皆様こんばんは~(^▽^)

本日は圓山陵墓参考地について考えてみました(^^

〇円山陵墓参考地(『事典 陵墓参考地』より引用)
該当御方:淳和天皇皇后正子内親王(陵未定)
所在地:京都市右京区嵯峨大覚寺門前登リ町
墳形:円丘
地況:周囲田畑
面積:二反一畝七歩
管理:兼勤 嵯峨部
指定ノ時:明治三十二年十二月二十七日
考証意見:第三類
備考:臨時陵墓調査委員会ニ於テ御陵ト決定不適当ト答申
   但シ大覚寺ニテハ御陵ト伝承ス『大覚寺移管』
20210413_164024207
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
墳頂部近くと西側に見られる窪みは盗掘口(墳頂部)の名残りで、
墳頂部直下の南側に記載されているのは、石室石材の露出を示してます。
勿論、現在は埋め戻し工事が実施されています。
20210413_164029190
墳丘実測図 拡大
現在は墳丘の東側~南側にかけて、
京都府立北嵯峨高等学校の敷地に面してます。
尚、西側は宅地、北側は宅地と水田に囲まれている状態となってます。

以下に考古学的データを。。。
墳形:円墳
規模:直径50m✖高さ約9m
周濠:幅17m前後
埋葬主体部:横穴式石室、家型石棺2
      石室全長14,7m、羨道長9,3m✖幅2m✖高さ2,4m
      玄室長5,4m✖幅3,2m✖高さ4,5m
出土品:金環、環頭把頭、環頭大刀刀装具片、金銅辻金具
    土師器坩、須恵器壺、はそう、新式須恵器瓶子、同小型瓶子
築造年代:6世紀後半

この陵墓参考地は昭和26年と33年に詳細な調査が実施されており、
その詳細は「陵墓関係論文集Ⅴ」に、墳丘及び石室実測図付きで掲載されています。
20210427_175437634
20210427_175515281
20210427_175523334
モノクロ写真ですが、石室内部や家型石棺石材残存部の状況、
出土品などが掲載されています。

治定されている人物について。。。
◎正子内親王
・生没年:大同4(810)年~元慶3(879)年
・続柄:(父)嵯峨天皇/淳和天皇皇后
嵯峨天皇の皇女として生まれるが、同母兄弟である、
仁明天皇も同年の生まれの為、双子のきょうだいであったと考えられる。
弘仁14(823)年頃、叔父淳和天皇に入内。
天長4(827)年皇后に冊立し、同10年に淳和天皇が退位し皇太后となる。
容貌美しくしとやかな優しい女性で、母の徳もよく備えていたとされる。
出家後は大覚寺に済治院(僧尼のための医療施設)を置き、
淳和院を道場にするなど、仏教に篤く帰依して救民に力を尽くした。
享年70歳。

この参考地は、9世紀前半~後半頃の人物の墓として、
6世紀後半頃築造の古墳を充てている事が最大の矛盾
となってます。
大覚寺に「御陵」とする伝承が伝わっているそうですが、
必ずしも「御陵=皇族」では無い様に思いますし、
「規模の大きな古墳=高貴な人物の墓」とも一概に言えないかと思います。

伝承が有っても、元々有った古墳を再利用した旨の記載は無く
また、調査の結果、横穴式石室内には2基の家型石棺が有った事が判明しており、
他に木棺などの追葬の痕跡は確認されておらず、再利用した可能性は否定されています。
その結果、治定されている正子内親王では無く、6世紀後半頃に当地を治めていた、
首長とその夫人または子息などの身内が合葬されていると思われます。
尚、淳和天皇は薄葬を命じているのに、皇后の棺が家型石棺というのも矛盾してます。
陵墓関係論文集の記事内でも、「治定されている人物とは考えにくい」と、
断じているのに、未だ治定解除の動きは有りません。。。
しかも考証意見も第三類(調査の結果指定解除すべきもの)となっているのに。。。

:結論:
〇治定されている人物と墳丘の築造年代が合致しない
〇淳和天皇は薄葬を命じているのに、皇后の棺が家型石棺という矛盾
〇考証意見が第3類と、「陵墓の可能性は低い」事を認めているのに、
 未だ治定解除しない謎
〇淳和天皇の皇后は、淳和天皇陵と同一陵域内もしくは近くに有るのでは?
〇正子内親王の崩御年齢が長すぎて不自然(当時の平均寿命は30代である)
=幾ら庶民に比べて衣食住環境が良かったと考えても不自然な寿命の長さが疑問

以上で圓山陵墓参考地についての考察を終わります。