関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2014年11月

皆様おはようございま~す(^◇^)
 
34陵墓目はコチラ。。。
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永悟親王墓之圖
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陵墓部分拡大。
前回の道寛親王墓同様、方形柵に囲まれた中に無縫塔が建てられてます。
後程掲載しますが、道寛親王墓や弘文天皇陵から、ほど近い場所に営まれてます。
 
〇永悟親王
・読み:エイゴシンノウ
・生没年:万治2(1659)年~延宝4(1676)年
・続柄:(父)後西天皇
10歳で親王宣下を受け、同年の内に円満院にて出家。
円満院門跡を継承し、園城寺長吏等を務めた。
享年17歳。
 
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制札と陵墓全景。
石柵や石垣では無く、簡素な囲いと門扉が設置されてます。
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門扉の奥に有る陵墓(無縫塔)と被葬者を示す石柱。
 
:永悟親王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/100
・所在地:滋賀県大津市園城寺町 三井寺北院
     円満院墓地
・陵墓の形態:無縫塔
・面積:366㎡
・続柄:(父)後西天皇

皆様こんにちは~(^◇^)
 
33陵墓目はコチラ。。。 
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道寛親王墓之圖 
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陵墓部分拡大。
方形に区画された中に、無縫塔が有ります。
 
〇道寛親王
・読み:どうかんしんのう
・生没年:正保4(1647)年~延宝4(1676)年
・俗名:嘉遐親王
・続柄:(父)後水尾天皇
9歳で親王宣下を受け、翌年に聖護院門跡の道晃親王の受戒を受けて出家。
19歳で一身阿闍梨となり園城寺長吏を務めた。
享年30歳
 
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陵墓全景。
門扉の脇に小さめな制札が建てられてます。
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墓石拡大。
僧侶に多く見られるタイプ(無縫塔)の墓石。
 
:道寛親王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/100
・所在地:滋賀県大津市園城寺町 三井寺中院
     聖護院宮墓地
・陵墓の形態:無縫塔
・面積:41㎡
・続柄:(父)後水尾天皇

皆様こんばんは~(^◇^)
 
32陵墓目は、地形図集成で一番早い登場の天皇陵となる、こちらの陵墓です(^^
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弘文天皇長等山前陵之圖
天皇陵というからには初代である、神武天皇陵からだと思ってましたが、
地形図集成では、近畿以外の県にある、弘文天皇の陵墓からとなってます。
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陵墓部分拡大。
墳丘の周囲に円形の空堀を巡らせる、形の整った直径20m✖4m程の円丘です。
考古学名は園城寺亀丘古墳と呼ばれてます(^^
 
「亀」という字が付く古墳は、全国的に見られますが、亀の甲羅の様に、
やや楕円形状を呈する事から呼ばれる様になったのだと推測されます。 
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ネットで検索掛けたら出てきた、弘文天皇と思われる肖像画。
大化の改新の時代に生きた人物なので、完全に想像上の顔だと思いますが(^^;
 
〇弘文天皇
・生没年:大化4(648)年~天武天皇元年(672)年
・即位前の表記:大友皇子
・続柄:(父)天智天皇
天皇後継者として統治したが壬申の乱において、
叔父・大海人皇子に敗北し自害する。
陵墓は滋賀県大津市御陵町にある、
長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。
公式形式は円丘。考古学名は園城寺亀丘古墳。
天智天皇10年の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による、
敗死までの治世が約半年と短かった為と、
即位に関連する儀式を行う事が出来なかったという理由から、
長らく歴代天皇とみなされていなかったが、
明治3年になって弘文天皇と追号された。
 
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制札
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陵墓近景(拝所付近)。
鳥居の奥に背の高い生垣が有って、内部の様子が見れない様になってます。
宮内庁に言わせれば「静謐であり侵すべからず」なので、
目隠し的な意味合いも有るかと思われますが、せめて拝所の外からだけでも、
墳丘の姿を拝ませて貰いたいと思うのですが。。。
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生垣越しに撮影したであろう、内部にある墳丘の写真画像。
杉や松等の太い幹の間に、こんもりとした墳丘の姿が見えますね(^^
 
:弘文天皇 長等山前陵:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:滋賀県大津市御陵町
・陵墓の形態:円丘
・面積:11121㎡
・考古学的名称:園城寺亀丘古墳(市指定史跡)
・続柄:(父)天智天皇

皆様こんばんは~(^◇^)
 
31陵墓目はコチラ。。。
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隆子女王墓之圖
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陵墓部分拡大。
陵墓を取り囲む生垣は八角形状ですが、陵墓自体は円丘です(^^
高さは等高線の数から推測して、4m(一番下は土壇or空堀でしょうか?)程だと思われます。
 
〇隆子女王(斎宮)
・読み:たかこじょおう
・生没年:生年不詳~天延2(974年)
・続柄:醍醐天皇皇孫
円融天皇の斎宮として安和2年にト定される。
天禄元年に主水司へ初斎院入りするが、同年野宮に遷る。
天禄2年に伊勢へ群行。3年後の天延2年に、
当時流行していた疱瘡の為斎宮寮にて薨去。
飛鳥時代以降、伊勢で在任中に薨じた最初の斎宮。
現在宮内庁により治定されている陵墓の近くに斎宮跡が有る。
 
※斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)
古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所であるが、
平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王の事も指した。
斎宮の起こりは『日本書記』崇神天皇紀によれば、
崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた、
天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に、
正式に制度として確立し、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、
南北朝時代まで続く制度となった。

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制札
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参道から見た陵墓の様子。
祖父にあたる醍醐天皇の陵墓も参道が長いですが、それに倣ったのでしょうか?
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陵墓全景。
 
:隆子女王墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:三重県多気郡明和町大字馬之上
・陵墓の形態:円丘
・面積:1517㎡
・続柄:(祖父)醍醐天皇

皆様こんにちは~(^◇^)
 
31陵墓目はコチラ。。。
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息速別命墓之圖
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陵墓部分拡大。
最初見たときは方丘かと思いましたが、陵墓地形図集成には墳形が不明瞭な事である、
「山形」と記載されてます。
 
〇息速別命
・読み:いきはやわけのみこと
・生没年不詳
・続柄:(父)垂仁天皇
垂仁天皇の第11皇子。
表記が文書によって4種有り、
・『古事記』伊許婆夜和気命(いこばやわけ)
・『日本書記』池速別命(いけはやわけ)
・『日本三代実録』息速別命(いきはやわけ)
・『続日本紀』息速別皇子(いきはやわけ)
『古事記』『日本書記』には事績に関する記載は無い。
『新撰姓氏録』によれば、幼少の時に父天皇により伊賀国阿保村(あお)、
現・三重県伊賀市阿保周辺に命のための宮室が築かれ、
同村を封邑として授けられたという。
墓は公式形式は山形。考古学名は「西法華寺古墳」で、約35mの方墳とされる。
明治9年に宮内庁により公式墓に治定され、
現在は「阿保(あお)親王墓」とも通称される。
伊賀一帯で唯一円筒埴輪を伴う古墳として知られており、
築造年代は古墳時代後期初めの6世紀初期前後と推定されている。
 
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制札
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陵墓全景。
田園地帯にポツンとあるので、結構目立つ&見つけ易そうだと思いました(^^ 
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拝所付近。
天皇・皇后陵と違って、鳥居の前に拝所と鉄扉が無いタイプなので、
見学はし易いと思います(^^

:息速別命墓:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/300
・所在地:三重県伊賀市阿保
・面積:2695㎡
・陵墓の形態:山形(地形図集成記載)
・考古学的名称:西法華寺古墳(市指定史跡)
・墳丘の形状:方墳
・規模:一辺35m
・出土品:円筒埴輪
・築造年代:6世紀初期前後
・続柄:(父)垂仁天皇
・備考:古墳の築造年代と治定されている人物の年代が合わない上、
    垂仁天皇も実在性が疑われる人物の為、豪族の墓とされている

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