皆様こんにちは~(^▽^)

本日は大塚陵墓参考地(大和)について考えてみました(^^
尚、大和大塚という名の古墳は無く
馬見古墳群に属する古墳で新山古墳と呼ばれています(^^

〇大和大塚陵墓参考地『事典 陵墓参考地』より抜粋
・該当御方:武烈天皇(陵既定
・所在地:奈良県北葛城郡馬見村大字大塚字新山
     (現:奈良県北葛城郡広陵町みささぎ台13-7)
・墳形:前方後円
・地況:樹林
・面積:七反十三歩
・指定ノ時:明治十九年十二月十三日
・考証意見:第二類『甲ニ入レルカ』
・備考:出土品保管(御物二十四件、外三十九件)
    『武烈陵は、山陵志・一隅抄、磐園(築山城山)をあてる』
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
「陵墓参考地一覧」や「陵墓要覧」などでは、前方後円墳と記載されていますが、
調査の結果、墳形は前方後方墳となっています。
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参考地墳丘 拡大
墳丘上に何やら通路の様な物が見えますが、
以前に祠や神社社殿の様な物が有った名残りか、
元々は個人の所有地だったそうなので、
その際の名残りかと思われます。

以下に考古学的データを。。。
▽新山古墳(しんやまこふん)
・墳形:前方後方墳
・規模:全長126m
    後方部幅67m✖前方部幅66m✖高さ10m
・周濠:不明(周囲の池は濠跡では無い
・埋葬主体部:竪穴式石室、組合式石棺
・出土品:車輪石、鍬形石、石釧、金銅製帯金具
     刀剣類、銅鏡34面
・築造年代:4世紀前半~末頃
出土した銅鏡の内訳は、三角縁神獣鏡9、直狐文鏡3、
方格規矩鏡4、内行花文鏡14面となってます。
特に直狐文鏡は我が国独自の物で、現在までに出土した中でも、
この古墳出土のものが最高峰であるとされています。
埋葬施設は1885年に当時の土地所有者が植林中に後方部中央で、
大石を発見し内部の竪穴式石室と思われる所から大量の遺物を発見した事が発端。
その時の証言では、頂上部から3m以上掘った所に、板石組の石棺を安置し、
その上を砂礫で覆った後、竪穴式石室を組み立てた様であるとの事ですが、
正確な規模などは未調査の為不明です。。。
出土した金銅製帯金具は中国の晋時代の古墓から出土したものに似ており、
晋王朝からもたらされた物であろうと推測されています。
築造年代は4世紀末頃で、馬見古墳群に属する古墳では、
最初に造られたと考えられている。

この参考地も内部構造や出土品が多数あることが知られている稀有な例です。
『古鏡集成』にはカラーやモノクロ写真で、
当古墳から出土した内行花文鏡や三角縁神獣鏡、方格規矩鏡の他、
国内最高峰とされる直狐文鏡などが掲載されてます。

現在、武烈天皇陵は自然丘陵に治定されていますが、
磐園陵墓参考地か、この大和大塚陵墓参考地の、
どちらかに埋葬されているのでは?とされてますが、
元々実在性が疑わしい人物なのと、
崩御年代と古墳の築造年代が合わないので、
ココも磐園陵墓参考地も当時その地域を支配していた、
権力者の墓ではないかと推測しております。

:結論:
〇武烈天皇の陵は既に治定されているが、元々実在性に疑問が有る天皇であるため、
 信憑性は低いと思われる
〇仮に武烈天皇が実在したとしても、古墳の築造年代と合致しない
〇陵墓参考地なのに出土品や埋葬主体部が判明している
=出土品は宮内庁が所蔵しているが、何故元の石室内に戻さないのか疑問
〇馬見古墳群で最初に造られた古墳である
=天皇などでは無く、当地を治めていた首長的な地位にあった豪族の墓であるとされる

以上で大塚陵墓参考地(大和)についての考察を終わります。