皆様おはようございます~(^▽^)
本日は入道塚陵墓参考地について考えてみました(^^
本日は入道塚陵墓参考地について考えてみました(^^
〇入道塚陵墓参考地
・該当御方:淳和天皇皇子恒貞親王(墓未定)
・所在地:京都市右京区嵯峨大澤柳井手町
(現:京都府京都市右京区嵯峨大沢柳井手町24)
・墳形:石廓露出『円丘』
・地況:荒地
・面積:一畝二十歩
・管理:兼勤 嵯峨部
・指定ノ時:明治三十二年十二月二十七日
・考証意見:第三類
・備考:臨時陵墓調査委員会ニ於テ御陵ト決定不適当ト答申、
但シ大覚寺ニテハ御陵ト伝承ス
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
測量時すでに横穴式石室の石材が露出しており、
現在も盛土される事無く現状のままとなってます。。。
羨道部や玄室付近から上記の様な須恵器や土師器の他、
中世頃に崇拝の対象になっていた様で、古銭なども出土してます。
宮内庁管理の参考地なので、勿論一般人は内部に入れません。。。
・・・ので、モノクロではあっても、こうした石室内部を撮影した写真は、
大変貴重だと思います(^^
学会の人間には限定公開として部分的の見学くらいしか許可していないのに、
堂々と発掘まで実施してしまっている矛盾。。。
今回の参考地も『陵墓要覧』に「調査の結果指定解除すべき」と記載されているのに、
未だ解除の動きも気配も無い事が不思議でなりません。
管理を自治体に任せた上で、指定解除と指定史跡への変更を願いたいです。
以上で入道塚陵墓参考地についての考察を終わります。
◎恒貞親王
・生没年:天長2(825)年~元慶8(884)年
・続柄:(父)淳和天皇
淳和天皇の後継とされたが若年であったため、
従兄弟の仁明天皇の即位に伴い皇太子に立てられた。
礼儀を備えており振舞いも美麗であったため、
周囲の期待は有ったが、当時は権力闘争があり、
これを避けるために恒貞親王は度々皇太子辞退を申し入れていた。
これは仁明天皇や嵯峨上皇に保留されていたが、
嵯峨上皇が崩御すると承和の変が発生し、
親王はこれに巻き込まれる形で皇太子を廃された。
廃太子後は出家し、大覚寺の初祖となって仏教に深く帰依した。
享年59歳
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
測量時すでに横穴式石室の石材が露出しており、
現在も盛土される事無く現状のままとなってます。。。
以下に考古学的知見を。。。
墳形:現状方形だが元は円墳
規模:現状東西約10m✖南北約20m
周濠:不明
埋葬主体部:横穴式石室、家型石棺
石室全長11m、羨道長7.3m✖高さ1.2m
玄室長約4m✖幅2.5m✖高さ3m
出土品:富寿神宝4枚、銅製品1個、鉄釘数片、胴釵
土師器長頸壺、須恵器台付壺、同子持台付壺
須恵器装飾付子持台付壺、同装飾付蓋、同高坏、同蓋、同杯身及び蓋
築造年代:6世紀後半
その際の事が「陵墓関係論文集Ⅴ」に掲載されてます。羨道部や玄室付近から上記の様な須恵器や土師器の他、
中世頃に崇拝の対象になっていた様で、古銭なども出土してます。
宮内庁管理の参考地なので、勿論一般人は内部に入れません。。。
・・・ので、モノクロではあっても、こうした石室内部を撮影した写真は、
大変貴重だと思います(^^
先の圓山陵墓参考地同様に、治定されている人物と年代が合致しない為、
規模の大きい石室と家型石棺を造らせる程の権力を有した、
豪族とその一族の古墳であった可能性が高いとされています。
古墳は6世紀後半の築造なのに、治定されている人物は、
9世紀前半~後半頃と300年も離れている上、
薄葬令に伴い火葬された父親(淳和天皇)の皇子なのに、
棺が家型石棺という矛盾。。。
古墳は6世紀後半の築造なのに、治定されている人物は、
9世紀前半~後半頃と300年も離れている上、
薄葬令に伴い火葬された父親(淳和天皇)の皇子なのに、
棺が家型石棺という矛盾。。。
また、現在は円山陵墓参考地と入道塚陵墓参考地の2基のみが現存していますが、
現在高校の校舎やグラウンドが有る位置に、
以前は小型の石室を有した円墳が数基有った模様なので、
以前は小型の石室を有した円墳が数基有った模様なので、
ここは古墳時代後期頃に成立した群集墳の名残りであるとした方が適していると思われます。
尚、現在も考証意見は第三類のまま指定解除の動きも無いので、
早々に国or県指定史跡にして一般に公開すべきと思います。
尚、現在も考証意見は第三類のまま指定解除の動きも無いので、
早々に国or県指定史跡にして一般に公開すべきと思います。
:結論:
〇治定している人物と築造年代が合致しない
〇圓山陵墓参考地墳丘と共に古墳時代後期頃築造された古墳群の1基
〇圓山陵墓参考地墳丘と共に古墳時代後期頃築造された古墳群の1基
〇治定が明治期と比較的新しい
〇備考欄に「陵墓と決定するのは不適当である」としているのに、
治定解除せずに現在に至る謎
=現在も考証意見は第三類(調査の結果指定解除すべきもの)のまま
〇宮内庁書陵部立ち合いのもと、石室内の調査が実施されている
=現在も考証意見は第三類(調査の結果指定解除すべきもの)のまま
〇宮内庁書陵部立ち合いのもと、石室内の調査が実施されている
〇治定されている人物は淳和天皇の皇子であるので、
墓は淳和天皇陵の傍付近に探す方が良いかと思われる
=淳和天皇陵は陵域が広いので域内に散骨された可能性も有るか?
〇治定されている人物の没年齢が当時の平均寿命を超えている
=淳和天皇陵は陵域が広いので域内に散骨された可能性も有るか?
〇治定されている人物の没年齢が当時の平均寿命を超えている
学会の人間には限定公開として部分的の見学くらいしか許可していないのに、
堂々と発掘まで実施してしまっている矛盾。。。
今回の参考地も『陵墓要覧』に「調査の結果指定解除すべき」と記載されているのに、
未だ解除の動きも気配も無い事が不思議でなりません。
管理を自治体に任せた上で、指定解除と指定史跡への変更を願いたいです。
以上で入道塚陵墓参考地についての考察を終わります。
コメント
コメント一覧 (4)
わしは京都市右京区に住んでました、北には一条 後三条陵があり、西にはならびがおか古墳がありました
ここでわしからお願い
ここのサイトの力なら載せられ調べられる御陵です。
わしは南北朝時代の皇子の御陵に今興味があります、後醍醐天皇の皇子たちですが、けいこう天皇ほど古くはなく、記録も残っていると思うので、調べていただきませんか?
このサイトの管理人さんなら、そこまで出来ると思います、是非お願いします
kohunsuki
がしました
南北朝時代の皇子ですと、後醍醐天皇~後陽成天皇辺りまででしょうか?
尚、陵墓地形図集成の書庫にて、各陵墓に治定されている人物を詳細に書いておりますので、そちらを参照頂けますと幸いです(^^
kohunsuki
がしました
後村上天皇の兄弟から長慶天皇(各地に御陵多し)の時代ですよ~
後小松天皇 一休さんはいきすぎですよ。
kohunsuki
がしました
南朝は後醍醐天皇~後亀山天皇、北朝は光厳天皇~後小松天皇までとなっています。
また、南北朝期の終わりは後亀山天皇が後小松天皇に譲位する形で両朝が合一して元中9年(明徳3年)に終わりを迎えてます。
一休さんは後小松天皇の落胤と伝わっていますが、元々私生児は正式な血統の一族にはみなされず、系図にも記載されない場合が多いため、本当に後小松天皇の私生児であるかは裏付けとなる史料が無いため不明です。
一休さんが僧侶になり諸国を巡っていた時は既に室町時代になってます。
kohunsuki
がしました