関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は雲部陵墓参考地について考えてみました(^^

〇雲部陵墓参考地
・該当御方:開化天皇皇孫 
      彦坐王王子丹波道主命(墓未定)
・所在地:兵庫県多紀郡雲部村大字東本荘村
・墳形:前方後円 周濠 陪塚二
・地況:山林
・面積:本墳 二町七反三畝十九歩 
    陪塚(二) 九畝十八歩
・指定ノ時:明治三十二年七月六日
・考証意見:第二類甲『第一類』
・備考:出土品ニ武器多シ 京都大学保管
    『明治廿九年五月十九日石棺発見』
20210506_175517223
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
くびれ部に造出が付かない形態の前方後円墳です。
墳丘の南北に1基づつの2基の陪塚が、宮内庁から指定・管理されています。
後円部西側の自然丘陵上にも指定外ですが、1基陪塚とされているものが有ります。
20210506_175523583
参考地墳丘実測図 拡大
考古学的見分を以下に。。。

▽雲部車塚古墳
・墳形:前方後円墳 2段築成 葺石
・規模:古墳総長(周濠を含めた長さ)250m
    全長140m(推定復元158m)
    後円部径80m(推定復元104m)×高さ13m
    前方部幅89m(推定復元112m)×高さ11m
    くびれ部幅62m 
・周濠の有無:有
・埋葬主体部:竪穴式石室、長持型石棺
       石室長さ5,2m×幅1,5m×高さ1,5m
       石棺サイズ長さ2,1m×幅1m 縄掛突起6個
       北側にも同規模の埋葬主体部推定
・出土品:刀34、剣8、鉾2、冑4、鎧胴5、鉄鏃107、
     不明鉄製武具2、武器掛具2、埴輪、須恵器
・築造年代:5世紀中頃
埋葬施設は竪穴式石室で内部に組合式の長持型石棺が置かれている。
この石室は明治29(1896)年に発掘され、その様子が記録されている。
これによると石室は後円部墳頂部の中央やや南寄りに位置し、
石室周囲には方形の埴輪列が有った。
石室は方形の割石積で内壁に朱が塗られ、
床面には白色の玉石が敷かれていた。
尚、石棺は開かれていないため内部の副葬品は不明だが、
石棺の周囲から甲冑、刀剣など多数の副葬品が出土している。
尚、この竪穴式石室が後円部中央でなく南寄りに位置することから、
室宮山古墳(奈良県御所市)の様に、
埋葬施設が複数ある可能性が指摘されている。
考古学的には、南側石室の被葬者は、
副葬品の多様な武具の存在から男性と推測される。
本古墳が5世紀中頃に突如出現する大型古墳である点や、
畿内大王墓に見られる長持型石棺を使用するなど、
大王墓と共通する画一性を持つ点から、
ヤマト王権と密接な関係を持ち王権から派遣された人物の可能性が推定される。
ただし、宮内庁が候補に挙げている丹波道主命の場合、
崇神天皇の実在を仮定すると丹波道主命の活躍時期は、
4世紀前半頃となり、年代的に大きな隔たりが生じるため、
治定には否定的な見解が強い。

〇丹波道主命
読みはたんばのみちぬしのみこと/たにはのみちぬしのみこと
生没年不詳
開化天皇の皇孫で、景行天皇の外祖父にあたる。
四道将軍の一人で、丹波に派遣されたと伝わる。
尚、『古事記』では丹波に派遣されたのは丹波道主命ではなく、
父の彦坐王と記載し、丹波道主命の事績の欄は空白です。

:結論:
〇古墳の築造年代と治定されている人物の年代が合致しない
〇人物の実在性に疑問が有る
=生没年不明な上、『古事記』では事績の記録が無い
=神谷太刀宮神社(京都府京丹後市)の祭神(神様という事は人物としては実在しない)
=父親の彦坐王も実在しない人物とされている
〇丹波道主命の墓では無く、5世紀中頃に当地を治めていた有力豪族の墓であるとされる

以上で雲部陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は黄金塚陵墓参考地について考えてみました(^^

〇黄金塚陵墓参考地
・該当御方:天武天皇皇子 舎人親王(陵未定)
・所在地:奈良県添上郡帯解町大字田中字上ノ口
     (現:奈良県奈良市田中町573)
・墳形:方丘
・地況:樹林
・面積:七畝二十七歩『(二三七坪)』
・指定ノ時:明治二十四年九月十九日
・考証意見:第二類『第一類』
・備考:『扉ヲ開キ内部構造ミラレ極メテ立派』
    『出土品 石槨片一』
    『明治廿三年三月開墾ノ時槨出ヅ(遺物ナシ)
     百六十年許前一度発掘石棺を割出ス
     廿年余前ニ墳墓背面ノ両隅ヨリ古鏡発見
     「トノ塚」トモ云フハ「トネリ」ノ誤カ
     附近ニ「大字垣内」「トネリ」「トネリノ鏡池」
     「トネリ坂」アリ、万葉ノ歌アリ』
尚、現在では墳丘背面から出土したとされる古鏡(銅鏡)について、
遺物が散逸してしまっており、現在は所在不明となってます。
また、該当御方が舎人親王になってますが、
舎人親王の時代に石槨(石棺?)が有るという不思議な点も気になります。
20210506_175623383
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
考古学的名称は帯解黄金塚古墳と呼ばれ、
横穴式石室が開口(常時施錠、一般人の見学不可)している、
大型の方墳となります。

まずは考古学的データを。。。
▽帯解黄金塚古墳
・墳形:方墳 2段築成
・規模:一辺30m(2009年に範囲調査)
・周濠の有無:有 空濠 外堤
・埋葬主体部:磚積両袖型横穴式石室
       全長12,5m 
       玄室長3m✖幅3,3m✖高さ2.6m
       羨道長9,5m✖幅1,5m✖高さ1,3m
・出土品:土師器(把手付甕片)、須恵器(杯蓋片✖2)
・築造年代:7世紀中葉
石室の羨道部が3mおきに柱状の括れ部で3室に分けた様な、
独特の形状・雰囲気を感じるのが特徴で、
部分的だが壁面全体に漆喰が残っている。
墳丘裾に沿って石列と石敷きが巡っている。
外堤を含む範囲は東西120m×南北65mに及ぶ。
埋葬主体部はレンガ状に加工した石材(磚)を、
積み上げて構築された横穴式石室で、
奈良盆地北部では唯一の例とされている。
宮内庁は天武天皇の皇子で日本書紀を編集した、
舎人親王の墓に指定しているが、
舎人親王の時代よりも古く時代が合わない為、
推古~舒明天皇の時代に活躍した皇族か、
トップクラスの豪族との見解ですが、誰か?までは現在も未定。。。
その他、蘇我石川麻呂の名前も候補に挙がっていますが、
周辺に蘇我氏関連の古墳や居宅跡が無い事や、
墳丘の築造年代も合わない事で、仮説の域を出ていません。

該当御方とされている人物については以下に。。。
〇舎人親王
読みはトネリシンノウ
生没年は天武天皇5年(676)~天平7年(735)
天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王と共に、
皇親勢力として権勢を振るう。
『日本書紀』の編纂に関わった人物として知られている。
享年60歳

人骨から平均寿命を割り出した研究結果によると、
飛鳥~奈良時代頃は28~33歳となっている事から、
庶民よりも良い衣食住環境であったとしても、
60歳は長すぎて不自然に思います。

陵墓関係論文集Ⅶにはカラー写真で、
貴重な石室内部の様子が掲載されていますが、
「陵墓地形図」の書庫で書いている、
「陵墓地形図 黄金塚陵墓参考地 奈良県の陵墓」
https://livedoor.blogcms.jp/blog/kohunsuki/article/edit?id=802304
にて掲載しておりますので、そちらを参照ください。

個人的に気になった点としては、
天武天皇の皇子で有るならば、天武・持統天皇檜隈大内陵の近くで、
同じ八角形か方墳などの多角形墳丘が適していると思われますが、
現在上記大内陵の近くにある八角形墳は真の文武天皇陵とされる、
中尾山古墳のみなので、他に探す必要が有ると思われます。
尚、黄金塚陵墓参考地と天武・持統天皇檜隈大内陵までの距離は、
最短距離でも23km程離れています。
当時実力のあった皇子の墓が、両親が眠る陵地から遠く離れた地に治定されている点が、
不自然に思います。
当地に治定した経緯は公表されていませんが、おそらく周辺に有る、
「トノ」や「トネリ」という名前から決定されたと思われますが、
石室内部や墳丘から被葬者が舎人親王と確定しうる遺物が出土した訳では無いので、
当参考地墳丘が即舎人親王の墓と断定するには時期尚早に思います。

:結論:
〇舎人親王の時代と墳丘の築造年代が合致しない
〇石槨(石棺)が舎人親王の時代に有るという事が変
=トップクラスの皇族なので夾紵棺(乾漆棺)と思われるが。。。
〇石室規模や構築方法、墳丘規模から皇族もしくはトップクラスの豪族が、
 埋葬されているとされるが、今のところ有力な候補者が不在
〇蘇我石川麻呂の墓ともされるが、やはり年代が合致しない
〇陵墓参考地なのに、石室が開口(常時施錠&一般人の見学不可)したままなのが謎
=妻鳥陵墓参考地は調査後埋め戻されているのに。。。
〇調査が実施された際に既に盗掘済みだった為、出土品が須恵器と土師器のみ
=以前に出土したとされる古鏡や石槨片は所在不明

以上で黄金塚陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は小奈辺陵墓参考地について考えてみました(^^

考古学的名称はコナベ古墳と呼ばれる前方後円墳で、
周囲に多数の陪塚を伴う事でも知られています。

〇小奈辺陵墓参考地
・該当御方:仁徳天皇皇后 磐之媛命(陵既定)
・所在地:奈良市法華寺町小奈辺
     (現:奈良県奈良市法華寺町1804)
・墳形:前方後円(周濠ハ民有)陪塚七
・地況:樹林
・面積:本墳 二町四反三畝一歩
    陪塚(七)四反三畝二十三歩
・指定ノ時:明治十八年四月六日『法華寺住職献上』
・考証意見:第二類
・備考:『こなみ・前妻 嫡妻』
20210506_175733068
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210506_175737615
参考地実測図拡大
くびれ部の左右両側(東西)に造出が付きます。
後円部頂部平坦面はやや東西に長い楕円形状で、
前方部南側端に台形状の平坦面が確認できます。

考古学的見地を以下に。。。
▽コナベ古墳
・墳形:前方後円墳 3段築成 葺石
・規模:全長204m
    後円部径125m×高さ20m
    前方部幅129m×高さ17,5m
・周濠の有無:有 盾型
・埋葬主体部:不明(『廟王記』には石棺が有る事が記載されている)
・出土品:円筒埴輪、形象埴輪(家)
・築造年代:5世紀前半
・備考:陪塚10基(内7基が宮内庁の指定)
隣接するウワナベ古墳と共に全長200mを超える規模を有しています。
このことから両古墳の被葬者の間に密接な関係が考えられるが、
コナベ古墳の方が年代的にやや古いとみられており、
ウワナベ古墳の先代豪族が埋葬されていると推定されています。
尚、墳形が市庭古墳や誉田御廟山古墳との相似関係が指摘されている
三段築成のそれぞれの段に円筒埴輪列が有ることを確認している。
元禄9(1696)年の松下見林『前王廟陵記』には、
墳丘内の石材の露出と円筒埴輪、葺石の検出について記されている。
また、明治初年に大阪の造幣局技師として日本に招かれた、
イギリス人ウィリアム・ゴーランドの実測図によって海外に紹介されている。
被葬者は不明であるが、江戸時代には元正天皇の陵墓とみなされた一時期が有った。
昭和54(1979)年に奈良市教育委員会が行った、
前方部南側の外堤護岸工事のための発掘調査で、
0,5m間隔で並ぶ円筒埴輪列を発見している。
平成9(1997)年に奈良県立橿原考古学研究所によって行われた調査では、
外堤部で埴輪列を検出・確認し、その東側で外周溝も確認しており、
外周溝の中から三角板革綴短甲の破片や鉄鏃が出土している。
2008~2009(平成20~21)年に行われた調査では、
宮内庁による西側造出の護岸工事に伴う事前調査で、
葺石の他、柵形・蓋形・家形などの形象埴輪の他、
直径約20cmの円筒埴輪21点を検出し、
橿原考古学研究所が実施した西側外堤部分の発掘調査では、
奈良時代の整地層において、緩やかな勾配をもつ石敷遺構が確認され、
奈良期の天皇や皇族が宴会や騎射、曲水の宴などを催したとされる、
平城宮の外苑「松林苑」の一部ではないかとされている。

磐之媛命に陵は既に治定済みなのに、
この古墳にも該当御方として治定
されています。。。
治定当時の宮内省(現:宮内庁)内で、
治定段階で意見が割れていた証拠であるとされています。
そして現在も二重治定という稀有な状態のまま治定解除もされていません。
何故コナベ古墳に磐之媛命を治定したのかの明確な理由を、
公開して欲しいと思います。。。
尚、当然ですが磐之媛命の時代と古墳の築造年代は合致していません。。。

:結論:
〇ウワナベ古墳に先行して築かれた可能性が高い事から、
 ウワナベ古墳埋葬者の先代豪族が埋葬されていると思われる
〇宮内庁が被葬者として充てている磐之媛命の陵は、
 北方向のヒシアゲ古墳に指定されているのに、もう1基指定している謎
=宮内庁内部で考証意見が割れた結果である可能性大
〇磐之媛命の時代と古墳の築造年代が合致していない

以上で小奈辺陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は宇和奈辺陵墓参考地について考えてみました(^^

〇宇和奈辺陵墓参考地
・該当御方:八田皇女(陵未定)
・所在地:奈良市法華寺町字宇和奈辺
     (現:奈良県奈良市法華寺町1823)
・墳形:前方後円(周濠ハ民有)陪塚二
・地況:樹林地
・面積:本墳三町十五歩
    陪塚(二)一反六畝二十七歩
・指定ノ時:明治十八年四月六日『法華寺住職献上』
・考証意見:第二類

◎八田皇女
・生没年:生没年不詳
・続柄:仁徳天皇皇后/(父)応神天皇
仁徳天皇の異母妹だが、美麗の持ち主だったため、
天皇の寵愛篤く、皇后磐之媛の不在の隙をついて皇妃に迎えられた。
これに激怒した磐之媛は宮殿を出て山城の筒城宮へ閉じこもってしまった。
天皇の説得にもかかわらず磐之媛は同地で崩御したため、
八田皇女は正式に皇后に立てられた。
20210506_175648399
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
20210506_175745460
参考地部分拡大
考古学的名称はウワナベ古墳と呼ばれている前方後円墳となります。
陵墓地形図集成には周囲に2基の陪塚を伴うと記載されていますが、
現在は墳丘東側の飛地い号しか残っていません。

くびれ部西側にのみ造出が付く形態の前方後円墳です。
地形図を見ると、後円部頂部平坦面が広いので、
複数の埋葬主体部が埋蔵されていると考えられ、
また、前方部頂部にも方形の土壇が有り、
東側隅に楕円形状の土盛りが見られる事から、
この部分にも何らかの埋葬施設が有ると思われます。

考古学的見地からの詳細を以下に。。。
▽ウワナベ古墳/宇和奈辺古墳
・墳形:前方後円墳 3段築成 葺石
・規模:全長250m
    後円部径130m×高さ19,8m
    前方部幅130m×高さ16m
・周濠の有無:有 二重(現在は一重)
・埋葬主体部:竪穴式石室
・出土品:埴輪(円筒、形象)、魚形土製品、土師器
・築造年代:5世紀中頃
・備考:陪塚6基(5基は消滅、1基現存)
全国第12位の規模を誇る。
西側くびれ部にのみ造出が付く形態。
1969年に行われた調査で、
周濠の外堤の外に幅10mの外濠が検出され、
そこに円筒埴輪列も見つかっている。
その後外堤上からも円筒埴輪列が見つかった。
江戸時代には元明天皇陵に当てられた事も有るが、
時代的に合わず、古市古墳群や百舌鳥古墳群と共通点が多い事より、
河内の大王陵と密接な関係が有るとみられ、
被葬者は仁徳天皇の妃、もしくは皇子・皇女等の説があるが、
現在は当地を治めていた権力者(豪族)の墓であると推定されている。
古墳名は、ウワナリ(前妻という意味)が訛ったものとされている。
ちなみに、コナベ古墳の名前は、コナミ(後妻)が訛ったものとされている。
また、2020年に実施された宮内庁・奈良市教育委員会・橿原考古学研究所の、
3団体合同発掘調査により、墳丘の裾が確認された事で、
従来よりも一回り墳丘が大きくなる事が判明しており、
全長は270~280mと奈良県内でも屈指の規模を持つことが判明し、
規模も全国13位から12位にランクアップしてます。
隣接するヒシアゲ古墳やコナベ古墳や周囲に散在する古墳群などと共に、
当地を治めていた有力豪族の一大墓群であると考えられています。

:結論:
〇治定されている人物は生没年が不明な事から実在性に疑問が有る
〇墳丘形態が古市や百舌鳥古墳群と共通点が多いとされるが、
 皇女や天皇陵などでは無く、当地を治めていた豪族の墓であるとされる
〇仮に皇女が実在したとしても、墳丘の築造年代が仁徳天皇の時代とは合致していない
〇墳丘北側に有った陪塚ろ号は消滅済み
=参考地指定するなら保存すべきだったのでは?

以上で宇和奈辺陵墓参考地についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は妻鳥陵墓参考地について考えてみました(^^

尚、妻鳥は「めんどり」と読みます。
山頂に築かれた円墳で発掘調査の結果、
豊富な副葬品や人頭大の石材で構築された、
両袖型横穴式石室の存在が知られています。

〇妻鳥陵墓参考地
・該当御方:允恭天皇皇子木梨軽皇子(墓未定)
・所在地:愛媛県宇摩郡妻鳥村字春宮山
     (現:愛媛県四国中央市妻鳥町2524)
・墳形:円丘 『横口式?』
・地況:山頂、春宮神社ト同域ナリ
・面積:二畝二十『十二』歩
・指定ノ時:明治二十八年十二月四日
・考証意見:第二類
・備考:出土品保管(御物五件、外十件)
  ・「大日本地名辞書」明治三十三年
    妻鳥の東宮山に軽太子(允恭帝東宮)の御墓ありと伝ふ。
    軽太子は書紀には「一云伊豫国」と注し、
    旧事記には「一云流伊豫国在簿」と注す。
  ・愛媛面影云、妻鳥の東宮と云山の上に春宮大明神あり、
   之をトウグウと訓めるは、固と東宮よりうつりしなるへし、
   即軽太子を祭れりと、此山上は真御墓所なり、
   又新浜と云所に東宮石と名付けたる石立てり、
   御船の着き玉ひし所跡なりと云。

20210506_181022227
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体図
自然丘陵(山)の頂部平坦面南西側に築かれている円墳が、
参考地として指定されています。
20210506_181029671
参考地墳丘拡大
頂部の台形状の物体は横穴式石室の天井石が露出している事を示しています。

考古学的知見から。。。
▽東宮山古墳(とうぐうざんこふん)
・墳形:円墳 葺石?
・規模:直径14m×高さ3m
・埋葬主体部:両袖型横穴式石室
       玄室長4,33m×幅1,95m×高さ1,7m
・出土品:内行花文鏡、金銅製透彫装身具
     耳環、玉類、鈴、衝角付冑、柄頭、馬具
     須恵器、土師器
・築造年代:6世紀前半~中頃
石室は北西側に開口(主に南西・南東側が多い)している。
昭和34年に宮内庁によって調査されているが、
元は明治27年に地元民が掘った辺りから、遺物の存在は知られていた。
その後明治28年になってから陵墓参考地として指定・管理された。
また、古墳には隣接する春宮神社の付近で、
検出された組合式石棺の部材(緑泥片岩)が3枚現存するが、
これは神社社殿を建築する際に出土した別の古墳のものであり、
その際に出土した銅矛が東宮山古墳からの出土品と一括して、
保管されているが、厳密には東宮山古墳のものでは無い。

「陵墓関係論文集(Ⅰ)」に、
昭和34年に実施された東宮山古墳の調査時の記述が有ります。
また、該当御方に木梨軽皇子を比定してますが、
年代が明らかに違うため、地元有力豪族の墓であると推測されています。

◎木梨軽皇子
・読み:キナシカルノミコ
・生没年:生没年不詳
・続柄:(父)允恭天皇
允恭天皇の第1皇子として生まれる。
同母弟に穴穂皇子(安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)などが居る。
『古事記』によれば、允恭23年に立太子するが、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、
それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。
その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したとされているが、
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、
允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。

:結論:
〇墳丘の築造年代と治定されている人物の時代が合致しない
〇生没年不詳の為、非実在説が有る
〇木梨軽皇子では無く、地元有力豪族の墓である可能性大
〇仮に伊予国に流された皇子の墓だとしても、規模が小ささが不自然
〇参考地指定されているのに、主体部は勿論副葬品まで採集されている謎
=皇子の墓とするなら埋め戻すのが適すと思われるが。。。

以上で妻鳥陵墓参考地についての考察を終わります。

↑このページのトップヘ