皆様こんにちは~(^◇^)
240陵墓目はコチラ。。。
允恭天皇恵我長野北陵之圖
考古学的名称は、市野山(いちのやま)古墳と呼ばれています(^^
陵墓墳丘拡大図。
見易い様に横向きで撮影しております(^^
前方部側が北、後円部側が南となります。
前方部から後円部の1段目テラス部分の所々に少々等高線の乱れが有る以外は、
比較的築造当時のままの模様。
考古学的見地は後で述べるとして、先ず允恭天皇について。。。
允恭天皇想像図
〇允恭天皇
・御名:御朝津間稚子宿禰尊
(オアサヅマワクゴノスクネノミコト)
・生没年:生年不詳~允恭天皇42(453)年
・在位期間:允恭天皇元(412)年~允恭天皇42(453)年
・続柄:(父)仁徳天皇/(母)磐之姫命
・第19代天皇
・陵名:恵我長野北陵
・古墳名:市野山古墳
生年は不詳。履中・反正天皇の弟。
宋王朝と通交し、安東将軍・倭国王などの称号を与えられた。
また、臣下による姓氏の詐称が横行したため、
釜に手を入れて名のる氏姓に偽りが無いか判定する、
「盟神探湯(くがたち)」が行われたと伝えられている。
ちなみに、古代随一の美女として誉高い、
衣通姫(ソトオリノイラツメ)を妃としたことでも知られる。
在位年数42年、享年不明
・御名:御朝津間稚子宿禰尊
(オアサヅマワクゴノスクネノミコト)
・生没年:生年不詳~允恭天皇42(453)年
・在位期間:允恭天皇元(412)年~允恭天皇42(453)年
・続柄:(父)仁徳天皇/(母)磐之姫命
・第19代天皇
・陵名:恵我長野北陵
・古墳名:市野山古墳
生年は不詳。履中・反正天皇の弟。
宋王朝と通交し、安東将軍・倭国王などの称号を与えられた。
また、臣下による姓氏の詐称が横行したため、
釜に手を入れて名のる氏姓に偽りが無いか判定する、
「盟神探湯(くがたち)」が行われたと伝えられている。
ちなみに、古代随一の美女として誉高い、
衣通姫(ソトオリノイラツメ)を妃としたことでも知られる。
在位年数42年、享年不明
制札
拝所から見た陵墓正面。
それでは考古学的見地を。。。
▽市野山古墳
・墳形:前方後円墳 3段築成
・規模:全長227m
後円部径140m✖高さ22.3m
前方部幅160m✖高さ23.3m
・周濠:有り 二重
・埋葬主体部:不明
・出土品:円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・靫・人物・馬・犬・鶏)
・築造年代:5世紀中頃
・史跡の指定:国指定史跡
・備考:陪塚2基
い号(八王子塚)円墳(古墳では無い可能性有り)
ろ号(衣縫塚古墳)円墳 直径20m
は号(宮の南塚古墳)円墳 直径40m
従来5世紀後半に造られたと考えられてきたが、近年の円筒埴輪編年では、
5世紀中頃の築造であると推定され、允恭天皇陵である可能性が高いとされる。
古墳名の由来は、この地が昔から「市の山」と呼ばれていた事から。
内堤から外側の周辺が宅地化したことに伴って行われた発掘調査で、
内堤・外濠・外堤周辺から埋没古墳が幾つか検出されており、
円筒埴輪棺1基、石槨木棺墓2基、土壙墓5基が確認されている。
・墳形:前方後円墳 3段築成
・規模:全長227m
後円部径140m✖高さ22.3m
前方部幅160m✖高さ23.3m
・周濠:有り 二重
・埋葬主体部:不明
・出土品:円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・靫・人物・馬・犬・鶏)
・築造年代:5世紀中頃
・史跡の指定:国指定史跡
・備考:陪塚2基
い号(八王子塚)円墳(古墳では無い可能性有り)
ろ号(衣縫塚古墳)円墳 直径20m
は号(宮の南塚古墳)円墳 直径40m
従来5世紀後半に造られたと考えられてきたが、近年の円筒埴輪編年では、
5世紀中頃の築造であると推定され、允恭天皇陵である可能性が高いとされる。
古墳名の由来は、この地が昔から「市の山」と呼ばれていた事から。
内堤から外側の周辺が宅地化したことに伴って行われた発掘調査で、
内堤・外濠・外堤周辺から埋没古墳が幾つか検出されており、
円筒埴輪棺1基、石槨木棺墓2基、土壙墓5基が確認されている。
陪塚は地形図に3基が記載されてますが、
い号は最近の宅地開発工事に伴う調査により、
古墳では無い可能性が高いとされています。
従って現在宮内庁から陪塚として指定を受けているのは、
ろ号とは号の2基となりますが、地形図にはまだ「い号」が記載されているので、
紹介しておきます。
従って現在宮内庁から陪塚として指定を受けているのは、
ろ号とは号の2基となりますが、地形図にはまだ「い号」が記載されているので、
紹介しておきます。
・・・では、陪塚い号から。
西側が抉られた長方形状ですが、陵墓等一覧には「不整丘」と記載されています。
次は陪塚ろ号、は号を。。。
これも見易くするために、角度を変えて有ります(^^
右の「ろ号」が有る方が北になります。
「宮の南塚古墳」とも呼ばれます。
現在ろ号の前に公園が有る模様で、外からの見学は容易に出来る模様。
「は号」の現在の直径は40mですが、元は50m以上有った可能性も有るそうです。
「衣縫塚(いぬいづか)古墳」とも呼ばれます。
ストリートビューなどで見ると、隣接する民家よりも高い墳丘が確認できます。
「宮の南塚古墳」とも呼ばれます。
現在ろ号の前に公園が有る模様で、外からの見学は容易に出来る模様。
「は号」の現在の直径は40mですが、元は50m以上有った可能性も有るそうです。
「衣縫塚(いぬいづか)古墳」とも呼ばれます。
ストリートビューなどで見ると、隣接する民家よりも高い墳丘が確認できます。
・・・ただ、単独の円墳でこれほど高さが有るのは珍しいので、
ひょっとしたら、允恭天皇陵と同じく、
北に前方部を向けた前方後円墳だったかもしれないと思っています(^^
:允恭天皇恵我長野北陵:
・測量年:大正15年
・原図縮尺:1/1000
・所在地:大阪府藤井寺市国府1丁目
・面積:63768,84㎡(本地)
238,82㎡(陪塚い号)
174,7㎡(陪塚ろ号)
935,56㎡(陪塚は号)
・陵墓の形態:前方後円墳、濠
・備考:駐車スペース無し
い号は古墳では無い可能性有り(現在は指定解除)
・備考:駐車スペース無し
い号は古墳では無い可能性有り(現在は指定解除)