関東の古墳&史跡探訪

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

皆様こんにちは~(^▽^)

前回の大碓命墓考察から日が経ってしまいましたが、
本日の題材の小碓命についてあれこれ調べていたのと、
本業が多忙だった為、なかなか更新できませんでした(汗

・・・そんな訳で早速今回のお題である、
小碓命の墓について考えてみました(^^

まず、小碓命は景行天皇の皇子として生まれ、
先に考察した大碓命とは双子と書きましたが、
ヤマトタケル日本武尊と書いた方が分かり易い人物と思われます(^^

〇ヤマトタケル/日本武尊/小碓命
景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父に当たる人物で、
熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄であるが、
生年は不明、没年は景行天皇43年頃没と記載があるものの、
それが西暦何年頃になるかは諸説有る。
『日本書紀』では主に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、
『古事記』では主に倭建命(ヤマトタケルノミコト)と表記される。
現在では漢字表記の場合に「日本武尊」の用字が通用される。

まずは治定されている3基の墓を1基づつ。。。

20210413_162707215
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇能褒野墓:三重県亀山市田村町
      考古学的名称は能褒野王塚古墳
      全長90mの前方後円墳
      4世紀末の築造と推定
仮に小碓命が実在したとしても、時代は弥生時代中期~後期頃である為、年代が合致しない。
周囲に多数の陪塚を伴うが、前方後円墳に埋葬されている人物の、
従臣や親族の古墳群であるとされる。

20210413_162717800
墳丘実測図拡大(見易くする為に画像を傾けてます)
後円部頂部平坦面上の北西側端に更に1段高くなった箇所が有る為、
この直下に主体部が有るものと想定されています。
また、前方部頂部にも方形の土壇が有る為、
こちらにも何らかの主体部が有るとされています。
周濠が墳丘の周囲に巡っている様に見えますが、
宮内庁の治定を受けて改修された際に造られた周堤と思われます。
北西から南西に掛けての部分が台地縁辺に接している事から、
相当な権力を有していた豪族の墓と思われます。

20210413_162931811
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇白鳥陵:奈良県御所市富田
     公式形状は長方丘(幅約28m、約45m)だが円墳とする説有り
     異称で権現山・天王山と呼ばれるが、古墳では無いとする説も有る
能褒野から都に向けて白鳥が飛び立った際に、
羽を休める為の休憩として降りた地に造られたとされる伝承が有るが、
最近の調査では古墳では無く、自然丘陵や地ぶくれであるとされています。

20210413_162939996
墳丘実測図拡大
長方形墳としていますが、西側のみ数段高くなっており、
東西の墳丘裾のラインが緩やかな弧線を描いている事から、
元は円墳だったとする説も有りますが、、、

20210413_162954385
円墳だったとするならば、北西側隅のこの2箇所が該当箇所でしょうか?
特に北西隅の楕円形状の所には露出石材を示す物体がマークされています。
特に何も土器や埴輪などの類が出土したとの話は無いので、
元々はこの地にヤマトタケルに関係する祠や堂が有り、
その名残りとも考えられるかと。。。

20210413_162821405
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
〇白鳥陵:大阪府羽曳野市軽里
     考古学的名称は軽里大塚古墳/前の山古墳/白鳥陵古墳
     全長190mの前方後円墳
     5世紀後半の築造と推定
明らかに小碓命の時代と一致しない為、
命とは別の有力豪族の墓であると推定されている他、
『河内国陵墓図』では木梨軽太子(允恭天皇の第1皇子)の「軽之墓」と記載されてます。

20210413_162830584
墳丘実測図拡大
くびれ部(鞍部)北側の造出しが目立ちますが、
南側にも小さく造出し様の部分が見られます。
後円部頂部平坦面が広い事から、複数の主体部が想定されています。

他に治定外の古墳として、
・白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)円墳
・武備塚(鈴鹿市長沢町)円墳
・双子塚(鈴鹿市長沢町)前方後円墳 
 =日本武尊は双子で二人とも葬られたという伝承が有ります。
  確かに大碓命・小碓命は双子という記載が『記紀』には有りますが、
  それだけでヤマトタケルの墓とするには根拠が薄く疑問
  兄弟皇子が仲良く?一緒の墓に埋葬された例は皆無です。
掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)前方後円墳 
 =大和の白鳥陵が他の2基に比べて規模が小さい事が理由ですが、
  年代は合致してません
・峯ヶ塚古墳(大阪府羽曳野市)
 =近年豪華な副葬品が出土した事で知られてますが、
  明らかに日本武尊の年代とは合致してません

『日本書紀』では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は、
官人に命じて伊勢国の「能褒野陵」に埋葬させたが、日本武尊は白鳥となって飛び立ち、
倭の琴弾原、次いで河内の旧市村に留まったので、それぞれの地に陵が造られた。
そしてこれら3陵をして「白鳥陵」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。」
=この説が正しいとすると、能褒野陵にのみ人体埋葬が有り、
 他の2陵は遺骸埋葬が無いとなります。
 しかし、羽曳野市に有る軽里大塚古墳からは、
 主体部は不明なものの、円筒埴輪列が後円部に確認されている上、
 朝顔型埴輪の他、家や蓋などの形象埴輪が出土している事から、
 日本武尊とは別の人物で当地を治めていたであろう首長が埋葬されている古墳と思われます。
 能褒野陵の方も、大きな前方後円墳の周囲に夥しい量の陪塚を伴いますが、
 日本武尊の年代と合致しない為、やはり日本武尊は、
 空想上の人物ではないかとする説が現実的です。
 仮に当時16歳で熊襲征伐に派遣された事が本当だとしても、
 何故、全国に日本武尊伝説や伝承が有るのかは不明です。
 おそらく日本武尊にかこつけて(無理矢理こじつけて)、
 さも「この伝承は日本武尊が発端だ」として、
 地域活性を計ったのかもしれませんね(^^;
 また、ヤマトタケルが関わっている説話は、主人公の名前が各場面で変わる上、
 説話ごとに相手役の女性も全て異なる為、
 伝承のほとんどが後世に創作された話だとされています。

:ヤマトタケルの伝承:
(おおまかな概要のみを書きますので、気になる方はWikiなどでお調べ下さい)

『古事記』
父帝の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえて押し潰し、
手足をもいで薦に包み投げ捨て殺害した。
その為、小碓命は父に恐れられ疎まれて、熊襲兄弟討伐を命じられる。
この時わずかな従者も与えられ無かった命は、
叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き、女性の衣装を授けられた。

『日本書紀』
兄殺しの話は無く父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起きたため、
当時16歳だった命に討伐に遣わしたとする記載が有る。
古事記と異なり、倭姫(倭比売命)の登場は無く従者も十分な数が与えられている

『記紀』で違いが幾つか有りますが、まとめると。。。
・熊襲征伐=古事記は、わずかな従者も無し
      日本書紀は、十分な数の従者有り
・征伐理由=古事記は理由の記載無し
      日本書紀は再び叛乱が起きたから平定を頼む
・倭比売命=古事記では、倭比売命(叔母)が登場
      日本書紀には登場無し
一旦伊勢に行って女性の衣装を受け取ってから熊襲(九州南部 宮崎県~鹿児島県一帯付近)に?
皇居が奈良に有ったと仮定しても、遠回り過ぎでは???

『先代旧事本紀』
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令撃熊襲 時年十六歳
 按日本紀 當作二十七年・・・と記載が有るのみ

『肥前国風土記』
佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述されるが、
いずれも地名伝承である。
小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛(山賊?)をことごとく誅している。

尚、ヤマトタケル/日本武尊が関わっている神社や名所旧跡が有る都県は、
岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、神奈川県、
東京都、山梨県、長野県、岐阜県、石川県、静岡県、愛知県、三重県、兵庫県、
鳥取県、島根県、徳島県、香川県、福岡県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県
・・・の各都県に多く有りますが、
大阪府には白鳥陵以外に伝承が無いのが不思議です。

また、弥生時代中期~後期頃の平均寿命が14~15歳頃だと考えると、
16歳という年齢はさほど不思議では有りませんが、
時代を考えると、粗末な武器や武具で大勢の従臣や兵を連れて全国を征伐して巡るのは、
現実的に考えても不可能です。
また、『記紀』は奈良時代に編纂された神話や古代の歴史を伝える歴史書ですが、
前半部分は神話に基づく話が中心であり、創作性も高いため、
前半部分は単なる伝記とされていますが、後半部分は近年の考古学的調査により、
記述が裏付けられた事が有る
為、疑問点は相変わらず有りますが、
同時代の史料が少ない為、「とりあえず」的な感じで重要史料とされています(^^;


:結論:
〇実在しない架空の人物である可能性が大きい
=生年が不明な上、没年の西暦年も諸説有って判然としない
=熊襲征伐が知られているが『記紀』で記述の違いが有り信憑性が低い
〇多くの都県に伝わる伝承や説話は後世の創作である
=記紀には熊襲征伐のみ記載されている
〇16歳で征伐に派遣されたとあるが、現実的に考えても、
 上記の多くの都県を渡り歩くのは不可能である
〇古事記では嫌われ者として遠ざけられる存在で、
 日本書紀では天皇(父帝)の信頼が厚いが、この扱いの差は何故か疑問
〇治定されている3基の墓はどれも年代が合致しない
〇仮に実在したとしても弥生時代中期~後期頃である事

以上で日本武尊墓についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は景行天皇の皇子である、
大碓命の墓について考えてみました(^^
20210321_135758055
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
猿投神社から山頂へ登った所に墓所が営まれてます。
墓域は線で囲ってある部分全てとなりますが、
山頂の墓だけでなく、さらに北東方向に進んだ所に有る、
御船石)の近くまでの広い範囲に及んでます。

※御船石
 猿投山及び周辺は基盤部分の花崗岩類が高く盛り上がって出来た猿投山塊を形成しており、
 御船石はその山頂部分の花崗岩が長い年月を経る内に、
 風雨などで削られ、現在見られる様な姿になったとされています。
 大碓命が猿投の地に来た際に乗っていた船が石化したとの伝承が有りますが、
 巨石が山中に多く見られる事から、古くから巨石信仰が有った地とされています。


20210321_135804185
墓の墳丘実測図 拡大
やや南北に長い囲い込みの中に墳丘が見られます。
一見すると方形墳に見えますが、公式形状は円丘となってます。

現地の説明板には「土盛は七色の土を盛って築かれ、
棺は土器で作られたといわれています」と記載されてます。
まず気になったのは「七色の土」。。。
猿投山の基盤となる花崗岩を形成している黒雲母、石英、長石などは、
光に当たるとキラキラと反射して色んな色合いに見える為、
『高貴な人物が葬られている』という事を表現する為に、
粉状になった上記石材を土に混ぜた上で、
「七色=極彩色?」という表記をしているのだと思われます。

次は「棺は土器で作られた」という点。。。
割れやすい素材の土器でわざわざ棺を造るか?という疑問。
弥生式土器は縄文式土器に比べれば焼成温度が高めなので、
やや硬めに造られますし、円筒埴輪を流用した埴輪棺というものが存在しますが、
景行天皇の時代頃にはまだ出現しない(古墳時代中期頃に出現)ので、
土器で棺を造るという話は非現実的です。。。

また、墳丘画像を見る限りで、
目測規模は直径10m✖高さ1,5m程度であり、
墳丘斜面や角度も非常になだらかで、大きな棺が埋まっている様には見えません。
尚、地面に土壙を掘った中に埋納してるかもしれませんが、
墳丘実測図を見てみると、墓の等高線と山頂付近の等高線が一致している為、
人工的に造られた古墳では無く、山頂付近の土膨れを囲っただけの様に見えます。
また、景行天皇の時代頃(弥生時代中期~後期頃)の墓制で、
山頂近くに墓を造る事は無い為、やはり現墓は古墳では無い可能性が高いと思われます。

景行天皇自体も実在性が低い人物である為、
前回書いた五十狭城入彦皇子同様、実在性に疑問が持たれている人物なので、
墓では無いとすれば、猿投神社に関係する経塚や禁足地だったのではないでしょうか?
もしくは古くから巨石信仰が有った地なので、御船石から近い場所に有る当地に、
別の巨石が有り、それを猿投山で蛇に噛まれて死んだ大碓命の伝承を基に、
土を盛って造った塚ではないかと思われます。

次に人物像を見ていきます。。。
〇大碓命
読みはオオウスノミコ/オホウスノミコ
生没年は不明⇐(公式発表)
景行天皇の皇子であり小碓命(ヤマトタケル)とは双子とされてます。
出産の際に天皇が臼に向かって叫んだので「碓」の名が付いたとされています。
この事から元は「臼=>米などを挽く=>豊穣関連の神様?」では無いかと思います。
初代から9代目の天皇までは、天皇や皇族は日本古来の神様を、
擬人化したとの説が有る
為、大碓命も「大きな臼」が擬人化されたのではないでしょうか?
・・・以前出版されていた児童向けの日本の歴史(漫画版)では、
大碓命は小狡い悪人顔の人物で、小碓命はすっきりした顔だちのイケメンという風に、
それぞれ描かれていたのが印象的でしたが、勿論あくまで創造であり、
実際にイケメンや小狡い顔立ちだったのかは不明です(^^;

『日本書紀』
・景行天皇が美濃国に美人姉妹が居ると聞き、その調査の為に大碓命を派遣するも、
 よほど気に行ったのか密通(男女関係を持つ事)してしまい、
 天皇から大層恨まれた。
・天皇が蝦夷平定の適任者として、征西を終えたヤマトタケルから進上された大碓命だが、
 草むらに逃げた為、使者を使って召還させられた上、天皇から責められ美濃国に封じられた。
 ちなみに、東征は結局ヤマトタケルが行ってます。

『古事記』
・天皇が美濃国に美人姉妹が居ると聞き、大碓命が視察に派遣されるも、
 密通し、天皇には偽って別の女性を献じた。
 この時に大碓命が美濃国居座った為、美濃国造の祖となった。
・大碓命が朝夕の食膳に出て来ないので、
 天皇が小碓命に「ねんごろに教えよ(様子を見に行ってこい)」と言うも、
 天皇の命を曲解した小碓命は大碓命を捕えて手足切断の上、薦に包んで捨てたと言ったので、
 恐怖を感じた天皇は小碓命を和歌山に少数の兵と共に追いやった。

美人姉妹を視察に行って密通してしまうのは、『記紀』ほぼ共通の記載ですが、
古事記ではその後に「美濃国に居座った」と記載されてます。
当地の伝承では「命に怒りをおぼえた天皇が戒めとして美濃国に封じた」と有り
天皇から「都に帰ってくるな」と言われたのに、
古事記では「都に帰りたくないから美濃国に住み続けた」
・・・という違いが有ります。。。
どちらが正解なのでしょうか?(^^;
また、日本書紀には大碓命が命を落とす場面の記載は無く、
古事記には蝦夷平定の件の記載が有りません
。。。

尚、大碓命を祭神としている猿投神社には、
命が蛇に噛まれて毒により42歳で没したとする伝承が有り
ますが、
それだと、古事記に記載された小碓命に殺害された記述と合致しなくなります。
また、この猿投神社に伝わる「蛇毒により42歳で崩じる」ですが、
宮内庁の公式発表では「生没年不明」です。。。
事績の欄も美濃国での姉妹視察以外に無いので、
美濃国での1件は別のずっと後世の人物であり、
大碓命は実在しない人物である可能性が高い様に思います。
また、弥生時代中期~後期頃の平均寿命は14~15歳程度とされているので、
明らかに長生きし過ぎであり不自然です。

:結論:
〇大碓命は臼を擬人化したか?
〇公式発表は生没年不明なのに42歳で没したとの伝承が有る不思議
〇伝承と『記紀』に記載されている内容とに相違が有る
〇没年が正しくても当時の平均寿命と照らし合わせると非現実的である
〇古事記と日本書紀で記載されている内容に相違が見られる
〇弥生時代中期~後期頃に山頂などの高い場所に墓を造る慣習は無い
〇墳丘実測図の等高線と山の等高線が一致する箇所が有る為、
 山頂の地膨れか巨石信仰関連の遺構を土で盛った可能性が有り、
 古墳では無い可能性が高い
〇「七色の土」は何となく想像できるが、「土器で作った棺」がどういう物か謎
=円筒埴輪を棺に流用したのは古墳時代中期頃となる為、年代が合致しない

以上で大碓命についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は景行天皇の第10番目の皇子とされる、
五十狭城入彦皇子の墓について考えてみました(^^

まず、この五十狭城入彦皇子ですが、
読みはイサキイリコノミコと読みます。。。
生没年も事績も不明となっているため、
架空の人物であり、実在しない可能性が高いとされています。

20210321_135735283
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
墓の公式形状は前方後円墳ですが、墳丘を囲む柵は、
何故か前方後方状になってます。。。

20210321_135742511
墳丘実測図拡大
墓の考古学的名称は和志山古墳と呼ばれる、
全長60~80m、後円部径32m、後円部高さ5m、
前方部幅20m、高さ2,5mの規模を持つ前方後円墳で、
築造年代は4世紀末~5世紀初頭と推定され、墳丘表面は葺石で覆われ、
円筒埴輪列の存在が認められてます。
墳丘の等高線が乱れているのは隣接する蓮華寺の建立によるもの。
周囲に5基の陪塚を伴う和志山古墳群を形成していますが、
宮内庁治定の陪塚は有りません。
墳丘規模に関しては、平成22年に宮内庁書陵部による、
墳丘測量調査により確定しています。
墳丘の様子は深い木立に覆われている為、
ストリートビューや航空写真では分かり難いですが、
隣接している蓮華寺の境内などからは観察可能だと思われます。

治定の経緯は明治28年に宮内省により陵墓伝説地に指定された後、
明治29年に墳丘上にあった薬師堂及び石塔が撤去(後円部頂部平坦面が広いのはこの為)され、
大正15年に「矢作陵墓参考地」に名称変更、昭和16年に五十狭城入彦皇子墓に治定されました。

また近くにある和志取神社は五十狭城入彦を祭神として祀っている。

五十狭城入彦皇子は『古事記』には記載は無く
『日本書紀』には系譜のみで事績は無く、生没年も不明ですが、
『先代旧事本紀』や『天皇本紀』では三河長谷部直の祖であると記載されています。
しかし、生没年も事績も不明な人物なのに、何故氏族の祖先と断定できるのかは不明。。。
また、『新撰姓氏録』に景行天皇皇子の「気入彦命(けいりひこのみこと)(※)」が、
逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える事から、
この人物を五十狭城入彦皇子と同一人物とする説が有ります。
ちなみに・・・何故、皇子の墓がこの地に有る(治定されたのか)のかの理由は、
公式見解が成されていない為、定かでは有りません。

※気入彦命(けいりひこのみこと)
 『記紀』にはこの皇子の名は記載されていない事や、
 名前の類似点から、景行天皇の5番目の皇子である、
 五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)と、
 同一人物であるとする説が有る。
 尚、気入彦命も五百城入彦皇子も
墓は治定されていない
 また、五百城入彦皇子は日本書紀にのみ記載が有るが、
 古事記には無い。
  
景行天皇や垂仁天皇には皇子女が複数人居り、
特に皇子を各地へ派遣して治めさせたとの記載や伝承が有りますが、
そのどれもが確実とされる史料が無い為に、確証は有りません。。。
五十狭城入彦皇子も現在の岡崎市付近に派遣されたのかもしれませんが、
『記紀』のどちらにも事績が無いというのは謎です。
もし、実際に派遣されていたのであれば何かしらの記録がされているハズですが。。。

また、景行天皇の10番目の皇子との事ですが、
景行天皇の時代を日本の年代に照らし合わせると弥生時代中期~後期頃となるので、
この時代に近畿以外で全長50mを超える前方後円墳が造られる事は無い上、
古墳の推定築造年代と仮に皇子が実在したとしても年代が合致しません
医療が発達していない上、衣食住も現代と比べると大変貧相だったと思われる為、
弥生時代頃の平均寿命は14~15歳程度とされています。
その為、現在治定されている古墳は皇子とは全く関係の無い人物で、
陪塚を伴う事から、この付近を治めていた首長墓であるとされています。

:結論:
〇皇子の事績や生没年が不明な事から非実在性が高い
〇治定されている古墳の築造年代と皇子が生きたであろう時代が合致しない
〇景行天皇が居たとしても弥生時代に全長50mを超える古墳が、
 近畿以外に造られた例は皆無
〇『記紀』に事績の記載が無いのに、『先代旧事本紀』『天皇本紀』に、
  記載が有るのが謎
 =後世の創作であるとする説が有る
 =別の人物と混同した説も有る
〇当地を治めていた首長の墓及び親族の古墳群である可能性が高い


以上で五十狭城入彦皇子墓についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は開化天皇の第3皇子である、
日子坐命の墓について考えてみました(^^

20210321_135648388
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
参道が恐ろしく長いので、ページの中央部分いっぱいに記載されてます(^^;

20210321_135655142
墓域部分拡大
やや急な斜面上に突き出した岩(自然石)が墓とされ、
周囲を石柵で囲い、拝所と階段が整備されてます。

〇日子坐命/彦坐王
読みはヒコイマスノミコトもしくはヒコイマスノオウ
生没年と事績は不詳(不明)で『日本書紀』では彦坐王、『古事記』では日子坐王と記載。
他の文献では「彦今簀命」と表記されたりしてます。
開化天皇の第3皇子で、景行天皇の曾祖父に当たる人物とされていますが、
開化天皇は実在性が疑われる欠史8代の人物であり、
実在したとしても縄文時代早期頃となる為現実的に考えても存在したとは思えません。
また仮に位の高い人物が居たとしても、村落の長の家族や親族の一人であり、
縄文時代という時代的に「皇子」や「王子」と呼ばれる人物が居たとは考えにくいです。
また、墓の公式形状は自然石となっており、
石室の一部が露出したとする紹介HPや説明文を付けた画像なども有りますが、
縄文時代後期~弥生時代早期頃に石室を構築した墓は存在しない為、
石の下に埋葬主体部などは有りません。
石材は隣接する伊波乃西神社の磐座であると思われます。
尚、学界では架空の人物である可能性が非常に高いとされています。

また、ふと思った事なのですが、、、
仮に樹木が一切無い斜面に古墳が有り、石室が露出していたら、
まるで「盗掘してくれ」と言わんばかりでは?と(^^;
普通はこんな急斜面に墓を造らないと思いますが。。。
封土流出どころでは無く、崩壊してしまいそうです。
現地の写真画像を見てみると分かりますが、
「こんな所に墓を造るか?(汗」という程です(^^;
衾田陵や行燈山古墳なども傾斜地に造られてますが、
日子坐命墓の有る場所はもっと急な斜面です。。。

伝説として、「丹後風土記残缺」に記載された土蜘蛛退治伝説が有ります。
崇神天皇の時に、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)と匹女(ひきめ)を、
首領とする土蜘蛛がいて人民を苦しめたので、日子坐王が勅命を受けて討ったという内容。
尚、「丹後風土記残缺」は奈良時代に国別に編纂された地誌である「丹後風土記」の一部が、
京都北白川家に伝わっていたものを15世紀に智海という僧侶が筆写したものといわれる。
15世紀・・・だいぶ新しい書物ですね(^^;
奈良時代以降の山賊と呼ばれる集団は、都などに居住している人々と比べて、
質素な衣類を身に纏い、髪も綺麗に整えずにザンバラ頭の様な風貌で、
山中や人里離れた谷地などに住んでおり、肌も黒く見えたため、
「土蜘蛛」などと呼ばれていた時代も有るそうです。
なので、「土蜘蛛退治伝説」は天皇(もしくは倭国王?)が治世の平安の為に、
部下や王子に命じて鎮圧/征伐させたのを、そのまま伝えるのは残酷なので、
後世に昆虫や動物などに例えて民衆に伝承させた・・・。。。
・・・という様な感じだったのでは?と思います。

しかし、1点疑問に思うのは崇神天皇は何故自分の皇子では無く、
叔父に当たる日子坐命を派遣したか???
大入杵命は能登国に、八坂入彦命は美濃国に、
それぞれ派遣した後で人が足りなかった可能性は有りますが、
「丹後」という場所であれば、天皇の傍に居たとされ、
墓も奈良県内に有る倭彦命が、派遣されても良さそうに思いますが。。。

日子坐命の墓が八坂入彦命と同じ岐阜県に有るのは、
上の伝説が基になっている(征伐しに行って自分も討ち死に?)と思われますが
実際のところは、崇神天皇も実在性が乏しい人物(※)(実在しても縄文時代晩期頃)だし、
その3人の皇子も実在性に疑問が持たれていますので、
こういった伝承も古来の神様や天皇・皇族の武勇伝的な話題に、
すり替えてしまう事が、中世頃から常態化していたのだと思われます。

(※)皇族陵墓と陵墓参考地の考察が終わり次第、
  「まとめ」として簡単にですが天皇史に関する疑問についての、
  私論を書く予定ですので今しばらくお待ちを(^^;

:結論:
〇日子坐命は架空の人物である可能性が非常に高い
〇父帝の開化天皇も実在しない人物である為、子も架空の人物であろう
〇仮に実在したとしても縄文時代後期~弥生時代早期となる為、
 現実的に考えても実在は無理が有る
〇縄文時代~弥生時代頃の平均寿命は15歳前後であるため、
 現在の奈良市付近から丹後地方へ山賊征伐に向かうのは体力的に無理
〇墓とされている石材は石室石材では無く、ただの自然石
=縄文~弥生時代早期頃に大掛かりな石室を構築する墓は造られていない
〇墓とされている自然石は隣接する神社の磐座だった可能性
〇墓石とされている2個の巨石は元は1個だったものが、
 風化により2個に割れた様に思う

以上で日子坐命墓についての考察を終わります。


新年度が始まり本業が多忙になってきている上、
季節の変わり目で持病が出てしまう為、
各々落ち着き次第、順次更新していこうと思いますので、
気長にお待ち下さいます様宜しくお願い致します。。。 m(_ _)m

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は後醍醐天皇の孫とされる人物である、
尹良親王墓について考えてみました(^^
20210321_135626990
陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
親王の墓とされる墳丘はページの右側に記載されている、
自然丘陵中の方で、残り3基の陪塚は親王の従臣達の墓とされており、
それぞれ「い、ろ、は号」として宮内庁の管理下に有ります。
ただ、これら3基の円塚や石塔などを陪塚とするならば、
何故親王墓から離れた位置に有るのかが謎です。。。
本当に従臣の墓であれば、親王墓の周囲に有っても良さそうですが。。。
現在は親王とは関係の無い人物の供養塚や中近世塚とされています。

20210321_135634407
親王の墓とされる墳丘実測図の拡大
やや長方形状の域内に2段築成の方墳が描かれてます。
尚、公式形状は「円丘」となってますので、円墳状かもしれません。。。
こんな所に墓を造るのか?という疑問が有ります。。。
本当に後醍醐天皇の皇孫であるならば、京都以外で討ち死にしても、
火葬後遺骨を京都や後醍醐天皇が埋葬されている大原に移送するのも可能では無かったか?
・・・という疑問。。。
神社の境内に有るので、元は経塚か磐座などの禁足地だった所に、
地元の伝承に基づいて盛土した可能性も有るかと思います。

読みはユキヨシシンノウ(公式の読み)
名の読みは他に「タダナガ」「ユキヨシ」「コレナガ」などが有りますが、
どれが正しいのかは確定していません。。。
生没年は正平19/貞治3(1364年)~応永31(1424年)
墓の位置は長野県下伊那郡阿智村浪合字宮の原 浪合神社境内に位置してます。

後醍醐天皇皇孫とされる人物で、南北朝合併後も井伊道政と共に北朝と戦い、
信濃で世良田政義らと挙兵したが、三河国に向かう途中の浪合で戦死(自害)したと伝わる。
王子に長王が居り、津島神社社家の氷室家の祖となったと伝わります。
「浪合記」や「信濃宮伝」などの軍記に見られ、
これらの軍記によれば、父親王(宗良親王)の討幕の意志を継いで東国各地を、
転戦したと伝えられ、1424年敗戦し自害したとされるが、
「浪合記」や「信濃宮伝」も内容に矛盾や時代錯誤が多く、
近世前期成立の偽書と推定されていることから、
学界では親王の実在性が疑われているのが現状となってます。
また、伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯には、
「ユキヨシ様」を祀る習俗が広く分布しているが、
伝記によれば浪合合戦で戦死したのは足利直義の落胤である之義(ゆきよし)であるので、
混同した可能性が高いとされています。

墓は浪合神社に隣接する地に、親王の首を埋めたとされる円墳と、
側近3名を葬ったとされる塚3基を陪塚として、宮内庁の管理下にあります。
尚、陪塚は「千人塚」とも呼ばれています。
疑問に思うのが、円墳に埋葬されているのは親王の首のみ。。。
胴体は何処に埋葬されているのでしょうか?
何も情報が無いので不明ですが、首検分を受けた後で、
胴体も一緒に埋葬されていると考えた方が自然に思います。。。

尚、墓が治定されるまでの経緯は、天保年間には既に親王碑建立の計画が有ったものの、
実現に至らないまま明治時代に入り、明治13年6月の明治天皇西巡の際に、
天皇の勅命を奉じて飯田に来た人物に、資料を提出して親王墓の公認を申請した結果、
親王の事績の調査が入り、明治14年に現墓が治定されたそうです。

また、岐阜県の東濃(中津川市・恵那市)に伝わる伝説では、
親王は浪合で死なず、従士を召し連れ、柿の衣に蓑を掛けた山伏姿に変装して、
美濃笠置山の麓の郷に落ち延び、松王寺で再起を図った。
大河原で敗戦した従士達も集まって農耕をしながら暮らしていたが、
足利方の知る所となって敵兵が来襲したため、
従士49人が討ち死にし、親王も自害したという。
中津川蛭川と恵那市笠置町毛呂窪に親王の墓所と伝わる石塔が残ってます。
討ち死にした従士は49名もいるのに、陪塚は3基のみ。。。
そして、親王墓からも距離が離れている(親王墓に隣接して無い)ので、
やはり現在宮内庁の指定・管理下にある3基の陪塚は、
親王とは何も関係が無さそうに思います。。。

親王墓も3基の陪塚も、レーダー探査調査などの、
非破壊調査を実施すれば、墳丘中や石塔の地下に何が埋まっているか、
直ぐ判別できそうに思いますが。。。(^^;
伝承や伝説のまま現墓を管理するよりは、
機器を使って白黒はっきりさせた方が良さそうに思います。

尚、他に有る伝承地は以下に
・尹良親王墓 越中伝承地:富山県南砺市大塚
・津島神社若宮社:愛知県津島市神明町 祭神は尹良親王
・津島・大龍寺:愛知県津島市北町 尹良親王の菩提寺
・南朝神社:岐阜県中津川市蛭川 祭神は尹良親王
・川宇連神社:愛知県北設楽郡豊根村坂宇場御所平 
・松王寺:岐阜県恵那市笠置町毛呂窪
・尹良神社:愛知県豊田市御所貝津町 祭神は尹良親王

:結論:
〇親王の実在性に疑問が有る
=神社境内に有る事から、元は経塚であった所に土を盛ったか?
〇親王の事を記載した史書は偽書とされる
〇別の同じ読みの人物と混同した可能性有り
〇陪塚は親王とは無関係の人物の供養塚の可能性有り
〇3基の陪塚に埋葬されたと伝わる人物の、
 各々の名前や出自も不明なのが疑問


以上で尹良親王墓についての考察を終わります。

↑このページのトップヘ