皆様こんにちは~(^▽^)

本日は北川陵墓参考地について考えてみました(^^

〇北川陵墓参考地
・該当御方:天津彦彦火瓊瓊杵尊(陵既定
・所在地:宮崎県東臼杵郡北川村大字長井字俵野
     (現:宮崎県延岡市北川町長井)
・墳形:円丘
・地況:部落中ノ小高地、松多シ
・七畝七歩
・指定ノ時:明治二十八年十二月四日
・考証意見:第三類
・備考:『近辺ニ尊ヲ祝ル可愛神社あり』
近くに有る可愛岳(標高727m)の山頂に
「鉾岩(ほこいわ)」と呼ばれる、高さ170cm✖幅90cmの、
花崗岩が有り、この岩の下に天孫ニニギノミコトが眠るとされる巨石が有る。
こちらは宮内庁の管轄外なのでいつでも見学が可能。
尚、ニニギノミコトの陵墓名は「可愛山陵」と言う。
当地は経塚であり古墳や墳墓では無いとする説も有る。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
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参考地墳丘 拡大
『陵墓要覧』には「円丘」と記載されていますが、
方墳の可能性も指摘されています。
2~3段築成の墳丘で高さは目測で2,5~3m程度と思われます。

また、現地の墳丘画像を見てみると、
頂部に2~3本の巨大な樹木が有ることが分かりますが、
仮に当参考地墳丘が古墳である場合、埋葬主体部が頂部直下に有るとすれば、
樹木の根で崩壊していると考えられますが、
経塚であれば、小さな土壙を掘るだけで済むハズです。
現在までに何も出土品や採取遺物が伝わっていないので、
古墳であるとすれば古墳時代後期~末期と思われますが、
今のところ、古墳名などは無い模様で、
近くに可愛神社が有る事から、神社の方位鎮護の為の経塚か、
中近世に見られる供養塚の一種
と思われます。
また、私的な推測ですが直ぐ隣に西郷隆盛宿陣跡資料館が有り、
当地付近は西南戦争時の陣跡でも有るので、
戦没者を埋葬した塚という可能性も有るかと思います。
尚、陵墓参考地の指定は明治28年、西南戦争は明治10年頃です。

また、たいていの高塚式の墳丘を持つ参考地には、
古墳名が有ります
が(宇治陵・鳥戸野陵・後宇多天皇陵域内陪塚群の墳丘は除く)、
ここには特に無い模様で、周囲に古墳時代の遺跡も無ければ、
古墳も古墳群も見られない事がかえって不自然
です。

現地をグーグルマップで探す場合は検索欄に、
「ニニギノミコト御陵墓参考地」と入力すると見つかります(^^
以前は「北川陵墓参考地」と検索しても出てきましたが、
私のPCでは「地図には見当たりません」となりました(汗
現地に設置されている説明板の写真画像を見る事が出来ますが、
既に「可愛山陵」は別に治定されているのに、現地にも「可愛山陵」と、
記載されているのは何だか不思議です。。。
『日本書紀』には「日向の可愛の山の陵に葬った」とだけ記載されていますが、
「山の陵」というだけで、陵地が2箇所も治定/指定されている点が謎です。
こちらもまた、治定決定についての公式見解は発表されていないので、
推測(推定)のみですが、実在(至極まっとうな長さの寿命を有した人物)しない、
神様の墓や陵を造ってしまう事に疑問を感じます。


後日「まとめ」記事にて書きますので簡単に。。。
天孫降臨が現在の高千穂付近で行われたのであれば、
何故、天皇発祥も当地付近としなかったのか?と思います。
「日本書紀」では「天照大神の血を引く神武天皇が、
九州の高千穂から橿原に移り橿原宮を創建して初代天皇となった」
と、
記載されていますが、現在の様に短時間で移動できる手段の無い時代に、
高千穂にある天孫降臨の滝付近から橿原神宮付近まで最短でも、
595km(フェリー&高速道路使用)も有り、徒歩での到達は不可能です。
現在の神武天皇陵は古い時代の堂塔建築物の土壇跡であり、
文献や史料からも古墳では無い可能性が高いとされていますし、
橿原神宮も明治期に古代天皇を創り上げた際に建造したもので、
古くから存在する神社では有りません(神武陵考察記事参照)

何処かの陵墓考察記事で書きましたが、
「地元応援キャンペーン」的に祭り上げて、
各地で様々な伝承や伝説が碌な裏付け調査もしないまま、
繰り広げられて現在に至っている・・・様に感じます(^^;

:結論:
〇治定されている人物は実在性が低い
=瓊瓊杵尊は古来の神様である為、墓が有る事自体が不自然
〇古墳では無く経塚や中近世の供養塚である可能性有り
=周辺に古墳時代の遺跡や古墳が無い
=西南戦争時の陣跡付近なので、戦没者を葬った塚の可能性は?
〇公式形状は円丘だが方丘の可能性有り
〇考証意見は第3類と「陵墓の可能性は低い」事から治定解除が望ましいが、  
 治定後に調査を実施せず現在に至る謎
〇指定に至った根拠や明確な理由は現在も非公表なのが謎
=非公表なのは指定に自信が無いから?

以上で北川陵墓参考地についての考察を終わります。

次回の陵西陵墓参考地で、陵墓考察は終わりなので、
その後、別記事で「陵墓考察 まとめ」を書こうと思います(^^