皆様こんにちは~(^▽^)

本日は小奈辺陵墓参考地について考えてみました(^^

考古学的名称はコナベ古墳と呼ばれる前方後円墳で、
周囲に多数の陪塚を伴う事でも知られています。

〇小奈辺陵墓参考地
・該当御方:仁徳天皇皇后 磐之媛命(陵既定)
・所在地:奈良市法華寺町小奈辺
     (現:奈良県奈良市法華寺町1804)
・墳形:前方後円(周濠ハ民有)陪塚七
・地況:樹林
・面積:本墳 二町四反三畝一歩
    陪塚(七)四反三畝二十三歩
・指定ノ時:明治十八年四月六日『法華寺住職献上』
・考証意見:第二類
・備考:『こなみ・前妻 嫡妻』
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
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参考地実測図拡大
くびれ部の左右両側(東西)に造出が付きます。
後円部頂部平坦面はやや東西に長い楕円形状で、
前方部南側端に台形状の平坦面が確認できます。

考古学的見地を以下に。。。
▽コナベ古墳
・墳形:前方後円墳 3段築成 葺石
・規模:全長204m
    後円部径125m✖高さ20m
    前方部幅129m✖高さ17.5m
・周濠:有り 盾型
・埋葬主体部:不明(『廟王記』には石棺が有る事が記載されている)
・出土品:円筒埴輪、形象埴輪(家)
・築造年代:5世紀前半
・備考:陪塚10基(内7基が宮内庁の指定)
隣接するウワナベ古墳と共に全長200mを超える規模を有しています。
このことから両古墳の被葬者の間に密接な関係が考えられるが、
コナベ古墳の方が年代的にやや古いとみられており、
ウワナベ古墳の先代豪族が埋葬されていると推定されています。
尚、墳形が市庭古墳や誉田御廟山古墳との相似関係が指摘されている
三段築成のそれぞれの段に円筒埴輪列が有ることを確認している。
元禄9(1696)年の松下見林『前王廟陵記』には、
墳丘内の石材の露出と円筒埴輪、葺石の検出について記されている。
また、明治初年に大阪の造幣局技師として日本に招かれた、
イギリス人ウィリアム・ゴーランドの実測図によって海外に紹介されている。
被葬者は不明であるが、江戸時代には元正天皇の陵墓とみなされた一時期が有った。
昭和54(1979)年に奈良市教育委員会が行った、
前方部南側の外堤護岸工事のための発掘調査で、
0.5m間隔で並ぶ円筒埴輪列を発見している。
平成9(1997)年に奈良県立橿原考古学研究所によって行われた調査では、
外堤部で埴輪列を検出・確認し、その東側で外周溝も確認しており、
外周溝の中から三角板革綴短甲の破片や鉄鏃が出土している。
2008~2009(平成20~21)年に行われた調査では、
宮内庁による西側造出の護岸工事に伴う事前調査で、
葺石の他、柵形・蓋形・家形などの形象埴輪の他、
直径約20cmの円筒埴輪21点を検出し、
橿原考古学研究所が実施した西側外堤部分の発掘調査では、
奈良時代の整地層において、緩やかな勾配をもつ石敷遺構が確認され、
奈良期の天皇や皇族が宴会や騎射、曲水の宴などを催したとされる、
平城宮の外苑「松林苑」の一部ではないかとされている。

磐之媛命に陵は既に治定済みなのに、この古墳にも該当御方として治定されています。
治定当時の宮内省(現:宮内庁)内で、
治定段階で意見が割れていた証拠であるとされています。
そして現在も二重治定という稀有な状態のまま治定解除もされていません。
何故コナベ古墳に磐之媛命を治定したのかの明確な理由を公開して欲しいと思います。
尚、当然ですが磐之媛命の時代と古墳の築造年代は合致していません

:結論:
〇ウワナベ古墳に先行して築かれた可能性が高い事から、
 ウワナベ古墳埋葬者の先代豪族が埋葬されていると思われる
〇宮内庁が被葬者として充てている磐之媛命の陵は、
 北方向のヒシアゲ古墳に指定されているのに、もう1基指定している謎
=宮内庁内部で考証意見が割れた結果である可能性大
〇磐之媛命の時代と古墳の築造年代が合致していない
〇陪塚は隣のウワナベ古墳の物と混在している為、
 どの小古墳がどちらの陪塚であるかは現在も調査中

以上で小奈辺陵墓参考地についての考察を終わります。