関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2015年07月

皆様こんばんは~(^◇^)

134陵墓目はコチラ。。。
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光厳天皇髪塔之圖
見出しは「光厳天皇分骨所」となってますが、後頁の「陵墓等所在一覧」には、
光厳天皇髪塔」と記載されてますので、この見出しは誤りだと思われます。

※ちなみに、分骨所の正しい位置は、
 大阪府河内長野市天野町の金剛寺の境内です(^^
 京都府内の陵墓が終わったら、次は大阪府の陵墓に移るので、
 その時に詳しく紹介する予定です(^^
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髪塔部分拡大図。
2段築成の円丘上に五輪塔が建てられているそうです。
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駒札と髪塔全景。
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髪塔拡大。
2段築成の円丘と記載されてますが、円丘自体の高さはさほど無い様に見えます。
また五輪塔もサイズが小さいのか、樹木の陰に隠れてしまっているのか、
画像では五輪塔の姿は確認できませんでした。。。

:光厳天皇髪塔:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/100
・所在地:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺北造路町
・面積:229㎡
・陵墓の形態:円丘上に五輪塔
・備考:髪塔

皆様おはようございま~す(^◇^)

132、133陵墓目はコチラ。。。
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後嵯峨天皇嵯峨南陵
亀山天皇亀山陵之圖
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陵墓部分拡大。
親子の陵墓(方形堂)が東西に並んでます。

〇後嵯峨天皇
・生没年:承久2(1220)年~文永9(1272)年
・在位期間:仁治3(1242)年~寛元4(1246)年
・続柄:(父)土御門天皇
・第88代天皇
土御門天皇の皇子として生まれる。
父である土御門天皇は承久の乱には関わって無かったが、
自ら望んで配流となっていたため、皇位継承の可能性は低かった。
しかし後堀河天皇の皇子の四条天皇が子女無く崩御したため天皇に即位した。
即位4年目にして皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し院政を始めた。
しかし後深草天皇のよりも弟の恒仁親王(亀山天皇)を寵愛しており、
結果的に後深草天皇を病気を理由に譲位させ、
亀山天皇を即位させている。
さらに亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子にしたことで、
後深草天皇との関係が悪化し、このことがきっかけで、
持明院統と大覚寺統との対立、更に南北朝の対立へと、
進んでいくことになってしまった。
在位期間4年。宝算52歳。
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後嵯峨天皇肖像画。
今風の言い方をすると、「イケメン」ですね(^^
天皇と言うと威厳や風格を感じさせる方が多いイメージですが、
端整な顔立ちの方も結構居たのですね~(^^

〇亀山天皇
・生没年:建長元(1249)年~嘉元3(1305)年
・在位期間:正元元(1259)年~文応11(1274)年
・続柄:(父)後嵯峨天皇
・第90代天皇
後嵯峨天皇の皇子として生まれ、10歳で立太子している。
在位中に2度にわたる、元寇の乱(文永の役、弘安の役)が起きている。
朝廷はこのとき、亀山天皇、皇子の後宇多天皇を中心に、
敵国降伏の祈願を行い、そのことが神風を発生させ連合軍を撃退させたとされた。
即位15年目にして皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、院政を始めた。
在位期間15年。宝算57歳。
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亀山天皇肖像画。
少々ふくよかな体型っぽく見えますが、父帝の後嵯峨天皇の雰囲気は感じられますね(^^
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制札
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陵墓全景。
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亀山天皇の陵墓正面。
この陵域に行く為には一般立入禁止と書かれた山門をくぐる必要が有りますが、
参道脇の寺院事務所に申し出た上で見学する様にして下さい(^^
寺院の拝観料は必要ですが、陵墓の見学は無料です

:後嵯峨天皇嵯峨南陵・亀山天皇亀山陵:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 天龍寺内
・面積:1396㎡
・陵墓の形態:方形堂

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