皆様こんばんは~(^▽^)

本日は陵西陵墓参考地について考えてみました(^^
「陵西」「おかにし」と読みますが、
陵墓に興味を持つまでは何と読むか知りませんでした(汗

〇陵西陵墓参考地
・該当御方:顕宗天皇皇后難波小野女王(陵未定
      『或は顕宗帝陵』
・所在地:奈良県北葛城郡陵西大字池田字香ノ池『二児山』
     (現:奈良県大和高田市池田)
・墳形:小形前方後円(周濠ハ民有) 陪塚五
・地況:松林
・面積:本墳 二反五畝十五歩(七六五坪)
    陪塚(五) 六畝十三歩(一九三坪)
    計 三反一畝十八歩(九五八坪)
・指定ノ時:明治三十年九月十五日
・考証意見:第二類
・備考:『一隅抄南陵ノ条 池田村字二児山』
    『大和志料南陵ノ条 陵西大字村池田ニアリ、
     二児山トス』
    『地名辞書南陵条 今陵西村大字池田の二子山是ナリ』
    『打縄墨縄顕宗条 武烈陵の南に双ぶ、字二児山とよぶ、
     其地は池田村』
磐園陵墓参考地は顕宗天皇の陵墓(真陵)で、
コチラは皇后の陵墓とされています。
顕宗天皇の崩御年代は5世紀後半頃なので、
古墳の築造年代が若干早いかな?と思います。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図(赤矢印が該当地)
指定を受けている陪塚は全部で5基。
左上に大きな円墳が見えますが、これは現在磐園陵墓参考地の陪塚として指定を受けている、
茶臼山古墳の実測図です。
20210506_180418201
参考地墳丘 拡大
後円部墳頂部に大きな平坦面が見られます。
調査が実施されていないので確定的では無いですが、
後円部南西裾(現拝所)から頂部へと至る道が見られるので、
以前は後円部頂部に祠的な建築物が有ったものと思われます。
後円部頂部中央に小さな楕円形状の物体が見られます。
これは建築物の基礎の跡ではないかと思われますが、
当古墳からは長持型石棺蓋部分の出土伝承が有るので、
残された身の部分を保護しているかもしれません。
航空写真を見てみても、深い木立に覆われているので確認は不可能。。。
前方部頂部にも何らかの構造物跡を思わせる平坦面の広さと、
中央部に丸い物体が見られますが、ここにも指定前に何らかの構造物が有ったものと思われます。
くびれ部付近が平坦になっているのも後世の改変によるものと思われます。

また、現在は周囲を宅地開発により民家に囲まれている為、
分かり難いですが、後円部北側で幅20~25mの周濠の一部が残存していますので、
元は直ぐ北側方向に有る磐園陵墓参考地の様に、墳丘の周囲を全周した濠が有ったと思われます。

以下に考古学データを。。。
▽狐井塚古墳(きついづかこふん)
・墳形:前方後円墳
・規模:全長75m
    後円部径40m✖高さ5m
    前方部幅40m✖高さ6m
・周濠:有り(北側に周濠跡幅20~25m残存)
・埋葬主体部:不明
       竜山石製長持型石棺の蓋石出土伝承有り
・出土品:円筒埴輪
・築造年代:5世紀中葉
古墳そのものは馬見古墳群の南群である築山古墳群に属する1基で、
顕宗天皇皇后難波小野女王の陵とされていますが、
古墳の築造年代が5世紀中葉なのに対して、
治定されている小野女王の崩御年代が仁賢天皇2年(489年)頃とされており、
崩御年代よりも築造年代がやや新しめなので、
女王の陵とするには少々疑問が有ります。
また、夫帝である顕宗天皇の陵から南へ6kmと、結構な距離が有る点も気になる所。。。
少し離れ過ぎていると思う上、合葬していないのであれば、
直ぐ近くもしくは傍に埋葬されるものと思われます。

ただ、顕宗天皇という人物の実在性は現在も疑問符が付いている状態である上、
小野女王も生年不明である事から、女王自身も実在性が低いと考えられています。
これらの事から、当参考地古墳は女王では無く、
築山古墳群中で最も新しい時期に築かれたと推定されている事から、
一大古墳群を造営させられる程の権力を有した大王クラスの古墳であると思われます。

:結論:
〇治定されている人物の実在性に疑問が有る
〇治定されている人物の崩御年代と古墳の築造年代が合致しない
=古墳の築造年代が崩御年代よりも若干早い
〇長持型石棺蓋石が出土しているので天皇では無い大王クラスか、
 大王に次ぐ権力者の墓である可能性有り
=天皇陵に治定しているのに石棺が既に出土済みという不思議

以上で陵西陵墓参考地についての考察を終わります。