関東の古墳&史跡探訪

関東地方(主に埼玉県や茨城県)の古墳や遺跡、神社仏閣等を見学し紹介してます。 個人的に好きな陵墓関係の記事や書籍も紹介してます。

皆様こんばんは~(^▽^)

本日は第28代天皇である、
宣化天皇と陵墓について考えてみました(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は鳥屋ミサンザイ古墳と呼ばれる、
全長138mの前方後円墳で出土した埴輪片から、
6世紀前半頃の築造と推定されており、葺石を伴うとも報告されています。
また、この陵墓古墳には皇后の橘仲皇女を合葬するとされています。
尚、天皇と合葬された皇后は、他には天武天皇の皇后である持統天皇だけです(^^
その他、未成人の皇女も天皇・皇后と共に合葬されているとも伝わりますが、
実際に上記の通りだとしたら、内蔵されていると推定される、
大型の石材を使用した長大な横穴式石室内には、
3個以上の棺が安置されていると思われますが、石室が調査された実績は無いので、
不確定の伝承扱いとなってますし、『延喜式』にも合葬の記録は有りません。
墳丘1段目のくびれ部両側に造出が有る他に、
前方部東側にも張出状施設を有しています。
墳丘周囲に盾形の周濠が巡りますが、
後世のため池(鳥屋池)工事の際に大きく改変を受けています。

「荒蕪」図では3段築成に見えますが、墳丘を調査した結果、
実際は2段築成である事が判明しています。
おそらく天皇陵という事で、「荒蕪」図も立派に描いたのでは?
・・・とされています。

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「成功」図 全体像
周濠は一部を灌漑用の池と混同しない様にする為か、
盾型となる様に周濠内に杭を立てて区別してあります。
現在は勿論腐蝕や経年劣化の為にこの杭は見られませんが、
水を抜いた上で調査すれば、杭の根本付近は残っているかもしれません。

また、周濠発掘調査時に外堤より18世紀代の遺物が検出されている事から、
修陵前から灌漑用として利用、整備された可能性が高いとされています。
くびれ部の両側に造出を持ち、剣菱型と呼ばれる墳形が特徴ですが、
被葬者を宣化天皇に当てるには宣化の没年と数十年の開きが有る為、
治定替えが必要とされています。

また、修復当時は倭彦命墓か宣化天皇の陵墓の、
どちらかであるかという論争が有った事で有名な陵墓古墳で、
宣化天皇陵も倭彦命の墓も陵墓名に、「身狭桃花鳥坂」
・・・という字が有った為に出た論争だった模様です。
結局、延喜式に記載されていた神社や、
付近にある白鳥陵などから判断して、
宣化天皇の陵墓であると決定した模様ですが、
現在までに実施された調査で確実に宣化天皇の陵では無いとされているので、
ひょっとしたら現在倭彦命の陵が宣化陵かもしれませんが、
倭彦命の陵は巨大な方墳で、築造年代もぐっと新しいものなので、
真の宣化陵は他を探した方が賢明かもしれませんね(^^;

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像
前方部を北東方向に向ける様な感じで築造されています。
前方部東側の張出状盛土もはっきり確認できる上、
2本の渡堤も確認できます。
この張出状遺構は崩壊によるものなのか、
修陵時に付加されたものなのか、
築造当時から存在するのか・・・など、正体は現在も判明しておりません。。。
個人的には経年による自然崩壊と思われますが。。。

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墳丘実測図拡大
墳丘の等高線は乱れが少なく、2段目から上は特に整美な墳丘の様です。
後円部頂部平坦面が広いですが、前述の通り南面方向に開口するとみられる、
横穴式石室を内蔵していると推定されています。
また、前方部頂部にも円形の盛土が確認できるので、
この部分にも副室的な構造物が埋蔵されている可能性も有ります。
宣化陵では無いとする見解が出ているので、
宣化天皇以外の大王クラスの人物が埋葬されているのでしょうね。


次に人物像を、、、
名前は檜隈高田皇子(ヒノクマノタカダミコ)
・生没年:雄略天皇11(467)年~宣化天皇4(539)年
・在位期間:安閑天皇2(535)年~宣化天皇4(539)年
在位年数5年、73歳で崩御。
継体天皇の皇子として生まれる。
安閑天皇の弟に当たります。
宣化天皇の即位と共に蘇我稲目が大臣に任命され、
蘇我氏の台頭がここから始まったとされています。

しかし、安閑天皇が崩御したのを受けてから即位しますが、
即位時の年齢が69歳と高齢だった為、大きな事績はみられず、
安閑・宣化の皇統と欽明天皇の皇統が並立していたとの見解が有る上、
即位後5年余りで崩御したとされていますが、
そうであった場合、弟の欽明天皇とは40歳近く年齢が離れていたという事になり、
不自然であり、兄弟相続なので若くして即位したことはなくとも、
もう少し即位時の年齢も崩御年齢ももう少し若かったのでは?と思われます。

尚、ネットで検索すると表示される天皇の肖像画は勿論想像図ですが、
見た目は白髪の顎鬚をたくわえており、天皇というよりは仙人の様な風貌となってます。

尚、伝わる事績には、のちの大宰府にあたる政治・外交・軍事の統括機関である、
那津官家を設置し、その財源を官家に運輸させるよう詔を出したという記述が有ります。
このことから対朝鮮関係を重視した事が分かりますが、
在位期間が短い為に、伝わる事績はこれだけです。

また、都(皇居)の位置は、現在の奈良県高市郡明日香村檜前に有ったとされる、
檜隈蘆入野宮(ひのくまのいおりののみや)とされていますが、
やはり皇居と陵の距離が少々離れ過ぎているので、
明日香村付近で真陵候補を探す必要が有るかと思います。

実在はしたのでしょうが、即位/崩御年齢が長すぎる上、
弟の欽明天皇と年齢が離れ過ぎている事になるので、
年齢の再考証が必要な天皇ですね(^^;


:結論:
陵墓としては、、、
〇陵墓古墳の築造年代と崩御年齢に数十年のズレが有る事が判明している

人物としては、、、
〇即位時の年齢が不自然
〇崩御時の年齢が当時の平均寿命を超えている
〇事績が少ない

その他、、、
〇未成年の皇子女も合葬されていると伝わるが未詳
〇皇居と陵の距離が離れて過ぎている


以上で宣化天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第27代天皇である、
安閑天皇と陵墓について考えてみました(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は高屋築山古墳と呼ばれる全長121mの規模を持つ前方後円墳で、
6世紀初頭頃の築造と推定されています。
「荒蕪」図はおよそ陵墓とは思えない様な外観ですが、
東側から後円部を描いたと推定されています。
絵図左側に見える土手状のものは、周堤では無く高屋城の城郭として利用された際に築かれた、
土塁の名残りだそうです。

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「荒蕪」図 頂部拡大
何やら地蔵堂の様な物が頂部に見られますが、
元々墳丘が城郭として利用されていたので、城郭遺構の名残りである可能性も有りますが、
墳丘実測図を見ても、後円部頂部には平坦面が広がっているのみなので、
修陵の際に撤去されたと思われます。

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「荒蕪」図 墳丘裾拡大
中央の水が溜まっている辺りは周濠の名残りと思われますが、
その手前に木製の階段が設置されています。

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「成功」図 全体像
拝所を整備し、周濠を掘削して水を張った状態。
拝所の正面には前方部と見られる墳丘が有りますが、
これまで紹介してきました、他の陵墓の「成功」図とは、
雰囲気も外観もかなり違います。
墳丘が城郭として利用されたからか、墳丘の段築の様子も分からなくなってます。
また、修陵では外形を整形しきれなかった可能性が高いと推定されていますが、
それだけ城郭建築による改変が大規模なものだったのであろうと推定されています。
しかし、安閑陵も明治期までに数度の修陵を受けているので、
何故墳丘を少しでも復旧させなかったのかが疑問です。
神武陵には破格の予算をつぎ込んでいるのに(^^;

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
大王級の規模を持つ前方後円墳には違いありませんが、何故か陪塚は有りません。
南へ約270mの位置に皇后の陵として治定されている古墳が有るのみ。

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墳丘実測図拡大
等高線が歪みまくってます。。。
埋葬主体部は築造年代から横穴式石室が採用されていると推定されていますが、
築城の際に石材が出た等の記述が無い為に、
破壊されておらずに残っている可能性が有る模様で、
2段目テラスの南西方向付近に開口すると推定されていますが、
果たして現在も残っているのでしょうか?
実測図も大正10年に作製されたものなので、経年劣化や葺石の状態など、
色々なチェックを実施して欲しいです。。。

墳丘は主軸に対して非対称であり、前方部北側が直角に近いことから、
他の古市古墳群や百舌鳥古墳群などの巨大前方後円墳でみられている、
整美な墳形では無くなってます。
とくに北側は、長方形に近い形式といえます。
「荒蕪」図からも墳丘が山城特有の急角度な改変が、
ほどこされていることがわかります。
墳丘内外には土塁が築かれており、今も墳丘外の不動坂の東西には、
当時の土塁が残っており、拝所から南西方向に約230mの所にも、
「二の丸土塁跡」と呼ばれる遺構が、グーグルマップで確認できます。

渡橋が前方部南寄りと後円部南側に各1本有ります。
くびれ部があまり無く、後円部よりも前方部の幅が広いのは、
畠山氏の居城である、高屋城の本丸がおかれていたので、
その築城の際に大きく改変されたとされています。
後円部の方に本丸が建てられていたならば、
埋葬主体部は破壊されていたのでしょうね。。。

安閑天皇陵についても諸説あり、
皇居が奈良県橿原市曲川町付近(勾金橋宮)に有ったと推定されているのに、
陵が大阪府羽曳野市古市と距離が離れ過ぎているので、
橿原市内で6世紀初頭頃築造で、横穴式石室を持つ前方後円墳を探した方が、
自然かと思われます。

また、安閑陵は合葬陵で皇后では無く、何故か異母妹に当たる人物を合葬しています。
親子や夫婦合葬は見られますが、兄妹という関係の2人を葬る例は、
安閑天皇くらいだと思われます(^^;


次に人物像を、、、
名前は勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)
生没年は雄略天皇10(466)年~安閑天皇2(535)年
在位期間は継体天皇25(531)年~安閑天皇2(535)年
在位年数5年、70歳で崩御。
継体天皇が越前に在住していた頃に生まれる。
継体の後を継ぐが、このとき皇統が分裂して、欽明天皇系の王統が並立したといわれる。
また、継体の崩御とともに殺害されたとも言われるなど不明な点が多い。
継体天皇の後を継いで即位した時には既に66歳と高齢だったため、
在位期間が短いとされていますが、いくら他に天皇候補が居なかったとしても、
現代で言えば還暦を過ぎて定年退職になるような年齢の人物を即位させるには、
無理が有るという説も有るので、実在はしたとしても疑問の多い天皇だったりします。
また、やはりと言いますか、当時の平均寿命と照らし合わせると、
崩御年齢も即位時年齢も長すぎると思います。
皇后は春日山田皇女ですが、他に妃が3人居たと伝わっているのに、
皇子女が全く居ないというのも謎です。

記録に残る事績は、天皇の私領である屯倉を多数設置し、
皇室財政の充実に務めたと伝えられているのみ。

また、上で異母妹に当たる人物が合葬されていると書きましたが、
継体天皇の皇女で神前皇女という人物で、安閑天皇は皇女の異母兄に当たる人物です。
尚、皇后である春日山田皇女は一緒に葬られてはおらず、
隣接する場所に葬られ、高屋八幡山古墳と呼ばれる、
全長85mの前方後円墳(現状は一辺30~40mの方墳)で、
出土した埴輪から6世紀初頭前後頃の築造と推定されています。
こちらも安閑陵と同じく高屋城の築城/落城に際して、
破壊・削平を受けた可能性が高いとされています。
また、コチラも都から遠く離れている為、一緒に埋葬されているのは、
皇后であり、高屋八幡山古墳には神前皇女が埋葬されているとする説も有ります。
文久年間~明治期の陵墓治定の際に、現在の様になりましたが、
何故、天皇と異母妹が合葬されているとしたか?の根拠は示されてません。

また、合葬されているとされる神前皇女ですが、
継体天皇の皇女とされているのみで、生没年不明となっている事から、
春日山田皇女と同一人物で、神前皇女が真の皇后だったとする説も有ります。
ちなみに、『日本書紀』には皇后春日山田皇女をも合葬したとする記述も有るので、
石室内に3個の石棺が存在する可能性も出ていますが、確証は有りません。

:結論:
陵墓としては、、、
〇大王級の古墳には間違い無いが、安閑陵とするには疑問が有る
〇高屋城築造の影響で墳丘が乱れている
〇文久年間に墳丘の修復は無理だったとしても、
 幾分技術が進んだ明治期には可能だったと思われるが、
 何故墳丘の修復をしなかったか疑問

人物としては、、、
〇実在説/非実在説両方有る
〇即位時年齢も崩御年齢も長すぎる
〇事績が少ない
〇皇后の他妃が3人も居たのに皇子女が居ない不思議

その他、、、
〇皇居と陵が離れ過ぎている
〇異母妹を合葬しているとする根拠が不明
 (『日本書紀』では皇后も合葬の記述有り)
〇皇后を別の陵に治定しているという事が謎


以上で安閑天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第26代天皇である、
継体天皇と陵墓について考えてみました(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は太田茶臼山古墳と呼ばれる全長226mの前方後円墳で、
5世紀中頃に築造されたと推定されています。
修陵前の姿ですが、前方部は3段築成の様子がうかがえ、
後円部墳丘はなだらかな様子が描かれてます。
周辺に複数の陪塚を伴います(宮内庁指定5基、未指定1基)が、
「荒蕪」図には東側の1基(陪塚と号)のみ描かれています。
陪塚と号は現在もくすのき公園内に現状保存されています(^^

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「成功」図 全体像
拝所脇に八幡宮が移動させられていますね。
現在は住宅地になっている為、墳丘西側の太田神社に合祀されたかもしれません。
周堤の高さを嵩上げした上で拝所を整備していますが、
少し気になったのが、墳丘の荒れ様。。。

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「荒蕪」図 修陵前の墳丘
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こちらが「成功」図 修陵後の姿です。。。
前方部の3段築成は変わっていませんが、後円部墳丘やくびれ部辺りの描写が、
荒々しくなってしまってます。

また、裾部分も崖の様な状態になっている箇所が複数有りますね。
裾は周濠に水を入れた際に崩れてしまったかもしれませんが、
後円部墳丘の荒れ様はどうしたのでしょうか?(^^;

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図 全体像

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墳丘部分拡大
前方部東側端が頁の綴じ込み部分に近い為歪んでしまいます(^^;
墳丘の等高線は1段目テラス部分に乱れが見られる以外は、
2段目テラス~墳頂部まではそれほど乱れは見られません。
前方部先端部東側寄りに道の様なものが見えますが、
2段目テラス付近に祠の様な物が有ったかもしれません。

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後円部頂部拡大
埋葬主体部は竪穴系でしょうか?
広い平坦面が確認できます。

ただ、古墳の築造年代と継体天皇の没年にズレが有るのは有名な話で、
真陵は本墳より1.5km東に有る今城塚古墳(6世紀前半 横穴式石室)とされています。
陵の位置について、『古事記』には三島の藍の御陵とし、
『延喜式』には摂津国島上郡に有ると記載されています。
太田茶臼山古墳は茨木市の島下郡に当たる為、
島上郡に当たる現在の高槻市にある、今城塚古墳が真の陵墓と考えられています。
二重の周濠が巡る巨大な前方後円墳で、近年横穴式石室の痕跡が検出されてます。
また、長らく城砦建設の為に墳丘が崩れたとされていましたが、
近年の調査の結果伏見大地震によって地滑り性の崩壊を起こしたと判明しています。

また、付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺片だった可能性が指摘されています。
尚、墳丘整備前に前方部前面の中央部が内濠側へ突き出していた様に見えていたことから、
剣菱形とされてきましたが、調査の結果地震による地滑りで生じた滑落部分であり、
剣菱形とする根拠はなくなった模様。。。

昭和10年(1935)に設置された臨時陵墓調査委員会は、
継体天皇陵をめぐる問題を取り上げ、今城塚古墳を陵墓参考地とするべしという、
答申を出しており、現在の治定を変更せしめるまではには至らないものの、
今城塚古墳が真の継体天皇陵であることの可能性を十分に認めたものとなっていますが、
現在も陵墓参考地とされる事無いまま、昭和33年に国指定史跡に格上げされてます。
宮内庁もこの学説を認めているものの「今更変えられない」という立場の様。。。
治定が間違っている&大幅な治定替えともなれば、
多額の税金が投入される事は間違い無く、またこれまでに管理などで費やしてきた、
税金がほぼ全て無駄だった事にもなるので、国会で追及されるのを恐れているのだと、
思われます。。。(^^;


次に人物像を、、、
名前は男大途王(をほどのおおきみ)
生没年は允恭天皇39(450)年~継体天皇25(531)年
在位期間は継体天皇元(507)年~継体天皇25(531)年
在位年数25年、82歳で崩御。
82歳という年齢は当時の平均寿命と照らし合わせると、
長すぎるので、実在したとしてももう少し若いのでは?と思われます。

伝承では、近江国に生まれ越前国(現在の福井県~新潟県一帯)で育ったとあり、
武烈天皇に子が無かった為即位。
応神天皇の5代孫とされており、当時58歳だった王を探し出して、
皇位に据えましたが、すでに老齢であり、摂津・山城と都を転々とし、
大和に磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)を造営するまでに、
20年もかかっていることから、武烈崩御後の動乱に乗じて、
皇位についた新王朝の開祖とみる説も有ります。
晩年には磐井の乱が起こり、鎮圧に苦労した模様ですが、
伝わっている事績はこれだけ。。。
また、皇位についた際に、武烈天皇の姉(一説には妹という説も有り)である、
手白香皇女(※)を皇后とします。

※手白香皇女の陵とされる古墳は何故か遠く離れた奈良にあり、 
 古墳の築造年代は3世紀後半と大幅なズレが有る。

実在はしたかもしれませんが、
崩御年齢と陵の場所が違う事が明らかな天皇ですね(^^;
宮内庁も陵が違う事を珍しく認めているのに、
何故か治定替えしない例が継体天皇陵です。。。

:結論:
陵墓としては、、、
〇築造年代と崩御年代にズレが有る
〇陵の位置が現代の地域に照らし合わせると今城塚古墳の方が有力
〇横穴式石室採用の時代に生きた天皇なのに、
 陵の主体部は竪穴系
〇現陵は別人で大王クラスとされている

人物としては、、、
〇出身地である「越の国」の史料が少なく信憑性が低い
〇崩御年齢が長すぎる(もう少し若いか?)
〇事績が少ない
〇皇位に就いた時点で平均寿命を超えている
〇都を変更し過ぎ

以上で継体天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第25代天皇である、
武烈天皇と陵墓について考えてみました(^^

この天皇の陵墓の治定は比較的新しい為か、
文久山陵図には記載されていませんので、
陵墓地形図集成に掲載されている実測図や書籍から纏めてみます(^^;

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
懿徳天皇や安寧天皇の陵と似た様な、自然の山自体を陵としたもので、
考古学的名称は有りません。。。
安寧天皇の陵は元々「アネイ山」と呼ばれていた伝承に基づいて治定されていますが、
武烈天皇陵は特に山の名称などは有りません。
自然の山なので、拝所の鳥居建替え工事や管理人詰所設置工事の際の、
事前調査でも何も出ていません。


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拝所付近拡大
修陵時に空濠と拝所を整備して、山の周囲を生垣で囲った以外に、
山自体に手は加えられていない模様。

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最高所部分拡大
自然の山であり、人の手で造られたものでは無いので、
整った等高線が皆無状態。。。

他に真陵候補として、宮内庁が陵墓参考地として指定している古墳に、
新山古墳(全長126m 4世紀前半 大塚陵墓参考地 前方後方墳)が想定されてますが、
崩御年(6世紀前半)と古墳の築造年代が合致しておらず
以前は私有地であり、所有者が植樹の際に穴を掘ったところ、
後方部直下に、組合式石棺を埋蔵した竪穴式石室に突き当たり、
銅鏡34面や金銅製帯金具など多数の副葬品が出土しています。
他にも既に発掘済みの古墳なのに陵墓参考地指定を受けている例は有りますが、
陵墓参考地として管理するならば、副葬品は腐蝕を防ぐ処置を施した上で、
元の位置に戻すのが良いと思う
のですが。。。
また、『山陵志』では築山古墳が真陵として想定されていましたが、
現在は顕宗天皇の真陵とされている為、真陵候補からは外れています。
他には狐井塚古墳(全長75m 陵西陵墓参考地 6世紀前半)が、
真陵候補として挙がっており、崩御年代にも合致する為、
実在したとすればコチラが真陵の可能性が高いとされています。

次に人物像を、、、
名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセワカサザキノミコト)
生没年は仁賢天皇2(489)年~武烈天皇8(506)年
在位期間は仁賢天皇11(498)年~武烈天皇8(506)年
在位年数9年、18歳で崩御
崩御年齢は当時の平均寿命(15~31歳)に照らし合わせると、
平均的であり、現実的な年齢と言えるかと思います。
・・・しかし、実在性に疑問が持たれているので、後世の創作かと思われます。

また、考古学的に考えた場合、上で書いた真陵候補の狐井塚古墳ですが、
竪穴式石室内に長持型石棺を安置する埋葬主体部と推定されていますが、
武烈の前の天皇である仁賢天皇(24代)と清寧天皇(22代)の陵として、
治定されている古墳が横穴式石室を内蔵する前方後円墳なので、
武烈天皇の陵としてわざわざ前時代的な竪穴式石室に戻すという事が、
考え難いし不自然に思います
ので、6世紀前半頃に築造された横穴式石室を埋蔵する、
全長100m前後の前方後円墳を充てた方が自然かと思います。

尚、武烈天皇は「世紀の大悪天皇」的な立位置になってますが、
『日本書紀』に「頻に諸悪を造たまふ。一も善を修めたまはず」と記され、
・妊婦の腹を割いて胎児を見た
・人の爪を剥がせた上で芋を掘らせる
・人の頭髪を抜き丸太の上を歩かせている所に樹木を切り倒させ、
 這い上がってくる者を墜落死させる
・人を桶に入らせ、外に出てくる者を三又の鉾で刺殺させる
・人を樹木に登らせ、下から矢を放って射殺させる
・全裸にした女性の前で馬の交尾を見せ、淫らになった者は処刑、
 ならなかった者は辱めて奴隷にすることを楽しみにした

・・・・など、悪逆非道の限りを尽くしたと記述が有りますが、
これは続く継体王統を正当化するための捏造と考えられており、
中国の古代帝国殷の紂王、夏の傑王の悪行にも同様の記録が見られ、
中国では徳を失った皇帝が徳のある者に位を譲る事が行われる為、
これを踏まえた上で、継体天皇の正当性を表す為に、
武烈天皇を徳の無い者として悪く描く必要が有ったとされています。
事実、『古事記』には一切上記の様な記述は見られません。。。

また、武烈天皇の実在性に疑問の有る説の一つが、
雄略天皇の別称に「大悪天皇」の語が有り『後漢書』などの漢籍にも書かれており、
『武烈天皇紀』に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあることから、
同一人物であるとし、武烈天皇は雄略天皇の荒い性格の一端を別人物として創作した、
実在しない人物という説が有ります。

また、天皇には皇子女が無かったために応神王統は断絶、
妹手白髪郎女が嫁いだ継体王統が始まったとされています。
『日本書紀』では皇后の欄に春日娘子()の名が有るが『古事記』は空欄のまま。
皇子女が居ないという記載は、
『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」
『古事記』に「日続知らすべき王無かりき」と有る。

※春日娘子(かすがのいらつめ)
 『日本書紀』には武烈天皇の皇后として記載されている。
 父母は不明、生没年も未詳、子女無し、出自も不明という、
 謎だらけの人物。
 「春日」という名前からして和珥氏由縁の女性かと思われる程度


現在治定されている陵は奈良県香芝市に有るが、
皇居は泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)で、同県桜井市出雲の、
十二柱神社境内に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑が有るが、
皇居から陵まで21kmも離れている為、現在治定されている陵の位置は不自然。


:結論:
陵墓としては、、、
〇古墳では無く自然の山である
〇他に真陵を充てるべきだが。。。

人物としては、、、
〇実在性に疑問
〇雄略天皇の別人格を一人の人物として創造か?
〇在位期間が短くとも皇后が居ないのが不自然

その他、、、
〇『日本書紀』と『古事記』の記載が合致しない
〇皇居と陵の距離が離れ過ぎている
〇自然の山を修理&管理することが税金のムダではないか?

欠史八代を除く歴代天皇で、
自然の山や古墳では無い所を治定している例は、
安康天皇(第20代 中世の城跡)、武烈天皇(第25代 自然の山)、
仁明天皇(第54代 畑地に陵を造成)
が居り、
真陵は現在も不確定なまま。。。
安康天皇も武烈天皇も実在性に疑問が持たれているので、
もし実在しないとなれば治定解除・天皇の順番見直しが妥当だと思われます。

以上で武烈天皇陵についての考察を終わります。

皆様こんにちは~(^▽^)

本日は第24代天皇である、
仁賢天皇と陵墓について考えてみます(^^

まずは陵墓から、、、
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文久山陵図「荒蕪」図 全体像
考古学的名称は野中ボケ山古墳と呼ばれる、全長122mの前方後円墳で、
出土した埴輪から6世紀前葉頃の築造と推定されており、
墳丘2段目テラスから上が急角度に築造されている事から、
横穴式石室を埋蔵していると推定されています。

「荒蕪」図では周濠を巡らせた前方後円墳が描かれています。
ここで注目したいのは周濠が円筒形(楕円形)を呈している事。
また、左奥に描かれている畦道も弧線を描いている事から、
部分的に二重周濠を持っていたのでは?と思われます。
渡堤の様な畦道も見られ、墳丘は3段築成と描かれています。

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「成功」図 全体像
「荒蕪」図と比べてはっきり違う点は、拝所側(前方部先端側)の周濠のライン。。。
「荒蕪」図では弧線を描いていたのに対して、「成功」図では直線になっている事から、
修陵に際して改変された可能性が高いとされています。
「成功」図の左側(北)に大きな池が2つ描かれていますが、
手前が下田池、上方が上田池と呼ばれる7世紀頃に掘られた古市大溝の名残りで、
現在でもグーグルマップなどで確認できます。

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陵墓地形図集成に掲載されている墳丘実測図全体像
くびれ部の南東側にのみ造出しが付き、前方部の幅が後円部の直径を上回る、
前方後円墳としては最終期の形態となっています。
古市古墳群の中でも新しい時期に造られたされてます。
北西方向に1基陪塚を伴います。
前方部北西側の堤に接する付近の斜面から2基の埴輪窯が検出されており、
本墳に埴輪を供給するために造られた窯であることが判明しています。
北西が高く南東が低いという段丘地形による制約のためか、
周濠は非対称形で南東側の幅の方が広くなってます。
1975~1979年に大阪府教育委員会によって行われた調査で、
後円部東側と前方部北西側の堤で円筒埴輪列が検出されてます。

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墳丘実測図拡大
墳丘の等高線の乱れは江戸時代初期の元和元年(1615)の、
大坂夏の陣で大坂方の真田幸村が、ここに陣をかまえた為とされています。

この古墳を治定した理由としては、ボケ山の「ボケ」を、
王時代の名前である「オケ(億計)」の誤りとした事
となっています。
・・・が、天皇陵で122mは規模が小さ過ぎる事と、
天皇が居住していたとされる皇居は石上広高宮で、
奈良県天理市石上町または嘉幡町に有ったと推定されているのに、
陵と宮が離れているのが疑問です。。。
尚、南へ650m程の距離に石室内から豪華な副葬品が出土した事で、
大王級の被葬者の墓とされる峯ヶ塚古墳が有りますが、
築造時期は5世紀末~6世紀前期と崩御年代に近いですが、
やはり規模が小さい(98m)ので、真陵候補からは外れると思われます。

ここまでで初代から仁賢天皇まで陵と規模を簡単に。。。

神武天皇 方墳 一辺50m
綏靖天皇 円墳 直径30m
安寧天皇 自然丘
懿徳天皇 自然丘
孝昭天皇 自然丘
考安天皇 円丘 直径10m前後
孝霊天皇 自然丘
孝元天皇 前方後円墳 28m
開化天皇 前方後円墳 105m
崇神天皇 前方後円墳 242m
垂仁天皇 前方後円墳 227m
景行天皇 前方後円墳 300m
成務天皇 前方後円墳 220m
仲哀天皇 前方後円墳 242m
応神天皇 前方後円墳 422m
仁徳天皇 前方後円墳 525m
履中天皇 前方後円墳 360m
反正天皇 前方後円墳 148m
允恭天皇 前方後円墳 230m
安康天皇 城跡
雄略天皇 円墳   直径70m
清寧天皇 前方後円墳 112m
顕宗天皇 前方後円墳  90m前後
仁賢天皇 前方後円墳 122m

・・・こうして並べてみると、所々天皇陵とするには、
規模が小さいものが有りますね。。。
突然仁徳天皇陵で巨大化したものの、後は段々と小さくなっていきますが、
神代(欠史八代)はごく小規模~山そのものを陵にするなど無茶振りが目立ちます(^^;
雄略天皇陵で一旦巨大な円墳になった後はまた前方後円墳に戻ります。
・・・が、規模はぐっと小さくなります。
後日別記事で書きますが、一旦継体天皇陵で再度全長200m超えの前方後円墳となり、
直ぐ100m規模に戻ります。。。
何故こうも規模や墳形がバラバラなのでしょうね(^^;
特に時代考証や発掘調査結果をあまり考えずに、
墳丘規模と築造年代、「記紀」の記述や地元の伝承などを基に、
順に「この古墳は大きいからこの天皇陵」や、
「こっちは規模が小さいけど概ね言い伝えに合致してると思う」
・・・といった感じで、治定していったのでしょうけれど。。。

話を仁賢天皇陵に戻しますが、
皇居を天理市内に推定するのであれば、
皇居の近くに陵を造営したと考えるのが妥当であり、
その付近に陵を治定するのがごく自然な流れだと思います。
また、仁賢天皇(兄)と顕宗天皇(弟)の場合、
現在治定されている陵墓間の距離が13kmと離れている事が不自然です。
特に二人の間に確執などが有れば別ですが、
幼少期から寄り添って過ごしてきた兄弟であれば、
陵墓は隣り合っているか距離が近い、
さらに皇居が推定されている天理市石上町付近で2基の古墳が、
寄り添う様に築かれていると考えると、
石上大塚古墳とウワナリ塚古墳の2古墳が有りますが、
築造年代が若干新しく(6世紀後半)両天皇の崩御年とはズレが有るので、
少し南に行った所に有る、東乗鞍古墳・西乗鞍古墳(5世紀末~6世紀前半)が、
「天皇陵=大規模な古墳」という括りを外せば妥当かな?と思いますが如何でしょうか?(^^;
上記2古墳の場合、石上町の他に宮が推定されている嘉幡町からは、
東へ約5km程の距離(嘉幡町コミュニティセンター~西乗鞍古墳までの距離)になります。
あくまで私的な考え&推定ですが。。。
・・・ただ、仁賢天皇の皇居は天理市石上または同市嘉幡町、
顕宗天皇の皇居は明日香村八釣付近と推定されているので、
顕宗天皇の皇居からは少し遠いのが欠点ですが。。。(^^;

次に人物像を、、、
名前は大石尊(オオシノミコト)/意祁命(意富祁王)(オオケノミコ)
生没年は允恭天皇38(449)年~仁賢天皇11(498)年
在位期間は仁賢天皇元(488)~仁賢天皇11(498)年
在位年数11年、50歳(日本書紀)で崩御。
『水鏡』は50歳崩御、『帝王編年記』は51歳で崩御とある。
弟に皇位を譲って皇太子となり、顕宗が早くに崩御したため即位
雄略天皇の娘の、春日大娘(カスガノオオイラツメ)を皇后とした。
娘の手白髪郎女(タシラカノイラツメ)は継体天皇、
山田皇女は安閑天皇、橘仲(タチバナノナカツ)皇女は、
宣化天皇の皇后となっており、この頃が仁徳王統から継体王統への、
移行期と考えられている。
事績は、高麗へ日鷹吉士を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いた事で、
人民から「天下は仁に帰し民はその生業に安んじている」と評されたと伝わります。
・・・が、在位年数が10年を超えているのに事績が少ないので、
非実在説や他の天皇と同一人物であるとする見解も有ります。

:結論:
陵墓としては、、、
〇天皇陵とするには規模が小さい
〇皇居(奈良県天理市)と陵(大阪府藤井寺市)の距離が離れ過ぎている

人物としては、、、
〇事績が少ない
〇崩御年齢が当時の平均寿命を超えている
〇非実在説/他天皇と同一人物説も有る

以上で仁賢天皇陵についての考察を終わります。

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