関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

2013年05月

皆様こんにちは~(^▽^)
 
今回は初の栃木県内の古墳を紹介します(^^
先月末のGW前半に栃木県は、足利市内にある、
足利フラワーパークに出掛けた時に見つけた古墳です。
東北自動車道の佐野藤岡ICを下りて、しばらくバイパスを走り、
フラワーパークに向かって曲がって直ぐの、左側にある古墳でして、
イメージ 1
北から見た道場塚(みちばつか)古墳全景
墳丘直径約40m✖高さ約5mほどの大きな円墳で、
道路までの間が畑地と田圃になっていて、
下草があまり生えてないせいで、かなり目立つ古墳です。 
イメージ 2
コチラが上羽田神社正面。
右側後方に墳丘の高まりが確認できるかと思います。
イメージ 3
鳥居をくぐってから撮影した感じ。
神社と児童公園と史跡がセットになった、現代によくある残され方です。
幹の途中に枝が無い杉の樹木が多いので、墳丘の形状が容易に把握できるのは嬉しいです 
イメージ 4
墳丘に近づいてみました。
石段が4段設置されていて、墳頂が大きく平坦になってる辺り、
以前は古墳上に社殿があったと思われます。
イメージ 5
また、階段の両側墳丘斜面上に、石碑がチラホラ。。。
刻まれていた文字から推測すると、
富士塚として信仰の対象でもあったのかな?と(^^; 
イメージ 6
墳頂部はご覧の様に、かなり大きな平坦面が広がってました。
また墳頂部端には、
イメージ 7
何かを記念する石碑が建っていたのですが、
その石碑よりも石碑の周りに積まれた石材に目がいきました(^^;
凝灰岩や緑泥片岩があるので、もしかすると・・・石室石材???(^^;
 
何も情報が無い古墳なので、確実な事は書けませんが、
見た感じ墳丘は3段築成で、墳頂部に近い所に、
横穴式石室か、竪穴系の埋葬施設があったのでは?と推測してます。
 
墳丘をじっくり見て廻った結果、葺石は確認できませんでしたが、
墳頂部の平坦面上で数枚の近世の瓦を確認。
これで墳頂部に以前社殿があった事が確実に
また、墳頂部に建てられた石碑の裏側の、墳頂部近くの斜面で・・・・・、 
イメージ 8
土師器の壷か甕の破片を発見。
円筒埴輪の破片は見つからなかったのですが、
これだけでも、築造年代をグッと絞る事が可能ですね。
土師器といっても、他の古墳で見られる様な厚みが有ってゴツゴツとした肌触りのものと違い、
須恵器の様に薄くて硬く表面も滑らかな事から、6世紀後半~末頃にかけて製作された、
須恵質土師器ではないかと考えてます。 
イメージ 9
墳丘裏側斜面の様子。
竹で組まれた囲いが設置され、その手前は見学路の様(未舗装/土面)になっていて、
墳丘をぐるりと見て回れるようになってます。
念のため、こちらの斜面も見て廻りましたが、
石室に関わるような石材も、葺石も見当たりませんでした。
 
今回はフラワーパーク散策が主目的であり、
両親を車中に待たせていたこともあって、
探索に時間があまり掛けられなかったので、
次回もう一度、じっくり見学してこようと思ってます。
 
:道場塚(みちばつか)古墳:
・所在地:佐野市上羽田町684 上羽田八幡神社
・墳形:円墳
・規模:(目測推定)直径約40m✖高さ約5m
・周掘の有無:不明
・埋葬主体部:不明
・出土品:不明 土師器破片露出確認
・築造年代:(上記の推定が正しければ)
      6世紀後半~6世紀末頃か?
・史跡の指定:市指定
・備考:上羽田八幡神社境内に現存保存
    駐車スペース有り

皆様おはようございま~す(^▽^)
 
仕事場に行く前に少し時間が空いたので、
珍しく午前中の内に更新します(^^
 
浅間塚(別称:男塚)のお次は、
愛宕塚(あたごづか/別称:女塚)の紹介です(^^
イメージ 1
 民家と中古車販売店の間の未舗装路の奥にあります。
 
コチラは浅間塚と違って、道幅が広かったので、
ハザードを点灯した上で、「古墳見学中」と書いた紙(A4)を、
フロントガラスに置いてじっくり見学してきました(^^
尚、浅間塚からおよそ100~150mくらいの所にあります。
イメージ 2
 裏側は一面田圃地帯になっていまして、
一角にこんもりとした森と盛り上がりが確認できます。
近くを走る国道の陸橋上からもはっきり見えるくらい、
周囲に高い建物が無いので、眺望は良い方です。
土地が四角いので、遠目には方墳に見えますが、
盛土の形状は円形です(^^; 
イメージ 3
 先程の未舗装路を進むと、2/3が下草に覆われた、
            盛土が見えてきます。
イメージ 4
 塚正面。
規模は浅間塚よりも1回り小さく感じました。
石段は北方向に設置されています。
こちらも浅間塚同様、後世に富士塚として、
信仰の対象になった可能性があり、かなり頂部が尖ってます。
塚中央右側にそびえ立つ樹木の幹の太さと、
頂部近くの樹木の幹の細さから推測するに、
おそらく太い幹の樹木の先から上が、後世に盛土された部分で、
本来の水塚としての高さは、現在よりも1~1.5mほど低かったと思います。 
イメージ 5
 頂部から見下ろした感じ。
浅間塚と違って、こちらはだいぶ緩やかな傾斜であることが、
お分かり頂けるかと思います。 
イメージ 6
 頂部の様子。
浅間塚同様尖ってるように見えましたが、
上に上ってみると、平坦面が直径2~2.5mほど確認できました。
イメージ 7
 『愛宕山大権現』の文字が刻まれた、
小さな石製の祠が建てられてます。 
イメージ 8
塚頂部から見下ろした感じ。
南側斜面の下は普段は水田となってます(^^ 
イメージ 9
 水塚の前の道路沿いには、この様な名前の駐車場がある事から、
付近の住民には「古い塚」として認識されてる様です。
 
※塚所在地ですが、私有地の可能性が有るので念のためご注意下さい。
:愛宕塚(あたごづか/別称:女塚):
・所在地:埼玉県川越市木野目488
・塚の形状:円塚
・規模:(目測)直径約15m前後✖高さ約4m
・史跡の指定区分:市指定史跡
・備考:元は水塚だが、後世に富士塚として改変された可能性有り
    頂部に愛宕社を祀った石祠有り
    駐車スペース無し

皆様こんにちは~(^▽^)
 
さて、久々に埼玉県内の史跡の紹介を。。。
先日別の記事内にて、「グーグルマップを見ていて偶然見つけた」と、
書いた物体でして、川越市の南古谷(みなみふるや)という町に、
ある木野目(きのめ)水塚群の事でした(^^
この水塚群は、未だ正式な調査はされて無い為に、
現地に行っても説明板や案内板などはありませんが、
現在は古墳では無く、塚を作って頂部に倉庫を建てた、
水塚であるとされています。
また、浅間塚付近の道路は一方通行な上に、
道幅が大変狭く、小学生くらいの児童がたくさん居住しているので、
車で見学される際は十分お気を付け下さい。
 
この水塚群については、手持ちの資料内に掲載されている、
『新編武蔵國風土記稿』
「巻之167 入間郡12」の「木野目村」の項に、
 
浅間社 古塚ノ上ニ立リ。近キ頃勧請スト云う。此塚ヲ土俗男塚ト呼ベリ。
愛宕社 是モ塚上ニアリ。此ヲ女塚ト呼ブ。男塚ヨリヤヤ小ナリ。
 
また、『入間郡志』南古谷村の沿革には、
木野目には美なる正円錐形の二塚あり、一は愛宕を祭り、
一は浅間を祀る。土人男塚女塚の称あり。
其外久下戸に富士塚とやら水塚とやら称するあり。
新河岸川に沿ふて尚二三を見る。
丹果して王代の古墳なりや否や未だ明かならざる也。
 
・・・とありまして、当時から富士塚や水塚などの、
塚だったとの認識があった様です。
また、現在木野目地区で墳丘が見られるのは2基だけですが、
当時は更に数基存在していた様です。
 
前置きが長くなりましたが、
まずは浅間塚(別称:男塚)から。。。 
イメージ 1
 後日紹介する予定の、愛宕塚から見た浅間塚の遠景です。
住宅内、しかも道幅が狭い一角にありまして、
路駐した上で短時間でササッと見学して来ました(^^;
イメージ 2
 愛車を塚の裏側に止めて、まずは一枚
 
密集した住宅街の中に綺麗な盛土が残されてました(^^
塚裾と車がある方向に児童公園があるのですが、
そちら側に最近植えられたと思われる樹木があるのみで、
塚上には下草がほとんど無く、見学し易い塚でした。
イメージ 3
 裏側にはデイサービスの建物があるので、
全体像を収めるのは少々難しかったです(^^;
現在も何も調査らしいものはされて無い為に、
説明板なども無いので、完全に目測での規模になりますが、
直径約25m前後✖高さ6mほどの塚です。 
イメージ 4
 裾部を歩きながら塚の横に出てみました。
頂部には小さな祠と浅間社と刻まれた、
小さな石碑が建てられてます。
こうして横から見ると、頂部近くがかなり尖ってる形状なので、
元々あった塚に富士塚として後世に盛土した様です。
イメージ 5
石段は幅も奥行きも狭いタイプで、手すりも設置されてないので、
見学の際は滑落にご注意下さい(^^; 
イメージ 6
 頂部の様子。
かなり尖っている印象で、平坦面は少ないです。
地元の児童らが段ボール紙などを使用して、
滑り降りた形跡が墳丘上に数カ所確認できたので、
塚としての保存と共に、子供達の遊び場としても、
利用されている様です(^^;
イメージ 7
手を合わせてから撮影。
少々見難いですが、中央部分に「浅間」の文字が見えます。
  
:木野目水塚群 浅間塚(男塚):
・所在地:埼玉県川越市木野目1876-1877 男塚公園
・墳形:円丘
・規模:(目測推定)直径約25m✖高さ約5m
・史跡の指定区分:市指定文化財
・備考:古墳では無く水塚
    後世に富士塚として改変
    頂部に浅間と刻印された石祠有り
    駐車スペース有り(道幅狭し)

皆様こんにちは~(^▽^)
 
本日は山名(やまな)古墳群の見学記ですが、
この記事でひとまず群馬県の古墳記事は、
終了とさせて頂きます。
またたっぷり時間が取れたときに、
まだ古墳の数が有り過ぎてスルー気味の、
高崎市内へ遠征に行ってみたいと計画しておりますので、お楽しみに~(^^
 
さて、その山名古墳群ですが、最初から存在を知っていた訳では無く、
山ノ上古墳・山上碑見学の帰り道の途中で、偶然見つけた古墳群です。
・・・そんな訳で、日暮れが近かった為に、1基づつ細かい観察はできずに、
ざっくりと望遠モードで撮ったりしております。コチラもまた高崎市内と同じく、
後日じっくり再訪問しようと考えております。 
イメージ 1
 
イメージ 8
山名(やまな)古墳群
6世紀前半~7世紀にかけて築造された、
19基(前方後円墳1、帆立貝型1、円墳17)で構成されてます。
古墳群は県道に近い南群と住宅街に近い北群に分かれてます。
2枚目の古墳位置図で、後円部や円墳の中に描かれた、
オレンジ色の物体は、横穴式石室の開口方向と位置を示してます。
尚、石室石材は6世紀台のものが、川原石や自然石を乱石積みにしたもので、
7世紀台のものは、凝灰岩の切石を使用した石室となってる模様です。
 
ざっくりと見渡したり、個々の外観を見学したりしましたが、
開口してるものは1基もありませんでした。
もしかしたら開口してる古墳があったかもしれませんが、
既に下草が繁茂し始めていたので、掻き分ける様にしないと、
今からの季節では確認できないと思われます。
 
・・・では、番号の若い順と固有名が付いてる順に掲載していきます(^^
イメージ 9
まずは伊勢塚(いせづか)と名前が付けられた、
古墳群唯一の前方後円墳ですが、民家の庭先&交通量の多い県道沿いにある為、 
イメージ 10
後円部の一部しか撮れませんでした(^^;
案内図によると、後円部2段目に石室が存在(※)する様なので、
後日再訪問した時に探索してみたいと考えております。

※石室は存在確認調査が実施されたのみで、調査後埋め戻し保存。
 副葬品などは知られてません。
 
イメージ 12
山名5号墳と6号墳
5号墳は目測直径30m✖高さ3mほどの円墳で、墳頂部に小さな祠が建てられています。
また近接して築造された6号墳によって、南側の墳丘の一部と周堀が破壊されてます。
 
6号墳は低墳丘墓状態で、5号墳の手前に築造されてます。
規模は直径6m前後で、高さは1m以下なので、ご覧の様に下草が繁茂してしまうと、
古墳だとは気づかずに通り過ぎてしまいそうになります(^^;
イメージ 11
山名7号墳
手前の枯れ草の中に川原石が散見してる場所も怪しいですが、
7号も高さ3mほどの円墳です。
直径は5号墳に近く、20~25mくらいかと思われます(^^ 
イメージ 13
山名9号墳(赤線の部分)
 墳頂部中央が凹んだ円墳。
おそらく横穴式石室の崩落によって出来た凹みだと思われます。
高さは約2.5m、直径は7号墳と同じくらいのサイズで、約20~25mほどだと思われます。
 
奥の青線で囲った部分は、山名13号墳となります。
墳頂に何かの石碑が建てられていますが、下草の繁茂が凄くて接近不可能でした。。。
13号墳からは横穴式石室は検出されていないので、おそらく木棺直葬だと思われます。 
イメージ 14
山名15号墳
群内唯一の帆立貝型古墳となります。
全周する周堀と南向きに開口する横穴式石室を内蔵し、
墳丘には葺石を敷き詰めてた古墳です。
この古墳は見学路に近い場所にあったため、南側斜面を中心に見学できましたが、
葺石が確認できた以外は、石室の開口などは見当たりませんでした。 
イメージ 2
山名16号墳
こうして赤線で囲わないと、見落としてしまうくらい、
高さも1m以下しか無い、とても小さな円墳です(^^;
下草に囲まれて見難いですが、ちゃんと葺石があります。
サイズ的に積石塚の様な外観でした。
また、墳丘を全周する周堀も検出されてます。埋葬施設は木棺直葬です。
イメージ 3
山名18号墳
コチラは完全に積石塚古墳の様な外観になってます。
この古墳からは短小なサイズの、川原石乱石積横穴式石室が検出されてます。
直径6~8m、高さは現状で1mほどです。 
イメージ 4
山名19号墳
墳丘の中央にセンターラインの様に下草が生えてる古墳。
おそらく中央部に川原石を積んだ横穴式石室が存在してるハズですが、
コチラも下草が繁茂し過ぎているのと、見学路から遠くて接近不可能なので、
望遠モードでの撮影のみ。。。
イメージ 5
山名20号墳
青い線で囲った部分が墳丘です。
手前の小山は、未撮影の山名10号墳です。
コチラも川原石を積み上げた横穴式石室が検出されてます。
イメージ 6
山名62号墳
おそらく古墳群内も最も小さい円墳だと思われる古墳。
小さいながらもしっかり葺石で封土が流出してしまわないように表面を固めてあります。
埋葬施設は墳丘規模から木棺直葬だと思いましたが、
古墳群案内板の62号墳をよく見てみると、
墳丘中心部に何か施設的な物が描かれているので、
本来はもう少し墳丘規模が大きくて、
川原石を積み上げた横穴式石室が存在したかもしれません。
イメージ 7
最後に駐車場から撮った古墳群の全体像を。
1m以上盛土のある物は直ぐ分かりますが、
それ以外のものは近くに接近してみないと気づきません(^^;
 
またそれぞれ個別に「○○号墳」等の案内標識が無い為と、
案内図の位置図と照らし合わせながら番号を振っていった為に、
もしかしたら番号が間違ってるという可能性も有りますことを、
ご了承下さいませ(^^;
 
尚、横穴式石室のタイプで、
凝灰岩切石積みのものは山名伊勢塚だけで、あとは川原石乱石積みとなってます。
また出土品も、どの古墳からどれが出たとまでは分かってません。
次回、下草が枯れる秋~冬の時期に再訪問しようと考えております(^^

:山名古墳群:
・所在地:高崎市山名町790
・墳形:前方後円墳1基、帆立貝型前方後円墳1基、円墳14基、
     形態不明1基
・規模:全長90m(伊勢塚)、全長40m(15号)
    直径5~40m
・周濠:有り(伊勢塚、5、6、15~17、61、62)
       他は未調査
・埋葬主体部:凝灰岩切石積横穴式石室(伊勢塚)
       他は川原石乱石積横穴式石室
・出土品:埴輪片、鉄製象嵌円頭太刀、鎧、刀子、鉄鏃
     小札、金環、瑪瑙勾玉、管玉、水晶製切子玉
     ガラス小玉、土製小玉、垂飾、人骨
・築造年代:6世紀中頃~7世紀前半
・史跡の指定区分:市指定
・備考:見学者用駐車場有り(無料)
    石室は全て埋め戻し保存

皆様こんにちは~(^▽^)
 
今回は、山ノ上古墳の隣に保存され、
日本最古の記念碑と推定されている、 
イメージ 1
 
イメージ 2
 山上碑(やまのうえひ)の紹介です(^^
 この石碑も資料によって、「山上碑」だったり「山ノ上碑」だったりしますが、
直ぐ隣にある古墳と共に特別史跡に指定されていまして、
1枚目の様な頑丈な覆屋の中で、大切に保存されてます。
 
尚、記念碑を見学する際は、
イメージ 3
 碑文を見れる様に、照明が設置されてます。
直に碑に触れる事はできないので、
カメラのズーム機能を使って撮影したのがコチラ↓↓↓ 
イメージ 4
 以下に原文及び現代語訳を掲載します(^^
 
辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧
 
辛巳(しんし)年(天武天皇10年=西暦681年)10月3日に記す。
佐野三家をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。
これが、新川臣(にっかのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である、
大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、
母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。 放光寺の僧。 
イメージ 5
 小さくて読み難いと思われますので、以下に説明書きの主文を。。。
 
 山上碑は、輝石安山岩の自然石(高さ111cm)に53文字を刻んだ物で、
天武朝の681年に立てられた日本最古級の石碑である。
放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、
名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものである。
黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられる。
 碑文にある三家(屯倉)とは、6世紀~7世紀前半に、
各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。
佐野三家は高崎市南部の鳥川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)に、
またがって存在したとみられ、健守命がその始祖に位置づけられている。
 碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、
赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(現桐生市の新川か)の、
子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子である。
彼が勤めた放光寺は『放光寺』の文字瓦を出土した前橋市総社町の、
山王廃寺だったと推定される。
この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。
当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられる。
また、山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、
碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定される。
 なお、碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力者の墓であり、
7世紀中頃の築造と考えられる。
その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、
もともと黒売刀自の父の墓として造られ、
後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる。(白石太一郎説)
 以上の様にわずか53文字から、ヤマト政権と地方の支配制度、
豪族間の婚姻関係や家族制度、地方仏教の浸透など、
多くの事を読みとる事が可能であり、山上碑が一級の古代史料であることを、
証明しているのである。 
イメージ 6
 石碑を横(古墳側の窓)から見た感じ。
烏帽子の様な形状をしてることが分かります(^^
 
急な階段を上った先にあるせいか、
訪れる人はあまり居ないので、
じっくり見学ができました(^^
 
:山上碑/山ノ上碑(やまのうえひ):
・形態:石碑
・建立年:681年(日本最古級)
・文化財の指定区分:特別史跡指定
・備考:覆屋内に保存(屋外からの観察のみ)
    山ノ上古墳見学者用駐車場有り

↑このページのトップヘ