関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2014年11月

皆様こんばんは~(^◇^)
 
25陵墓目となる陵墓はコチラ。。。 
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宗良親王墓之圖 
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陵墓部分拡大。
方形の敷地内に、小さな方形区画が有り、その中に宝篋印塔が建てられてます。
 
〇宗良親王
「むねよししんのう/むねながしんのう」
・生没年:応長元(1311)年~元中/至徳2(1385)年
・後醍醐天皇皇子
歌道の家であった二条家出身の母から生まれた事により、
幼い頃から和歌に親しんでいた。
1330年元弘の変により捕えられ讃岐国に流罪となる。
建武の新政が崩壊し南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、
大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍するようになる。
1374年頃から私的なものとして、
南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始したが、
長慶天皇に命じられ1381年に「新葉和歌集」を完成させる。
宮内庁管理の墓が静岡県浜松市に有るが、
長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔
の他、
岐阜県中津川市にも墓
が有る。
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制札
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陵墓全景。
拝所から墓所までの道がほぼ直角に曲がってるせいで、
拝所からは墓所の姿が見えない様です。 
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墓所部分。
この写真が撮れるということは、拝所から先に入れるという事でしょうか?(^^;
 
:宗良親王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 井伊谷宮内
・陵墓の形態:宝篋印塔
・面積:2020㎡
・父:後醍醐天皇

皆様こんばんは~(^◇^)
 
24陵墓目となる陵墓はこちら。。。
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八坂入彦命墓之圖 
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陵墓部分拡大。
長方形の石柵の中に陵墓が営まれてます。
見た目は円丘っぽいですが、方形(方墳)だそうで、
地形図集成にも「方形」と記載されてます。
墳頂部に南東方向に向かって開く窪みの様な物が確認できますが、盗掘口の跡でしょうか?
 
〇八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)
・生没年不詳
・崇神天皇皇子
親子三代にわたって尾張・三河を開拓した豪族。
『古事記』では八坂之入日子命と表記されている。

美濃国を開拓して長きにわたって統治したことが、
日本書紀や古事記に記載されているのみで、目立った事績が無い人物です(^^;
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制札
雨ざらしのせいか、板の表面がボロボロですね。。。 
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陵墓全景。
鳥居の奥に薄っすらと低い墳丘が見えます。
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陵墓の内部。
平坦に見えますが、高さは1m弱程度の様。
この画像では地形図で見られる窪みの様な物は見えません。
考古学的名称は大萱古墳
付近には景行天皇の泳宮(くくりのみや)伝承地が有るくらい、
開発が早く歴史が長い土地の様です。
ちなみにこの陵墓が有る付近の地名は久々利(くくり)
 
:八坂入彦命墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/200
・所在地:岐阜県可児市久々利
・陵墓の形態:方形
・面積:796㎡
・続柄:(父)崇神天皇
・考古学的名称:大萱古墳

皆様こんにちは~(^◇^)
 
23陵墓目となる陵墓はコチラ。。。 
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日子坐命墓之圖
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陵墓部分拡大。
 
〇日子坐命/彦坐王(ひこいますのみこと/ひこいますのおう)
・生没年不詳
『日本書記』では彦坐王、『古事記』では日子坐王、
他文献では「彦坐命」「彦今簀命」と表記される。
開化天皇の第3皇子で、景行天皇の曾祖父。
墓は岐阜県岐阜市岩田西に治定されている。
公式形式は自然石。
※開化天皇は実在しない天皇(欠史八代)とされている為、
 日子坐命も架空の人物と考えられている。
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制札
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陵墓全景
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陵墓となっている自然石。
斜面に突き出た石室の天井石等と記載している、ブログを何処かで見た事が有りますが、
・竪穴式石室の天井石にしては形状・厚みが不自然
・人物の年代から推測して横穴式石室は考えられない
・創造性が高い(非実在)とされる人物の皇子
・地形図集成にも「自然石」と表記されている
・・・などの点から、石室の天井石などでは無いし、地形図に記載されている等高線にも、
人工的な乱れは見えないので、高塚式や山寄せ式の古墳でも無いという事が分かると思います。
 陵墓として治定する前は、神社のご神体(磐座)だったのでは?
・・・・・と、私は考えております。
 
:日子坐命墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:岐阜県岐阜市岩田
・陵墓の形態:自然石
・面積:3253㎡
・続柄:(父)開化天皇
・備考:墳墓では無く自然石(元は磐座か)

皆様こんばんは~(^◇^)
 
22陵墓目となる陵墓はコチラ。。。
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尹良親王墓之圖
長野県下伊那郡にある浪合神社に隣接する地に有る、
方丘と「千人塚」と呼ばれる塚3基が、一括して宮内庁により管理されています。 
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親王墓拡大。
 
〇尹良親王(ゆきよししんのう/これなが/ただなが)
・生没年:正平19/貞治3(1364年)~応永31(1424年)
・後醍醐天皇皇孫 (父)宗良親王
「浪合記」「信濃宮伝」などの軍記に見られる南朝の皇族。
それらによれば、父親王の討幕の意志を継いで東国各地を転戦したと伝えられ、
1424年敗戦し自害したとされる人物だが、
その内容の信憑性が極めて乏しい為、歴史学の立場からは、
実在性を疑問視する意見が多い。
陵墓は浪合神社に隣接する地に、親王の首を埋めたとされる円丘と、
側近3名を葬ったとされる塚3基を倍塚として、
宮内庁の管理下にある。
尚、倍塚は「千人塚」と呼ばれている。
 
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制札
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陵墓全景
天皇陵・皇族陵に見られる様な鳥居は無く、石製柵と金属製の門扉が有るのみ。
 
以下は倍塚指定されている3基について。
倍塚は「千人塚」と呼ばれる、い号・ろ号・は号の3基が有り、
親王墓とそれほど離れていない場所に有ります。
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倍塚い号の地形図。
五角形の生垣無いに円丘が見えます。
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倍塚い号全景
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ろ号倍塚の地形図。
こちらは長方形の生垣内に楕円丘で等高線を見る限りでは、さほど墳高が無い様に思います。
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ろ号倍塚の様子。
高さ1.5~2m程の高さで2基の石塔が見えます。
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倍塚は号の地形図。
コチラは方形の生垣内に、石塔が有る様です。 
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倍塚は号の様子。
石垣が組まれた上に2基の石塔が見えます。
 
:尹良親王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:長野県下伊那郡阿智村浪合
・陵墓の形態:(親王墓)方丘
       (倍塚い号)円塚上に石碑2
       (倍塚ろ号)円塚上に石碑2
       (倍塚は号)石垣上に石碑2
・面積:(親王墓)2516㎡  
    (倍塚い号 千人塚)202㎡
    (倍塚ろ号 千人塚)41㎡
    (倍塚は号 千人塚)94㎡
・続柄:(祖父)後醍醐天皇
    (父)宗良親王

皆様こんばんは~(^◇^)
 
21陵墓目の陵墓はコチラ。。。
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智忠親王妃富子墓之圖
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陵墓部分拡大
地形図からも分かる様に、3段築成の方丘となってます。
 
〇前田富子
・智忠親王妃富子
・生没年:元和7(1621)年~寛文2(1662)年
・続柄:(父)前田利家
富姫(ふうひめ)とも呼ばれる。
利常の第4女として金沢城に生まれ、
22歳で叔母の東福門院(後水尾天皇皇后和子)の養子を経て、
八条宮(後の桂宮)智忠親王に嫁ぐ。
享年41歳。
遺言で「遺体を実家の墓地に葬ってほしい」と残したので、
前田家墓地に葬られている。
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陵墓全景。
他の陵墓と同じく鳥居は有りますが、制札は有りません。
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陵墓墳丘と埋葬者を示す石柱。
地形図には3段築成となってますが、写真で見る限りでは、下草が繁茂してるせいで、
段無しの方丘に見えますね(^^;
 
:智忠親王妃富子墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/100
・所在地:石川県金沢市野田町野田山 前田家墓地内
・陵墓の形態:方丘
・面積:238㎡
・父:前田利家

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