関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2014年11月

皆様こんにちは~(^◇^)
 
30陵墓目はコチラ。。。
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宇治山田陵墓参考地之圖
伊勢市にある伊勢神宮からほど近い所に有る、
陵墓参考地で該当御方を倭姫命とする陵墓です。
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『事典 陵墓参考地』や『陵墓要覧』にも、
「現況:崩壊シタル円丘」との記述がある通り、
一見するとどこが該当墳丘なのか分かりませんが、
拝所へ至る道筋の、石材が並べられた部分に近接する、
この高さ1.5~2m前後のこの人工丘が該当部分だと思われます。
 
〇宇治山田陵墓参考地
・候補者:倭姫命(垂仁天皇皇女)
・等級:二級
・形状:円墳
・所在地:三重県伊勢市倭町
 
☆事典 陵墓参考地
・該当御方:垂仁天皇皇女倭姫『命』
・所在地:三重県宇治山田市倭町
・墳形:円丘
・地況:崩壊シタル円墳
・考証意見:第二類
・備考:『波多野氏調査報告 
     横穴式石室の退化した石室 
     古墳時代後期の前半とする』
 
 
〇倭姫命(ヤマトヒメ)
・生没年不詳
・続柄:(父)垂仁天皇 (母)皇后日葉酢媛命
垂仁天皇の第四皇女として生まれ、豊鍬入姫命(崇神天皇皇女)の、
跡を継いで天照大神の祭祀を執り行った。
始め皇女は都のある大和国内で大神を祀っていたが、
大神の神託により伊勢へ遷御することとなり、
伊賀・美濃等を経て最終的に伊勢にて大神を祀った。
ちなみにこれが伊勢神宮の始まりと言われている。
伊勢に移ってからは甥孫の日本武尊の東征の際に、天叢雲剣を授けている。
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制札と陵墓近景。
金属製扉の奥、左側に見える石材列の、左側の茂みが該当墳丘の一部だと思われますが、
現状では鬱蒼として判然としない様です。
 
考証意見は第二類(第一類に次ぐもので陵墓の疑いを否定し難いもの)で、
誰かは特定できないけれど陵墓である事は確実とされてますが、
「確定」では無いのが微妙な所ですね。。。(^^;
 
板石を積んだ横穴式石室が過去に検出されてる様なので、
考古学的見地からは倭姫の時代とは合致しないと思われます。
今後宮内庁による詳しい調査を待ちたいです。
 
:宇治山田陵墓参考地:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:三重県伊勢市倭町
・陵墓の形態:円丘
・面積:1637㎡
・該当御方:垂仁天皇皇女 倭姫命
・考証意見:第二類
・備考:崩壊した円墳で板石積横穴式石室埋蔵の伝承有り

皆様こんばんは~(^◇^)
 
29陵墓目を紹介しま~す(^^
今回は陪塚を多く伴う陵墓なので、写真もいつもよりも多めです(^^; 
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日本武尊能褒野墓之圖
有名なヤマトタケルの陵墓とされている、
全長90m✖高さ9mの前方後円墳で、空の濠を巡らせてます。
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陵墓部分拡大。
後円部頂部と前方部頂部にそれぞれ土壇が確認できますが、
埋葬主体部が複数存在する可能性が高いと思われます。
 
また多くの陪塚を伴うと書きましたが、
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陵域内に10基(不整丘2基 に号のみ方墳 後は全て円墳)と、
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陵域外に5基存在します。
 
〇日本武尊
・読み:ヤマトタケル/ヤマトタケルノミコト
・生没年:景行天皇2年~43年
・続柄:(父)景行天皇
『日本書記』では日本武尊、『古事記』では倭建命と書く。
景行天皇の第2皇子(『古事記』では第3皇子)

:逸話:
☆『古事記』
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、
小碓命(ヤマトタケル)は素手で兄をつまみ殺してしまう。
そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州の熊襲健兄弟の討伐を命じられる。
わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた、
伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼はいまだ少年の髪型を結う年頃だった。
九州に入った小碓命は、熊襲健の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、
宴たけなわの頃にまず兄健を斬り、続いて弟健に刃を突き立てた。
誅伐された弟健は死に臨み、その武勇を嘆賞し、
自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って、
倭健(ヤマトタケル)の号を献じた。

☆『日本書記』
兄殺しの話は無く、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、
16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場も無く
従者も従えられている。
熊襲の首長が川上梟帥(タケル)一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも、
天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。
ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。

☆『先代旧事本紀』
景行天皇二十年冬十月 遣日本武尊 令撃熊襲 時年十六歳 按日本紀
富作二十七年 とあるのみ。

以上簡潔に日本武尊について記述しましたが、
更に詳しく知りたい方はWikiを参照して下さい(^^ 
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制札 
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現地に設置されている説明板。
考古学的呼称は王塚古墳です(^^
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陵墓全景。
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拝所付近
 
以下は陪塚の画像を。。。
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高さが1m~3m程✖直径10~20m程の物(方墳のに号を除く)まで、
15基の陪塚を伴います。
王塚古墳を主墳とした古墳時代前期の古墳群であると思われますが、
如何でしょうか?(^^;
 
:日本武尊能褒野墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/400
・所在地:三重県亀山市田村町
・陵墓の形態:前方後円墳
・規模:全長90m 後円部径54m✖高さ9m
          前方部幅40m✖高さ6.5m
・考古学的呼称:王塚古墳(市指定史跡)
・面積:19337㎡
・続柄:(父)景行天皇
・備考:15基(域内10基、域外5基)を伴う
    古墳時代前期~中期頃の古墳群か?

皆様こんにちは~(^◇^)
 
28陵墓目を紹介します。
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大碓命墓之圖
陵墓とそれに関係する土地の広さが1万㎡を超える、大きな敷地を持つ陵墓です。
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陵墓部分拡大
最初この陵墓の形状を見て「方墳」かな?と思いましたが、
「円丘」と記載されてました(^^;
地形図を見た感じでは、山の頂上を整えて塀で囲った様に見えます。
 
〇大碓命/大碓皇子
・読み:おおうすのみこ
・生没年:72年頃~没年未詳
・続柄:(父)景行天皇
『古事記』によれば、大碓は小碓に殺されたとされるが、
『日本書記』では、景行天皇40年、蝦夷征伐の命を恐れて逃亡し、
美濃国に封ぜられたという。
愛知県豊田市猿投町の猿投神社は大碓命を主祭神とし、
西宮後方にはその墓が伝えられる。
尚、同社の伝承によれば、大碓命は美濃に封じられて後、
当地方の開拓に尽くしたが、景行天皇52年、
猿投山に登る途中で蛇毒のために42歳で薨去した。
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制札 
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陵墓全景
通常の石柵囲いでは無く、何故か堅固な石塀で囲ってある様ですが、
山の斜面に営まれてる陵墓なので、風雨被害等の土砂流出入を防ぐ為だと思われます。 
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内部の墳丘
地形図に書かれている等高線の数から推測して、高さは3m前後と推測されます。
 
:大碓命墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:愛知県豊田市猿投町鷲取 猿投神社内
・陵墓の形態:円丘
・面積:12235㎡
・続柄:(父)景行天皇

皆様こんばんは~(^◇^)
 
27陵墓目はこちら。。。
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五十狭城入彦皇子墓之圖
 
〇五十狭城入彦皇子/五十狭城入彦命
・読み:いさきいりひこのみこ
・生没年不詳
景行天皇の10番目の皇子とされる人物だが、
『古事記』や『日本書記』には事績に関する記載は無い。

墓の考古学名は和志山(わしやま)古墳
全長60mの前方後円墳で、築造年代は古墳時代中期前葉と推定。
周囲に有る7基の古墳の内、5基が陪塚とみられる。

近くに有る和志取神社は五十狭城入彦を祭神として祀る。
前方後方墳状に囲まれてますが、
内部は全長60m✖後円部径32m✖高さ8mの前方後円墳です(^^
地形図の後円部南側の等高線の乱れと、後円部墳頂部の広さや前方部の等高線の乱れから、
以前は後円部頂部に隣接する寺社の建造物が有り、
また寺社建築により、後円部南側斜面が一部崩されたものと自分では推測してます。
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制札 
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陵墓入口
市街地に有りますが、少し小高い場所に有る様です。
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陵墓拝所。
Wikiには周囲に7基の古墳が有るとの事だったので、
探してみましたが、2基しか見つかりませんでした(^^;
 
1基目
 陵墓に最も近い古墳です。
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やや長方形状の墳丘ですが、周囲をコンクリートで囲まれてる辺り、
元々は円墳で、もう少し大きかったのでは?と思います。
 
(多分)2基目
古墳かどうか怪しいですが、道路よりも高さが有ったので。。。
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高さは3~4mといった所でしょうか?
大きさは直径20m以上有りそうです(^^
別角度から見ると、墳丘上に小さな祠が建ってました。
 
:五十狭城入彦皇子墓:
・測量年:昭和45年
・原図縮尺:1/250
・所在地:愛知県岡崎市西本郷町字和志山
・陵墓の形態:前方後円墳
       全長60m✖後円部径32m✖高さ8m
・面積:3223㎡
・続柄:(父)景行天皇
・考古学的名称:和志山(わしやま)古墳
・推定築造年代:古墳時代中期前葉
・備考:陪塚7基存在

皆様こんにちは~(^◇^)
 
26陵墓目はこちら。。。 
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元選墓之圖
 
〇元選王
・生没年:元享3(1323)年~元中7(1390)年
・父:後醍醐天皇
17歳で建仁寺で出家。後に元に渡り各地を巡業。
禅宗教化の為に日本に帰国後、方広寺を開創。
享年67歳
墓は方形堂の内部に無縫塔。
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墓がある場所は立ち入り禁止の様で、
検索を掛けても、遠くから撮影したと思われる写真が多かったです。
地形図集成を見ると、方形堂の中に無縫塔が建立されている様です。
尚、墓所があるお堂の奥には、後醍醐天皇の皇子である事を示す石碑が建てられてるそうです。
 
:元選王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/100
・所在地:静岡県浜松市北区引佐町奥山 方広寺内
・陵墓の形態:方形堂内無縫塔
・面積:378㎡
・続柄:(父)後醍醐天皇

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