにて、東にはるハ 楯池上陵に相当らさること
しられたれハ、此東なるミササキは 垂仁天皇の皇后 日葉酢媛命の
狭木之寺間陵ならむと考奉らるる由あり

以下にポイントを現代語訳で(^^

「字を石塚山とよぶ由ハ、陵山に砂礫を敷満ちたれハなるへし」
現在も石塚山古墳と呼ばれていますが、その由来は、
葺石を墳丘に敷き詰めている事から来ています(^^

「御在所既く発けて御石椁の大石とも露出たり」
御在所とは石室が有る場所の事で、既に盗掘を受けており、
石室石材に使用されたと思われる大きな石材が、
多数露出している状態であった事を書いてます。

「康平のころ此 池後陵を盗人発奉て宝物を
掠奪たりしを、旧のことく 山陵に返納させ給ひしこと扶桑略記に
ミえたり」
康平年間(平安中期、1058年~1065年 後冷泉天皇)に、
盗掘され副葬品を持ち出されたが、捕えた後に、
元の場所に戻させたと扶桑略記に記載されていた事を書いてます。

「古く承和のころ 神功皇后の御陵と相混たることありしを」
修陵前は神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた模様。。。
実際この地には大型の前方後円墳がひしめいていますから、
混乱は避けられなかったでしょうね(^^;
日葉酢媛命陵(狭木之寺間陵)の可能性は如何に?
の様な状態にもなりかかったそうですね(^^;

皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は垂仁天皇の陵墓絵図を紹介します(^^

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「荒蕪」図 全体像
宝来山古墳と呼ばれる全長227mの前方後円墳で、
「荒蕪」図では古墳の周囲に水田の灌漑用水の役割を持たせた、
周濠が描かれてますが、よく見ると、前方部東南端に、
水門も描かれてますね(^^

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「荒蕪」図 墳丘拡大
修陵前から程良い形状を残していた模様です(^^

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「成功」図 全体像
修陵のポイントは、

・周濠の拡大(東南側は溜池の機能有り)
・周囲の土堤の嵩上げ
・拝所の整備

・・・ですが、墳丘自体も綺麗な前方後円墳形状に、
整形されていることも注目したいですね(^^

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「成功」図 墳丘拡大
「荒蕪」図では見られ無かった段築ですが、
「成功」図の前方部拝所正面は綺麗に、
3段築の墳丘斜面が見えてます(^^

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堀の中に木柵が見えますが、
これは本来の周濠と溜池用の池を区別するために、
設置された物だそうです(^^

また、現在の垂仁陵の周濠内には、
田島間守の墓と伝わる円墳が見られますが、
文久山陵図には「荒蕪」図にも「成功」図にも描かれてません。
しかし、以下に掲載する谷森義臣の「山陵考」の文中には、
「東方南依の水中に小山とよへる小き円墳あり」
と記述している点に注目。。。
修陵以前から円墳が存在していた証拠ですが、
何故か「荒蕪」図には円墳は描かれてません。
「成功」図では堀を拡大した時に、
水没した可能性も有るので断定はできませんが、
何故「荒蕪」図で描かれてないのか、不思議です。

以下に「山陵考」の文章を。。。

「山陵考」菅原伏見東陵
垂仁天皇の御陵なり、大和国添下郡斎音寺村にあり、
字を蓬來山とよぶ、高さ六丈許めくり弐百拾三丈許あり、
陵山竹木いたく生茂たり、御在所のかた円く前方に南面に
三段に築たり、四周に堀広くめくり、東方南依の水中に
小山とよへる小き円墳あり、山辺勾岡上陵の堀中にも又
小墳あり、いかなる故といふことを知らす、この 御陵は、
日本紀に、十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵とミえ、
古事記に、御陵在菅原之御立野中也とミえ、
続日本紀霊亀元年四月条に、櫛見山陵充守陵三戸とミえ、
延喜式に、菅原伏見東陵、纏向珠城宮御宇 垂仁天皇、
在大和国添下郡、兆域東西二町南北二町、陵戸二烟守戸三烟と
ミえたる 御陵なり、此辺今も広き平地なれハ、昔は御立野とも、
伏見野とも、櫛見とも云へりしなるへし、菅原の号ハ
御陵の北西方に村の名に存り、又その村に菅原寺と呼ふ寺も残たり、
延喜式に、伏見東陵と載られたるハ 安康天皇の伏見西陵に対えたる
寺なり、此 御陵のこと先達の考ミな同しくて異説なし、
但し和州舊跡幽考に、この蓬莱に新田部親王を葬奉りし由招提寺の
旧記にありとぞと記せるハ、此 御陵蓬莱山のことにはあらて、
此近辺に多在る古陵のうちにその親王の御墓もあるにやあらむ、
この蓬莱山ハ菅原伏見東陵なること、諸先達の考説のことくにそありける

上記文中に記載されている「新田部親王(ニイタベシンノウ)」とは、
天武天皇の第10皇子とされている人物で、
生年不詳~天平7(735)年までに実在していたとされてますが、
事績不明、墓所不明という状態です。
尚、この方は陵墓地形図集成にも記載が有りません。
ただ、邸宅が有ったとされる所は、現在唐招提寺となっており、
これまでに実施された発掘調査で、金箔や漆で覆われた、
塼仏の破片が出土しています。
上記でこの親王がこの陵墓近くに埋葬されていると、
唐招提寺の旧記に見られる事が書いてありますが、
この陵墓では無く、近辺にある現在は垂仁陵の陪塚に、
指定されているどれかが該当するという様な事を書いてます(^^;
また、親王の墓所についてですが、
古陵のうちに」とあるので、陪塚い号の兵庫山かもしれませんね。
垂仁陵の陪塚の内、はっきりと古墳であることを認識できるのは、
高い墳高と直径40mという規模を持つ陪塚い号のみ。。。
兵庫山は竪穴式石室を埋蔵した古墳であるとされていますが、
従来有った古墳を墓地として再利用する方法は、
近世でも見られる例なので、
もしかしたら再利用されている可能性が有るかも?ですが、
発掘してみないと分からなさそうですね。。。(^^;
今後の調査結果に期待したいです(^^

皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は平城天皇陵の陵墓絵図を紹介します(^^

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「荒蕪」図 全体像
現状は直径100mの円墳ですが、
奈良文化財研究所による発掘調査で、
全長約250mの前方後円墳で、
前方部が平城宮の造営によって破壊され、
後円部だけが残ったものであることが判明してますね(^^

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「荒蕪」図 拡大
東側麓近くの民家と比べると、
その巨大さが分かりますね(^^;
陵墓としてよりも自然の小山と認識されていた可能性も、
有るかと思います(^^;
また、墳丘上には樹木が数本生えているだけですが、
平塚瓢斎の『聖蹟図志』もこの古墳を
禿山であると注記している事から、
修復前はこの「荒蕪」図の様な外観だったとされています。

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「成功」図 全体像
墳丘を2段築に整形しているのが分かりますね(^^
また、「荒蕪」図では数本しか無かった樹木が、
墳丘のあちこちに若木が見える事から、
修陵時に植林も行われた事が分かります(^^
また、「荒蕪」図で見られた麓近くの民家ですが、
「成功」図では、立派な外壁を整えてる事から、
この民家は守戸的な役割の人物が居住していたのでは?
・・・と推測しております(^^

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「成功」図 拡大
現在見られる段築は、文久年間に行われた物であると、
この「成功」図から確認できますね(^^;
最近では周濠の跡も確認されているので、
前方部の復元は無理だとしても、周濠の一部くらいは、
復元して欲しいと思ってます(^^

以下に「山陵考」の文章を。。。

「山陵考」揚梅陵
平城天皇の御陵なり、大和国添下郡常福寺村にあり、
字をねち山とよふ、高さ三丈許周廻七拾四丈許ある円墳なり、
これ類聚国史に、天長元年七月甲寅 平城太上天皇崩、
乙卯任御葬司、己未葬于揚梅陵十月丙戌、陵戸五烟、奉充
先太上天皇山陵とミえ、延喜式に、揚梅陵 平安宮御宇
日本根子推国高彦尊天皇、在大和国添上郡兆域東西二町
南北四町、守戸五烟と見えたる 御陵にそ御座ますへき、
今中條良蔵北浦定政等か考によるに、此ねぢ山より六町許南に
揚梅天神とよふあり、是この辺いにしへ押なべて揚梅と呼へりし
名の傍の社号に残りたるものなるへし、この陵制 田原東西陵の
如くにて揚梅の地名も又叶へれは、実に 揚梅陵なるへきこと明なり、
但し今添下郡に属たれど昔ハ此辺まで添上郡に入たりしものなるへし
と云へり、此説実によく相当れれハ今これに従ふ、和州舊跡幽考廟陵記
なとの説に、法花寺村なるうはなへ山を揚梅天神に近けれハ揚梅陵
なるべしといへれど、うはなべ山ハ上代の陵制にて此 
御陵の御時勢に相合はす、又その西北なるひしやげ山を此
御陵に当たる説も聞ゆれど、是又荘大なる古墳にて
磐之媛命の平城坂上墓なるへきこと先達の説分明なれはまた此
御陵に当たらざること疑なし、故に今ねぢ山の説に拠れり

皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は光仁天皇の陵墓絵図を紹介します(^^

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「荒蕪」図 全体像
田園地帯の中にポツンと小山が有る状態。。。

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「荒蕪」図 拡大
現状では直径約38m×高さ約7mの規模を持ち、
3段築成の痕跡を見出す事が出来る円墳です。
また、谷森義臣はこの円墳には、
西向きに開口する横穴式石室の存在を、
記録しているということですが、
そうなると、古墳時代後期の古墳という事になってきますが、
出土遺物などが何も伝わっていないので、
年代の確定は難しいのが現状です(^^;

イメージ 3

「成功」図 全体像
小山状態だった墳丘を綺麗な円墳に整形し、
周濠、外堤、木柵を設置して拝所を整備した状態。

イメージ 4

「成功」図 拡大
現在光仁天皇陵に見られる堀は空堀ですが、
修陵当時は水が入っていた模様です。。。

以下に「山陵考」の文章を。。。

「山陵考」田原東陵
光仁天皇の御陵なり、大和国添上郡東田原の日笠村にあり、
字を王の墓またハ塚の本なともいへり、高さ二丈許周廻四拾
九丈許ある円丘なり、文化の頃には西面の麓に羨門あらわれありしと
聞ゆれど今ハ其処もミえす、この御葬送もとは広岡に葬奉給ひしを、
後に此地に改葬し給へり、これ続日本紀に、天応元年十二月丁未
太上天皇崩、明年正月庚申、葬於廣岡山陵とミえ、延暦元年八月巳未、
遣治部卿従四位上壹志濃王、ムムムムム等、六位以下、解陰陽者、
合一十三人於大和国、行相山陵之地、為改葬 天宗高紹天皇也とミえ、
同し五年十月甲申、改葬 太上天皇於大和国田原陵とミえ、
また延喜式に 田原東陵、平城宮御宇 天宗高紹天皇、在大和国添上郡、
兆域東西八町南北九町、守戸五烟とミえたる 御陵にそ御座ますへき、
この御陵号、江次第なとの書にハ 後田原陵と書されたるは、
前に葬奉りし 田原西陵に対へて後とは申せるなるへし、
其もとの廣岡陵は田原より遥に北のかた山城国に近くて廣岡村あり、
其地に御旧跡在やなしや委しく尋奉るへし

西向きの石室開口は珍しいと思いますが、
実際に西向きなのか、石室の位置を確認する為の、
調査を実施して欲しいですね(^^

皆様おはようございま~す(^◇^)

本日は聖武天皇の陵墓絵図を紹介します(^^

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「荒蕪」図 全体像
文久年間に修陵の手が入る以前から、
既に参道の設置や墳丘周囲の木柵の設置、
石燈篭の寄進など、独自の整備が成されていた模様。

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「荒蕪」図 墳丘拡大
鳥居も設置されてますね(^^
石燈篭は嘉永7(安政元年=1854)年に、
聖武天皇1200年忌に建立されたものです。
尚、この古墳は横穴式石室(横口式石槨)を、
内蔵する古墳であるとして、
現在は法蓮北畑古墳と呼ばれています(^^

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「成功」図 全体像
「成功」図では修復した陵墓では無く、
陵域全体を俯瞰した状態が描かれてます。
手前に鳥居を設置した拝所が有り、
そこから石段を登った先に、現在は廃寺となっている、
眉間寺の社殿が見えます。
眉間寺の廃寺時期は当初、
文久年間の修陵時だと推定されてましたが、
修陵当時はまだ残っていた事がこの絵図からも分かりますね(^^
寺伝が無いので廃寺となった正確な時期は分かりません。
陵墓本体は山頂付近に有ると思われますが、
木立が深くて見えません。。。

イメージ 4

「成功」図 拝所付近拡大
陵墓とされる墳丘やその周囲には、
既に整備の手が入っていた為に、
拝所と丘陵麓に木柵や生垣を整備するだけで済んだ模様。

以下に「山陵考」の文章を。。。

「山陵考」佐保山南陵
聖武天皇の御陵なり、大和国添上郡佐保山眉間寺の北にあり、
字をミササキノ森といふ、御陵の形いたく損ねたれど
よくよく伺奉れば北後のかた円く高く南前のかたハ方に低し、
高さ八丈許周廻百拾一丈許あり、後円のかたにはから堀の跡のこりたり、
また何頃より建来れるにか 御陵の中壇に佛堂宝塔なと建たり、
この 御陵は続日本紀に、天平勝宝八歳五月壬申、奉葬 
太上天皇於佐保山陵御葬之儀如奉佛とミえ、延喜式に、佐保山南陵
平城宮御宇 勝宝感神聖武天皇、在大和国添上郡、兆域東西四段西七町
南北七町、守戸五烟とミえたる 御陵にそ御座ますへき、
さて東大寺要録に引る新紀といふ書に、延喜十年に此 御陵
仁正皇后の御陵なとに火災ありしかば、御使を奉遣たまひて
祈謝せしめ給ひしことミえ、また史官記に、久安五年に、興福寺の僧此
御陵を堀頽して大石ともを運取たりといふことありて、
実検使なと下されたりしかとも、そは奈保山の石にて此
御陵の石にはあらすなといふことにてやみたるなるへし、
さて又眉間寺ハ、もと此 御陵より西北山間に在し由或人かたりき、
大和志にハ、久安中沙門道寂この寺に寓居したりし趣ミえたれど、
久安五年の史官記に記したる趣にてハ、
此 御陵辺に寺院なと在し趣
ミえたること無し、かくて此 御陵の兆域、
東四段西七町と延喜式に載られて、
西ハいと広大なるを東方のいと狭小なるハ、
此 帝の御后 仁正皇后の御陵の
いと近く東北に並ひておはしましし故なることは、
同式に 佐保山東陵の兆域を、
東三町西四段南北七町を載られたるにて、
その 東陵とこの 南陵とその中間僅に
八段をおきて近く雙びおはしましし事知られたり、
然るを此 御陵の東辺ハ永禄のころ
松永久秀多門山城を築きてその城地と為たりしに依て、
既く東陵ハ廃れたりしものなるにや今ハ慥に其処と仰かるる処も見えす、
ただ此 御陵の東下に、御堀の跡の樵径となれりしもの
とおはしくて窪かなる小径を隔てて、東の並ひに多門城跡の櫓台と称へて、
際たちて土高く老松五六株生茂れる処あり、
此老松生ひたる高地の南傍より先年壺なと
堀出たることもありしといへり、今按ふるに、此処かの 
仁正皇后の佐保山東陵の御廃址にもやおはしまさむとハ
考奉られたれど、慥に考定むへき由なきそは如何にせむ、
但し今眉間寺僧の云伝へには此 
御陵の西方なる山を此皇后の御陵なる由云伝へたれど
延喜式の文に合はす、いかなることにか

古墳であるならば、自然崩壊していないか等、
実地調査を行って欲しい陵墓です(^^

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