関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2015年10月

皆様こんにちは~(^◇^)

240陵墓目はコチラ。。。
イメージ 1
允恭天皇恵我長野北陵之圖
考古学的名称は、市野山(いちのやま)古墳と呼ばれています(^^
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陵墓墳丘拡大図。
見易い様に横向きで撮影しております(^^
前方部側が北、後円部側が南となります。
前方部から後円部の1段目テラス部分の所々に少々等高線の乱れが有る以外は、
比較的築造当時のままの模様。

考古学的見地は後で述べるとして、先ず允恭天皇について。。。
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允恭天皇想像図

〇允恭天皇
・御名:御朝津間稚子宿禰尊
    (オアサヅマワクゴノスクネノミコト)
・生没年:
生年不詳~允恭天皇42(453)年
・在位期間:允恭天皇元(412)年~允恭天皇42(453)年
・続柄:(父)仁徳天皇/(母)磐之姫命
・第19代天皇
・陵名:恵我長野北陵
・古墳名:市野山古墳
生年は不詳。履中・反正天皇の弟。
宋王朝と通交し、安東将軍・倭国王などの称号を与えられた。
また、臣下による姓氏の詐称が横行したため、
釜に手を入れて名のる氏姓に偽りが無いか判定する、
「盟神探湯(くがたち)」が行われたと伝えられている。
ちなみに、古代随一の美女として誉高い、
衣通姫(ソトオリノイラツメ)を妃としたことでも知られる。
在位年数42年、
享年不明
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制札
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拝所から見た陵墓正面。

それでは考古学的見地を。。。
▽市野山古墳
・墳形:前方後円墳 3段築成
・規模:全長227m 
    後円部径140m✖高さ22.3m 
    前方部幅160m✖高さ23.3m
・周濠:有り 二重
・埋葬主体部:不明
・出土品:円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・靫・人物・馬・犬・鶏)
・築造年代:5世紀中頃
・史跡の指定:国指定史跡
・備考:陪塚2基
    い号(八王子塚)円墳(古墳では無い可能性有り)
    ろ号(衣縫塚古墳)円墳 直径20m
    は号(宮の南塚古墳)円墳 直径40m

従来5世紀後半に造られたと考えられてきたが、
近年の円筒埴輪編年では、
5世紀中頃の築造であると推定され、允恭天皇陵である可能性が高い
とされる。
古墳名の由来は、この地が昔から「市の山」と呼ばれていた事から。
内堤から外側の周辺が宅地化したことに伴って行われた発掘調査で、
内堤・外濠・外堤周辺から埋没古墳が幾つか検出されており、
円筒埴輪棺1基、石槨木棺墓2基、土壙墓5基が確認されている。
陪塚は地形図に3基が記載されてますが、
い号は最近の宅地開発工事に伴う調査により、
古墳では無い可能性が高いとされています。
従って現在宮内庁から陪塚として指定を受けているのは、
ろ号とは号の2基となりますが、地形図にはまだ「い号」が記載されているので、
紹介しておきます。

・・・では、陪塚い号から。
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西側が抉られた長方形状ですが、陵墓等一覧には「不整丘」と記載されています。

次は陪塚ろ号は号を。。。
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これも見易くするために、角度を変えて有ります(^^
右の「ろ号」が有る方が北になります。
「宮の南塚古墳」とも呼ばれます。
現在ろ号の前に公園が有る模様で、外からの見学は容易に出来る模様。

「は号」の現在の直径は40mですが、元は50m以上有った可能性も有るそうです。
「衣縫塚(いぬいづか)古墳」とも呼ばれます。
ストリートビューなどで見ると、隣接する民家よりも高い墳丘が確認できます。
・・・ただ、単独の円墳でこれほど高さが有るのは珍しいので、
ひょっとしたら、允恭天皇陵と同じく、
北に前方部を向けた前方後円墳だったかもしれないと思っています(^^

:允恭天皇恵我長野北陵:
・測量年:大正15年
・原図縮尺:1/1000
・所在地:大阪府藤井寺市国府1丁目
・面積:63768,84㎡(本地)
    238,82㎡(陪塚い号)
    174,7㎡(陪塚ろ号)
    935,56㎡(陪塚は号)
・陵墓の形態:前方後円墳、濠
・備考:駐車スペース無し
    い号は古墳では無い可能性有り
(現在は指定解除)

皆様こんにちは~(^◇^)

239陵墓目はコチラ。。。
イメージ 1
開成墓之圖
上の地形図は参道まで含めた全体像と、
拝所を含めた墓所部分の拡大図が掲載されてます。
イメージ 2
墓所部分拡大。
中央の正方形に囲まれた部分が墓所です。
西側(拝所から見ると墓所の奥)に、何やら囲まれた部分が有りますが、
この部分に関しては何も情報等出て来ませんでした。
方形に囲まれた中に石材の様な記載が有るので、
おそらくは記念碑の様なものだと思われます。

〇開成皇子
・読み:カイジョウノミコ
・生没年:神亀元(724)年~天応元(782)年
・続柄:(父)光仁天皇
41歳で勝尾山に入り、善仲・善算の2僧の受戒を受けて出家した。
2僧が発願した大般若経写経を意志を受け継ぎ、
6年の歳月をかけて完成させたという。
その後、この経を奉納する道場を勝尾山中に開き、
弥勒寺(現在の勝尾寺)を開いた。
享年58歳
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拝所手前から見た墓所全景。
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制札と墓所。
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墓所内部の宝篋印塔
宝篋印塔自体は、2段の方形壇上に立てられてます(^^
イメージ 6
現地に設置されている説明板

:開成墓:
・測量年:大正15年
・原図縮尺:1/500
・所在地:大阪府箕面市大字粟生間谷 勝尾寺
・面積:2548,43㎡
・陵墓の形態:方形壇上に宝篋印塔
・備考:勝尾寺参拝者駐車場有り

皆様こんにちは~(^◇^)

それでは、継体天皇三嶋藍野陵の周辺に散らばる、
宮内庁管理8基と管理外1基について書いていきます(^^
まずは「い号」「ろ号」
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「い号」は右の平地部分です。
周辺の宅地造成化に伴い三角形状に変形してますが、
「ろ号」が三角形内に円丘が認められる事から、
「い号」も元は円丘だったと思われます。
ストリートビューなどで見れますが、墳丘の様な物は見られず、
域を囲むフェンスと標柱が見られるのみです。
宅地造成化に伴い墳丘も削平されてしまったか、
元々墳高が低い墳丘だったかの、どちらかだと思われます。
「い号」敷地面積=29,80㎡
「ろ号」敷地面積=39,05㎡
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「は号」地形図がコチラ。
太田神社社殿の直ぐ背後に有り、社殿建築の際に南側が削られてます。
2~3段築成で直径20~30m級の円墳だと思われます(^^
太田山古墳」または「宮裏古墳」の名称が知られてます。
「は号」の敷地面積=494,03㎡
イメージ 9
「に号」「ほ号」の地形図がコチラ。
どちらも八角形状に柵が設置されてますが、墳形は円墳です(^^
現在コチラは公園になっている模様。
古墳の周囲に見えるピンク色の樹木は、満開状態の桜ですね(^^
花見と古墳見学が同時に出来るなんて、良いですね~(^^
イメージ 12
「に号」全景
少し小高い位置に有る様で、墳丘の上半分しか見えません(^^;
イメージ 13
「ほ号」
等高線の本数から推測すると、隣接する「に号」よりも1m程高い模様。
「に号」の敷地面積=383,10㎡
「ほ号」の敷地面積=374,92㎡
イメージ 14
「へ号」「と号」の地形図がコチラ。
「へ号」も元々円墳だったと思われますが、現在は交差点の中央に位置する為に、
半月状に削られてます。
「と号」は公園敷地内に有る為、状態は良さそうです。
へ号の画像は検索しても出てきませんでした(^^;
と号は円墳だと思われてきましたが、管轄外の発掘を行った所、
前方後円墳だったことが判明しました。
「へ号」の敷地面積=64,50㎡
イメージ 20
「と号」
こちらは公園隅に有る為に見学し易いからか、幾つかの季節毎の画像が検索できますが、
その中で最も墳丘が見易い物を選んでみました。
背の高い墳丘がフェンスに囲まれて保存されてます(^^
遠くから見る限りでは保存状態は良さそうですね(^^
「と号」の敷地面積=212,35㎡
イメージ 21
「ち号」の地形図。
二子山古墳という名称が付いている事が、地形図集成の陵墓等一覧に記載されてます(^^
継体天皇陵に付属し、宮内庁が管理している陪塚では、唯一の前方後円墳です(^^
この古墳のみ継体天皇陵の後円部側から少し離れた、高速道路の直ぐ真下(真横)に有ります。
「ち号」の敷地面積=724,46㎡

この他に陵墓地形図集成の陵墓等一覧には、
「域内陪塚 1 円丘」の記載が見られ、
それらしい場所が本地(継体天皇陵)の拝所南端に見られますが、
敷地面積についての記載が無い上に、画像検索しても出てきませんでした(^^;

宮内庁管理の陪塚は以上です。
以下は管理外では有るものの、学界や研究者らから陪塚では無いかと言われている、
「太田茶臼山8号墳についてです(^^
イメージ 27
太田茶臼山8号墳
南東側からみた感じです。
祠が建てられている為に、前方部から後円部までが平坦になってますが、
道路面からの高さは2m以上有ります。
継体天皇陵の外堤調査や宅地造成工事に伴って行われた調査で、
幾つかの土壙墓や埴輪円筒棺などが出土していると、
継体天皇陵の紹介記事内で書きましたが、この8号墳もそうした中の1基だと思われます。

:継体天皇陵 陪塚群:
・墳形:円墳(宮内庁指定)8基、前方後円墳2基(指定外1基含む)
・規模:に号陪塚 直径21m✖高さ3m
    ほ号陪塚 直径19m✖高さ2m(造出し付き)
    へ号陪塚 南北長35m、東西長10m✖高さ2m
    と号陪塚 全長28m、後円部径18m✖高さ3m
    8号墳  南北長20m✖東西長14m(元は前方後円墳)
・周濠:有り(に号、ほ号)
・出土品:埴輪片(に号、ほ号、と号)

・備考:住宅地内に所在する為、駐車スペース無し

皆様こんにちは~(^◇^)

回より、いよいよ大阪府内の陵墓紹介へ参ります(^^
順次紹介していきますが、大阪府内の陵墓は、
規模が大きい場合が多い事に加えて、
陪塚の数も多いので、画像検索が結構大変でした(汗

・・・では、238陵墓目はコチラ。。。
イメージ 1
繼體天皇三嶋藍野陵之圖
旧漢字を探すのも一苦労ですが、「継体天皇」の陵墓となります(^^
イメージ 2
陵墓(墳丘)部分拡大。
全長200mを超える大型の前方後円墳で、くびれ部の両側に造出しが有ります。
また、宮内庁が管理する陪塚は8基と、陪塚では無いかと学界で考えられている、
太田茶臼山8号墳の9基が周囲に有ります。
今回は容量の関係で、陵墓本体のみの紹介にしまして、
陪塚は数が多いので、後程別記事扱いにて紹介致します(^^
イメージ 3
継体天皇肖像画

〇継体天皇
・御名:男大途王、彦太尊
・生没年:允恭天皇39(450)年~継体天皇25(531)年
・在位期間:継体天皇元(507)年~継体天皇25(531)年
・続柄:(父)彦主人王/(母)振姫
・第26代天皇
・陵墓名:三嶋藍野陵
近江国に生まれ越前国で育つ。
武烈天皇に子が無かった為即位する。
応神天皇の5代孫とされているが、都を転々とし
大和に磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)を造営するまでに、
20年もかかっていることから、武烈崩御後の動乱に乗じて、
皇位についた新王朝の開祖とみる説も有る。
晩年には磐井の乱が起こり、鎮圧に苦労した。
在位年数25年、82歳で崩御。
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制札
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拝所から見た全景。
大型の前方後円墳の為、拝所からでは大きな森にしか見えませんね(^^;

さて、この陵墓古墳ですが、コチラも治定替えが必要だとして、
学界や古墳ファンの間では有名ですね(^^
1986(昭和61)年に行った外堤調査で外堤上から埴輪列検出、
2002(平成14)年に行った墳丘本体の護岸工事に伴う調査で、
大量の円筒埴輪(8800点余)の他、形象埴輪(上記参照)、
須恵器片などが出土してます。
宮内庁管理区域外では大阪府教育委員会や茨木市教育委員会によって、
発掘調査が行われており、陪塚に使用されていたと見られる、
形象埴輪などが出土している。
また、陵の位置について、『古事記』には三島の藍の御陵とし、
『延喜式』には摂津国島上郡に有ると記載。
太田茶臼山古墳は茨木市の島下郡に当たる為、
島上郡に当たる現在の高槻市にある、今城塚古墳が真の陵墓と考えられている。
また、今城塚古墳が候補に挙がった理由として、
太田茶臼山古墳から出土した埴輪の特徴が5世紀中頃のものと推定されており、
考古学的にも527年~534年に没した継体天皇の陵では、
在り得ないという意見が研究者の大勢を占めている事。

太田茶臼山古墳の詳細を以下に
・古墳名:太田茶臼山古墳
・墳形:前方後円墳
・規模:墳丘長226m 
    後円部径138m✖高さ19.2m
    前方部長さ117m✖最大幅117m✖前方部高19.8m
・周濠:有り 幅約28~33m
・埋葬主体部:未調査の為不明(竪穴系想定)
・出土品:(1986~2002年までに宮内庁が行った調査)
     蓋形埴輪、家形埴輪、水鳥形埴輪、馬形埴輪、
     甲冑形埴輪、土師器高杯、須恵器短頸壺、
     朝顔形埴輪、円筒埴輪、
・築造年代:5世紀中頃
・史跡の指定:国指定史跡

そして現在、真の継体天皇陵である可能性が高い古墳は、
今城塚古墳であるとされています(^^
二重の周濠が巡る巨大な前方後円墳です(^^
史跡公園としての整備が進められてますね。
古墳名から分かる通り、近世の城郭が後円部に建設されたせいで、
埋葬主体部が跡形も無く破壊されたのは非常に残念ですが、
それでも多数出土した埴輪片などから、コチラの方が、
真の継体天皇陵であると思わせる年代に築造された事が、
考えられています。

今城塚古墳の詳細を。
▽今城塚古墳
・墳形:前方後円墳
・規模:全長190m 
    元の高さは築城により大幅に削られている為不明
・周濠:有り 二重
・埋葬主体部:築城の際破壊(横穴式石室の痕跡検出)
・出土品:家形埴輪、武人埴輪など
・築造年代:6世紀前半
・史跡の指定:国指定史跡
摂津北部、三島平野の中央部に位置し、古墳時代後期の、
6世紀前半に築造された前方後円墳。
二重の濠が巡っており、内濠・外濠を含めた兆域は、
340m✖350mの釣鐘状の区画を呈している。
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴の他、
『古事記』『日本書記』『延喜式』など文献史料の検討から、
6世紀の大和政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した、
継体天皇とするのが学界の定説になっている。
また埴輪工房跡と目される生産遺跡、新池遺跡との深い関連が指摘されている。
戦前の1935~1944年に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、
この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われたが、
宮内庁は太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定し、
現在も今城塚古墳関連については難色を示している。
学界は今城塚古墳を推してますが、
宮内庁は頑なに治定替えと今城塚古墳の陵墓参考地指定を、
拒否してますね~。。。(^^;
今後どのような決着になるか楽しみな古墳達です(^^

:繼體天皇三嶋藍野陵:
・測量年:大正15年
・原図縮尺:1/500
・所在地:大阪府茨木市太田3丁目
・面積:59253㎡
・陵墓の形態:前方後円墳、周濠
・備考:陪塚8基&指定外1基有り
    拝所前に見学者用駐車場有り

皆様おはようございま~す(^◇^)

今回紹介する陵墓で、京都府の陵墓は終了です(^^
次回記事からは、大型前方後円墳がひしめきあう、
大阪府の陵墓群を紹介していきます

・・・では、237陵墓目はコチラ。。。
イメージ 1
覺行親王墓之圖
イメージ 2
墓部分拡大。
南北に2基の宝篋印塔が有りますが、南側の方が墓塔で北側は供養塔と思われます(^^

〇覺行親王
・読み:カクギョウシンノウ
・生没年:承保2(1075)年~長治2(1105)年
・続柄:(父)白河天皇
白河天皇の皇子として生まれ、8歳で仁和寺に入り、
2年後に性真親王の元で受戒・出家した。
性真親王薨去後に仁和寺寺務に就き、以後は円宗寺検校、
法勝寺検校等を歴任した。
24歳で親王宣下を受け、
史上初の法親王(出家後に親王宣下を受けた皇族)となった。
父白河上皇からの寵愛が厚く、数々の褒賞を受けたが、
親王はそれらを仁和寺の僧侶に譲って昇進を助けた。
その後白河上皇と覚行親王の関係以後、治天の君が仁和寺を保護し、
その皇子が仁和寺に入るという慣例が出来た。
享年30歳
イメージ 3
制札
イメージ 4
拝所(墓所正面)から見た感じ。
イメージ 5
内部の様子。
天皇直系皇子の墓所にしては、質素な印象を受けますね(^^;

:覺行親王墓:
・測量年:昭和3年
・原図縮尺:1/250
・所在地:京都府南丹市園部町船阪大門 九品寺内
・面積:523㎡
・陵墓の形態:宝篋印塔
・備考:駐車スペース無し

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