関東の古墳&陵墓研究

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

皆様おはようございま~す(^◇^)

110陵墓目はコチラ。。。
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御室陵墓参考地之圖
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墳丘部分拡大。
方形の区画内に高さ2~3m前後で、頂部の平坦面が広い墳丘が有りますが、
形状は円丘(『事典陵墓参考地』)だったり、方丘(ネット等)だったりと、
決着は着いて無い模様。。。
地形図集成には陵墓等所在地一覧には記載されてますが、形状までは記載されてません。
墳形確認調査だけでも実施して円か方か決着して欲しいですね(^^

『事典陵墓参考地』より
◎御室陵墓参考地
・該当御方:光孝天皇
・所在地:京都市右京区御室大内
・墳形:円丘
・考証意見:第二類
考証意見は第二類で、「陵墓の関係を否定し難く保存すべきもの」
・・・として、陵墓の可能性が有るとされてます。
現在宮内庁より治定&管理されている、光孝天皇陵(後日紹介予定)よりも、
コチラの御室陵墓参考地の方が、可能性は高い様ですが、
陵墓要覧などを見ても、御室地内に葬られたのは確かだが
現陵も100%光孝天皇の陵墓だと言える自信が無い模様(^^;
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駒札と参考地全景。
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内部の墳丘。
古墳時代の古墳なのか、奈良時代以降に造られた墳墓なのかはっきりする為にも、
調査をして欲しいですね(^^

:御室陵墓参考地:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:京都府京都市右京区御室大内
・面積:518㎡
・陵墓の形態:円丘もしくは方丘
・考証意見:第二類
・該当御方:光孝天皇

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109陵墓目はコチラ。。。
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円融天皇後村上陵之圖
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陵墓部分拡大。
公式形式は「円丘」となってますが、南北に少々長い楕円形状の円丘です(^^
測量は昭和4年で地形図が作成されたのは翌年の昭和5年なので、
陵墓の周囲は野原が広がってますが、現在は宅地化が進み住宅地のど真ん中に有ります(^^;
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円融天皇の肖像画。
顎鬚が無いので、端正な顔立ちに見えますね(^^

〇円融天皇
・生没年:天徳3(959)年~正暦2(991)年
・続柄:(父)村上天皇
・第64代天皇
村上天皇の第5皇子として生まれる。
兄の冷泉天皇が心の病を患っていた事から、11歳で譲位を受け即位する。
藤原氏の勢力争いに翻弄され、満足に政治に関われないまま、
永観2(984)年に、懐仁親王の立太子を条件に花山天皇に譲位。
その後は上皇として、詩歌管弦の遊楽や石清水八幡宮、
石山寺、南都諸寺への御幸を行った。
宝算33歳。
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制札
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参道入り口から見た陵墓全景。
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拝所から見た陵墓全景。
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中央に墳丘が見えます。
高さは2m前後とそれほど高く無い様なので、拝所からこうして墳丘が見える模様。
天皇陵といえば背の高い生垣や、深い堀で囲まれていて外部からは、
内部の様子が伺い知れない場合が多いですが、ここは陵墓本体の周囲は生垣で囲まれていて、
オープンで身近な雰囲気が有る様に感じますね(^^;

:円融天皇後村上陵:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/250
・所在地:京都府京都市右京区宇多野福王子町
・面積:3088㎡
・陵墓の形態:円丘

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108陵墓目はコチラ。。。
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村上天皇村上陵之圖
円融天皇火葬塚や後日紹介予定の嵯峨天皇陵などの様に、山頂に造営された天皇陵です。
見学に行くのは大変ですが、見晴は抜群とのことなので、
一度訪問してみたい陵墓だったりします(^^
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陵墓部分拡大。
八角形状の陵域内に円丘が有り、円丘の背後には水を湛えた池が有ります。
この池が造営当時から有るのかは不明ですが、堀の代わりとして設置された物なのでしょうか?
尚、この池はグーグルマップでも確認できます(^^

少々長いですが、手持ちの史料『文久山陵図』の後頁に掲載されている、
『山陵考』の村上陵の項目を。。。

「村上天皇の陵なり、山城国葛野郡田邑郷北長尾の村上といふ
地にありけむを、今ハその村上といふ地名は亡(ウ)せ、
長尾といふ名ハ福王子村に形はかり存(ノコ)りたれと、
其わたりに、御陵ならむと思るる処もつゆ聞えす、
長治三年の中右記に、仁和寺の覚行法親王、
北院僧房を造給ひしとき、後田邑陵と彼房ノ西築垣と相接たりし間、
下人等誤てかの、山陵の東辺の土を堀取たりしに依て実検使を立給へりしに、
この邑上陵をも実検させ給へりし趣ミえたる、その実検使の状に、
実検 後田邑井 村上二陵破損事、後田邑新陵損 陵東辺三箇所云々、
邑上陵加実検之処、全無破損、四至不分明之由、
寺家同所申也、右依ニ 宣旨、実検如レ件、長治三年二月十三日・・・、
とミえて、後田邑陵の東辺を堀損たりし由を聞食て 村上陵の辺をも
堀損せむかと疑おもほして実検させ給へりしに依て、思ふに此 村上陵ハ
後田邑陵に程遠からぬ地に在けむ趣知られたり、さて此 御陵のことの諸書に
ミえたる中に、日本紀略に、康保四年六月四日辛酉、
今夕奉レ土ニ葬於山城国葛野郡田邑郷北中尾、九日丙寅
村上御陵可殖樹之由、被仰左右衛門、又可レ充ニ陵戸伍烟官符アリとミえ、
仁安三年の人車記に、四月卌日辛酉の条に、村上ハ村上天皇御陵、
在ニ仁和寺西とミえ、治承四年の山槐記七月一日辛未の条に、
村上ハ在ニ仁和寺ノ長尾とミえ、類聚大補任に 山陵在村上とミえ、
栄花物語に、御さうそうの夜ハ云々、村上といふ処にそおはしまさせけるなと見えて、
仁和寺の西のかた長尾の村上といふ地にありけむことは知られたるを、
今その長尾とよふわたりより始めて仁和寺わたりまて普く尋奉れとも
御陵ならむと思はるる処ハ更にあることなし、故おもふに
御父帝の 後山科陵の制度にならひ給ひてもとより丘陵の形ハ造り給はす、
ただ平坦の 御陵にてありけむ、かくに荒れはててハ、
容易(タヤス)く知られす失ゆきたりしものにぞありけむ、
猶後人よくよく考尋奉りてよ」

・・・おそらく修陵の手が入る前は、盛土の無い平坦な土地で、
陵地と思しき場所は土地の住民によって掘り返されたりするなどして、
荒廃していた事が伺えます。
当時の地名の呼び方で、
山城国葛野郡田邑郷北長尾(現:京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷)に村上という地名が有った事や、
この地に村上天皇陵を治定した理由も合わせて書かれている事から、
現在治定されている村上天皇陵は、文治年間に造られた陵墓である事が分かります。
円丘背後の池もおそらくこの時に造られた物かと思われます。
・・・という事は、村上天皇の陵墓はココでは無く、
別の場所に有るという事になります
ね。。。
真の陵墓は何処に有るのでしょう?(^^;
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村上天皇の肖像画。

〇村上天皇
・生没年:延長4(926)年~康保4(967)年
・続柄:(父)醍醐天皇
・第62代天皇
醍醐天皇の第10皇子として生まれる。
第61代朱雀天皇の同母弟。
天慶7(944)年4月に皇太子となり、
同年9月に朱雀天皇の譲位により践祚し同月に即位した。
先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、
天暦3年に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、
延喜時代とともに親政の典範とされた。
平将門・藤原純友の起こした承平天慶の乱の後、
朝廷の財政が逼迫していたので、倹約に務め物価を安定させた。
文治面では天暦5(951)年に『後撰集』の編纂を命じたり、
内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても、後世に評価される。

また琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。
42歳で崩御。
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制札
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陵墓全景。
円丘自体の高さは地形図の等高線から推測して、3m前後程度でしょうか?

:村上天皇村上陵:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷
・面積:2842㎡
・陵墓の形態:円丘
・備考:江戸期に造営された為、真陵でない可能性有り

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107陵墓目はコチラ。。。
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宇多天皇大内山陵之圖
龍安寺境内陵墓群から、更に北西の方向の山中に造営された陵墓です。
後で航空写真を掲載しますが、清和天皇陵と同じくらい、
人里離れた寂しい山中に造られてます(^^;
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陵墓部分拡大。
等高線から推測できる高さは1.5~2m程でしょうか?
火葬してからそのまま土を盛って陵墓とした様なので、
火葬塚と陵墓を兼ねている、珍しい例とも言えますね(^^
墓の周囲には空堀が巡らされてます。

〇宇多天皇
・生没年:貞観9(867)年~承和元(931)年
・続柄:(父)光孝天皇
・第59代天皇
光孝天皇の第7皇子として生まれる。
仁和3(887)年立太子したその日のうちに、
光孝天皇が崩御したため践祚し、同年内に即位した。
学問の神様として祀られている菅原道真等を抜擢し、
遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、
昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、
官庁の統廃合などが行われた。
陵墓の公式形状は方丘。
火葬後、拾骨しないまま土で覆って陵とされた
が、
所在は早くに失われ、
江戸時代末になってから現在の大内山陵に治定された。
宝算64歳
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制札
最近立替られたのでしょうか?
文字が記載されている板が綺麗ですね(^^
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拝所から見た陵墓全景。
鳥居の奥に向こうの景色が見えてるので、墓自体の高さはあまり無い様に思われます。

:宇多天皇大内山陵:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/300
・所在地:京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷
・面積:2006㎡
・陵墓の形態:方丘、空堀

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龍安寺境内陵墓群ラストである、106陵墓目はコチラ。。。
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円融天皇火葬塚之圖
八角形状の陵域内に、頂部が大きく抉られた様な状態になっている円丘が有ります。
高さは等高線から推測して4~5m程でしょうか?(^^
この頂部の抉れですが、盗掘口的な跡でしょうか?
現在もこの抉れの様な地形は残存しているのかは不明です。
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位置は一条・堀河天皇陵を更に登った先で、朱山の頂上に有ります(^^
見晴しは抜群だそうですが、体力に自信の無い自分には見学は不向きかも?(^^;
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制札
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火葬塚全景。
円融天皇の陵墓は山を下りて、ココから更に西側に有る、山の麓に造営されてます。
ココで荼毘に付す為に山を登り降りしたのは、さぞや大変だったでしょうね~(^^;

:円融天皇火葬塚:
・測量年:昭和4年
・原図縮尺:1/500
・所在地:京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内
・面積:1055㎡
・陵墓の形態:円丘
・備考:火葬塚

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