関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2014年10月

皆様こんばんは~(^◇^)
 
11陵墓目となる陵墓はコチラ~。。。
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順徳天皇火葬塚之圖
佐渡にある、宮内庁管理の火葬塚です。
真野(まの)という町にある事から、「真野御陵」と呼ばれてます。
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塚部分を拡大撮影してみましたが、
右下に有る小さな方形区画は何でしょう?
何か書いてあるのですが、小さすぎて解読できませんでした(^^;
また、火葬塚は図面では方形墳に見えますが、地形図集成には「円丘」と記載されてます。
円丘の裾部分を石材で四角く囲ってあるのかもしれませんね。
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塚の現在の様子。
塚へと続く道は白砂利が敷かれて、手入れもきちんと管理されてる模様。
 
順徳天皇につきましては、後日順徳天皇陵を紹介する時に記載しようと思いますが、 
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ネット検索で出てきた順徳天皇の肖像画と、
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現地(火葬塚付近)に設置されているという、説明板を掲載しておきます。
 
:順徳天皇火葬塚:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:新潟県佐渡市真野字林
・陵墓の形状:円丘
・面積:8218㎡
・備考:火葬塚

皆様おはようございま~す(^◇^)
 
10陵墓目となる陵墓はコチラ。。。
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護良親王墓之圖
前回は用堂女王墓を掲載しましたが、その兄に当たる護良親王の墓となります。
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墓所全域の拡大がコチラ。
鶴岡八幡宮から少し離れた独立丘陵上に営まれてます。
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御在所付近の拡大図も同じページに掲載されてます。
 
〇護良親王
・読み:もりよししんのう/もりながしんのう
・大塔宮(だいとうのみや/おおとうのみや)
・後醍醐天皇皇子
・生没年:延慶元(1308)年~建武2(1335)年
6歳の頃、尊雲法親王として天台宗三門跡の一つである。
梶井門跡三千院に入る。
大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に、
門室を置いたとみられることから。
1331年後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である、
元弘の乱を起こすと、還俗して参戦した。
以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐・村上義光らとともに、
十津川・吉野・高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、
京都の六波羅探題を滅ぼした。
1334年皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた、
名和長年・結城親光らに捕えられた上、足利方に身柄を預けられて、
鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府の監視下に置かれ、
二階堂ガ谷の東光寺に幽閉された。
翌1335年北条時行の中先代の乱が起きると、時行に奉じられる事を警戒した、
北条直義の命を受けた淵辺義博に殺害された。
現在鎌倉宮敷地内で見学できる土牢は復元されたもの。
また、現在の横浜市戸塚区柏尾町には、殺害された親王の御首を、
側女が密かに持ち出し洗い清め奉じたとされる、首洗い井戸が有り、
近隣にはその御首を地下に葬ったと伝えられる王子神社が有る。
さらに、山梨県都留市朝日馬場にある石船神社には、
護良親王の首級と伝えられる首が祭られており、
毎年1月15日に行われる祭礼当番引き継ぎの神事の際に開帳されている。
 
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ネットで検索したら肖像画が出てきたので撮影(^^
馬上で大きな弓を持ってる人物が親王です。 
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そしてコチラのガラスケース内に収められているのが、
親王の首級と伝わっているミイラです。
上記にも書きましたが、毎年1回神事の際に開帳されるので、
興味の有る方はご覧頂ければ・・・と思います(^^
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そしてコチラが殺害されるまで幽閉されていた土牢ですが、
コレは鎌倉宮内に復元されたものだそうです。
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親王墓の入口(御在所付近)の様子。
苔むした石段が歴史を感じさせますね~(^^
今回、この記事を書く前までは、この金属製扉の向こうには立ち入れないのかな?
・・・・・と思っていたのですが、
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こんな近距離写真を見つけたので、入れる様です(^^;
内部には角が取れて劣化した石塔(陵墓地形図集成記載)が有りますが、
元は宝篋印塔だと思われます。
 
:護良親王墓:
・測量年:大正14年
・原図縮尺:1/400
・所在地:神奈川県鎌倉市二階堂
・陵墓の形態:石塔(地形図集成記載)
       宝篋印塔(見た感じでは)
・面積:6195㎡
・父:後醍醐天皇

皆様こんばんは~(^◇^)
 
少しづつですが、関東南部も、紅葉が見られるようになってきましたね~(^^
 
9陵墓目はコチラ~。。。 
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用堂墓之圖
後醍醐天皇の皇女である、用堂女王の墓所です。
鎌倉市内の北鎌倉駅から程近い東慶寺の墓所内に有ります。
 
〇用堂女王
生没年:不明~応永3(1396)年
父:後醍醐天皇
生年等の前半生の事績は不明。
鎌倉にて薨去(殺害)された兄の護良親王の菩提を弔うために、
東慶寺に入り尼となった。
これ以降東慶寺は「松岡御所」と称されるようになった。
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小さいですが、横から見た断面図的な図も掲載されてます。
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墓所へと至る階段と墓の存在を示す石柱。
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顕日王分骨塔と同じく矢倉(やぐら)と呼ばれる、岩窟内に墓所は有ります。
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コチラが墓本体の拡大です。
陵墓地形図集成では、「石塔」と明記されてますが、小型の五輪塔の様です。
岩窟床全体に石が貼って有る様に見えますね。
女王の遺骨は火葬骨だとすると、五輪塔の下に、
石室を構築し、その中に安置されてると思われます。
 
:用堂女王墓:
・測量年:大正14年
・原図縮尺:1/100
・所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内 東慶寺墓地内
・陵墓の形態:石塔(地形図集成記載)
       小型五輪塔(見た感じ)
・面積:137㎡
・父:後醍醐天皇

皆様おはようございま~す(^◇^)
 
秋らしい良いお天気ですね~(^^
こんな日は古墳巡りに行きたいのですが、
仕事が忙しくて、しばらく行けそうありません(泣
 
陵墓地形図8陵墓目はコチラ。。。 
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顕日分骨所之圖
顕日王については、顕日王墓之圖を参照頂ければと思いますので、
今回は人物の詳細については省略させて頂きます(^^
鎌倉市内にある建長寺境内、その境内の中に有る、
子院の正統院境内に有る分骨塔の地形図です。 
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上から見た図と横から見た断面図も掲載されてます。
横から見た図で分かるのは、上部開口部が広い事ですね。
鎌倉にはこうした岩窟墓(矢倉(やぐら)と言います)が多く残されています。
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以前顕日王墓紹介の時に掲載した写真画像ですが、再掲載します(^^
木製の柵の奥に無縫塔の頭の部分が見えますね~(^^
 
:顕日王分骨塔:
・測量年:大正14年
・原図縮尺:1/100
・所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内 建長寺正統院内
・陵墓の形態:無縫塔
・面積:267㎡
・備考:分骨塔

皆様おはようございま~す(^◇^)
 
7陵墓目の地形図はコチラ~。。。
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武蔵陵墓地之圖
多摩にある、大正天皇&貞明皇后と昭和天皇&香淳皇后の、
4名の陵墓が営まれている広大な墓地です。
余談ですが、現在大正天皇陵の奥に、今上天皇&皇后の陵墓予定地が確保されてます。
 
第1号図では、陵墓地全域の地形図が、 
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第2号図では、4陵墓の拡大図が掲載されてます。
全4陵墓とも上円下方墳の形態を取ってます。
大正天皇と貞明皇后の陵墓は隣同士なのに、
何故か昭和天皇と香淳皇后の陵墓は少し離れている辺りに、
当時の宮内庁に何かしらの思惑が有ったのでは?と疑問に思ってます(^^; 
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大正天皇陵がコチラ。
他の3陵と比べて、円丘部の傾斜と高さが有ります。
下方部は拝所からは、ほとんど見えない様ですね。
 
〇大正天皇
・生没年:1879~1926年
1879年明治天皇の第三皇子として誕生。
明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名される。
生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気を患う。
学習院時代に侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校したが、
この「軍隊の背嚢」が後のランドセルの原型になったという逸話が有名。
1897年満18歳で九条節子(後の貞明皇后)と結婚。
宝算47歳
 
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大正天皇妃 貞明皇后陵の様子。
夫である大正天皇と比べると、随分小規模になります。
コチラは下方部が見えますね(^^
 
〇貞明皇后
・生没年:1884~1951年
旧摂家・公爵である九条通孝の四女として生まれる。
1900年に15歳で5歳年上の皇太子嘉仁親王(大正天皇)と婚約。
同年宮中の賢所に於いて、神前で挙式。
現在の迎賓館は御成婚時の新居だった。
昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕に取り組む。
享年66歳

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コチラが昭和天皇陵
上円部より下方部の高さが際立ってますね。
拝所の奥にテントの白い屋根が見えますが、
その高さから推測すると相当な墳丘高が有る様に思います。
 
〇昭和天皇
・生没年:1901~1989年
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除く)在位期間が最も長く(約62年)、
最も長寿(宝算87)だった。
終戦の国策決定などに深く関与し、1947年に施行された日本国憲法の下では、
「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として、
「国政に関する権能を有しない」ものとされ、主権回復後には、
象徴天皇として皇室外交を行った。
1924年良子女王と結婚。
1989年十二指腸乳頭周囲潰瘍(腺癌)により崩御。
宝算87
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昭和天皇妃 香淳皇后陵
コチラも貞明皇后陵と同じくらい、小規模な墳丘。
 
〇香淳皇后
・生没年:1903~2000年
久邇宮邦彦王の第一女子として誕生。
1920年裕仁親王と婚約するが、翌年に入って、
母系島津家に色盲の遺伝が有り、皇太子妃として不適当として、
元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫るという、
所謂「宮中某重大事件」が起こるが、原敬らの反山縣勢力が、
山縣追落としにこの事件を利用したこともあって、
最終的には翌年に宮内庁から、
「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、
右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着する。
宮中某重大事件、関東大震災の影響により婚儀は延期されたが1924年結婚。
2000年老衰による呼吸不全のため崩御。
97歳没。
歴代の皇后中最長の在位であり、神話時代を除き最長寿でもある。
 
この4陵墓が営まれている場所は、
古くから遺跡埋蔵地帯としても知られている様で、
陵墓関係論文集を見てみると、しょっちゅう発掘調査を行ってる様です。
縄文~弥生時代にかけての住居跡や、石器や土器などの遺物が、
多数出土されている模様です。
また年代ははっきりしてませんが、列石も確認されていて、
コチラは昭和天皇陵に向かう散策路脇に移築されてる模様。
各遺跡は調査後埋め戻し保存が成され、
出土品は宮内庁が所蔵しているそうですが、
せっかくなので、どちらも公開して欲しいと思ってます(^^

※2022年追記
大正天皇陵の西側に上皇・上皇后の陵候補地となる広大な敷地が、
航空写真で確認できるので、崩御後はこちらに埋葬されるものと思われます。
 
:武蔵陵墓地:
・測量年:平成13年
・原図縮尺:1/1000
・所在地:東京都八王子市長房町 元八王子町三丁目
・陵墓形態:上円下方墳
・面積:未記載
・埋葬者:大正天皇
     貞明皇后
     昭和天皇
     香淳皇后

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