皆様こんにちは~(^▽^)

本日は妻鳥陵墓参考地について考えてみました(^^

尚、妻鳥は「めんどり」と読みます。
山頂に築かれた円墳で発掘調査の結果、
豊富な副葬品や人頭大の石材で構築された、
両袖型横穴式石室の存在が知られています。

〇妻鳥陵墓参考地
・該当御方:允恭天皇皇子木梨軽皇子(墓未定)
・所在地:愛媛県宇摩郡妻鳥村字春宮山
     (現:愛媛県四国中央市妻鳥町2524)
・墳形:円丘 『横口式?』
・地況:山頂、春宮神社ト同域ナリ
・面積:二畝二十『十二』歩
・指定ノ時:明治二十八年十二月四日
・考証意見:第二類
・備考:出土品保管(御物五件、外十件)
  ・「大日本地名辞書」明治三十三年
    妻鳥の東宮山に軽太子(允恭帝東宮)の御墓ありと伝ふ。
    軽太子は書紀には「一云伊豫国」と注し、
    旧事記には「一云流伊豫国在簿」と注す。
  ・愛媛面影云、妻鳥の東宮と云山の上に春宮大明神あり、
   之をトウグウと訓めるは、固と東宮よりうつりしなるへし、
   即軽太子を祭れりと、此山上は真御墓所なり、
   又新浜と云所に東宮石と名付けたる石立てり、
   御船の着き玉ひし所跡なりと云。
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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
自然丘陵(山)の頂部平坦面南西側に築かれている円墳が、
参考地として指定されています。
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参考地墳丘拡大
頂部の台形状の物体は横穴式石室の天井石が露出している事を示しています。

考古学的知見から。。。
▽東宮山古墳(とうぐうざんこふん)
・墳形:円墳 葺石?
・規模:直径14m✖高さ3m
・埋葬主体部:両袖型横穴式石室
       玄室長4.33m✖幅1.95m✖高さ1.7m
・出土品:内行花文鏡、金銅製透彫装身具、耳環、玉類、鈴、
     衝角付冑、柄頭、馬具、須恵器、土師器
・築造年代:6世紀前半~中頃
石室は北西側に開口(主に南西・南東側が多い)している。
昭和34年に宮内庁によって調査されているが、
元は明治27年に地元民が掘った辺りから、遺物の存在は知られていた。
その後明治28年になってから陵墓参考地として指定・管理された。
また、古墳には隣接する春宮神社の付近で、
検出された組合式石棺の部材(緑泥片岩)が3枚現存するが、
これは神社社殿を建築する際に出土した別の古墳のものであり、
その際に出土した銅矛が東宮山古墳からの出土品と一括して、
保管されているが、厳密には東宮山古墳のものでは無い。

「陵墓関係論文集(Ⅰ)」に、
昭和34年に実施された東宮山古墳の調査時の記述が有ります。
また、該当御方に木梨軽皇子を比定してますが、
年代が明らかに違うため、地元有力豪族の墓であると推測されています。

◎木梨軽皇子
・読み:キナシカルノミコ
・生没年:生没年不詳
・続柄:(父)允恭天皇
允恭天皇の第1皇子として生まれる。
同母弟に穴穂皇子(安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)などが居る。
『古事記』によれば、允恭23年に立太子するが、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、
それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。
その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したとされているが、
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、
允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。

:結論:
〇墳丘の築造年代と治定されている人物の時代が合致しない
〇生没年不詳の為、非実在説が有る
〇木梨軽皇子では無く、地元有力豪族の墓である可能性大
〇仮に伊予国に流された皇子の墓だとしても、規模が小ささが不自然
〇参考地指定されているのに、主体部は勿論副葬品まで採集されている謎
=皇子の墓とするなら埋め戻すのが適すと思われるが。。。
〇地元民の発掘前に宮内庁主導で発掘されている
=陵墓の可能性確認の為であっても珍しい
=「静謐を守る」と言ってるのに発掘している矛盾

以上で妻鳥陵墓参考地についての考察を終わります。